婚儀の日程が滞りなく終えられて、四日目の朝が明けた。
 安眠を得ることなく三夜を過ごした秋良は、ぼんやりと窓辺にもたれて、美しく掃き清められた庭をぼんやりと眺めていた。
 秋良の心中とは正反対の、清々しく晴れ渡った空に、爽やかなそよ風に、かえって物寂しさが募る。
 どこかから琴の音が聴こえてきて、秋良は目を閉じた。
 そういえばこの三日間、夏月は琴の練習をしろとは言わなかった。そればかりか、他のお稽古やお小言もなかった。
 それなりに気を遣われていたのかと思うと、可笑しくなるが笑えなかった。
「秋良子様、少しお庭を散歩なさいませんか?」
 咲玖来が声をかけてくれる。優しい声音は塞ぎこんでいる秋良を思いやってくれてのことだろう。
「ごめん、今日はそんな気分じゃない」
 せっかくの気遣いを無駄にしてしまうが、どうしても外に出る気にもなれなかった。
「きっと今夜には秋良子様の気分も晴れますわ。今日の天気のように」
 咲玖来は秋良の側に入れたての熱いお茶を置いてくれた。菓子盆には帝から届けられた、愛らしい飾りの干菓子が乗っている。
 桜の花びらだったり、小さな動物だったりの形は、見ているだけで楽しいはずだが、秋良はどうしても洋也を思い浮かべてしまい、辛くなってしまう。
 つい目を逸らしてしまった秋良を、咲玖来は心配そうに見つめる。が、かける言葉を見つけられなかった。
 この姫の変化をどう受け取ればいいのだろうかと、咲玖来は迷っていた。
 新しい側室を迎えることになり、側付きの女房として選ばれた時、咲玖来は少しばかり不本意であった。
 咲玖来は本来、東宮の女官として仕えたいと希望を出していた。
 まだ幼い女東宮に、様々のことを教え、女性としての嗜みや教養を与え、立派な女帝として育て上げたいと望んでいた。
 女性が出世というのなら、その程度しか望めない世の中ならば、女帝を育て、新しい女性の道を広げて欲しい。その礎となりたいと望んでいた。
 それが何故か、側室の、それも身分の低い女性の女房になれと命じられた。
 今の帝は家柄だけに拘らず、能力次第では身分の低い者も高い位に就けると聞いていたので、少なからず失望した。
 所詮は女性のことなど、使い捨ての駒としか考えていなかったのかと。
 けれど急ごしらえの選出で集まった女房たちの顔ぶれを見たとき、これは大変なことだと感じた。
 そこにいたのは咲玖来も一目置くような、聡明で堅実で、人柄もいい女性ばかりだった。
 何故彼女たちが選ばれたのか、その中に自分が入った光栄よりも、恐れに近いものを感じた。
 そこで直接帝から言われたことは、大切な人を守りたいのだという、一言だった。
 その一言に身震いがした。
 大切な人をお預かりする。その重さを感じた。
 咲玖来から見れば、帝の側室たちは、家柄はいいが、そのことを鼻にかけ、自分を磨くことをしない人ばかりだった。
 権勢を競い、他人を追い落とすことしか考えていない。
 帝の側室ともなれば、利権や私欲が絡み、帝が選んだわけではないのだろうが、趣味が悪いとしかいいようがなかった。
 彼女たちが帝の愛情の欠片も得られず、夜の渡りもないのは、それは彼女たちの努力が足りないのだとしか咲玖来には思えなかった。
 そこへ帝自ら選んだ女性が輿入れする。その女房に選ばれた。しかも口が堅く、信用できるものばかりとなれば、かなりの覚悟が必要なことだった。
 最初にその姫を見たとき、微かな違和感を感じた。
 今もその違和感は消せない。その正体もわからない。
 けれど、それはどうでもいい事だった。
 優しくしとやかな姫は、思いやりが深く、他の姫たちから隠れるように過ごし、帝の寵愛も自覚が薄かった。
 咲玖来たちにも気を遣い、権力を笠に着ることも一切なかった。
 何かに怯え、ひっそりと佇む姿は、一輪の名もなき白い花のようだった。その清楚な美しさは、帝の愛情を一身に集めながらも、どこか危うげだった。
 それは秋良子姫が帝の渡りを歓迎していないという態度からもわかることだった。
 身分も男性としての魅力も一番の帝を、遠ざけようとしている素振りに、これが違和感の正体なのかと自問したが、その答えは出せなかった。
 それでも少しずつは、雪解けのような変化はあったのだ。
 帝に笑顔を見せることもあったし、睦まじい様子も見られる夜もあった。
 そして帝がまたも新しい側室を迎え入れることになった。
 咲玖来たちは事前に、この婚儀だけはどうしても断ることができなかったこと、また嫌がらせや憶測からできるかぎり秋良子姫を守り、彼女の支えになってやって欲しいと、帝から改めて頼まれたが、それはたいしたことのないように思っていた。
 元々姫は帝に心を許してはおらず、どちらかといえば帝の愛を競い合うことに疲れていた。だからその負担が消えるのならば、姫はかえって気楽になるのではと考えていたくらいだ。
 それがいきなり、姫の笑顔が消えた。
 憂鬱そうに塞ぎこみ、母と姉が訪ねてきても、楽しそうではなかった。
 それほどに帝のことを愛していたのかと、咲玖来の方が感動したくらいだった。
 そして四日目になれば、秋良子姫はまた明るくなると思っていたのに、一向に気鬱が晴れる様子はなくて、どうしたものかと途方に暮れた。
「秋良子様、御髪を整えておきましょうか。新しい紐を手に入れたんですよ。日名子様の贈り物ですわ」
 夏月が無理にも楽しそうな声をかける。
 その声に咲玖来は部屋を出た。
 姫の髪を整えたり、着替えを手伝うのは、安藤家からついてきた女房たちに限られていた。その間は咲玖来たちは同室も許されなかった。
 すべて秋良子姫たちの望むままに振る舞えと命じられているし、夏月たちのことも好きなので反感は持たないが、まだ信用されていないのかと淋しさは感じていた。


「秋良子様、間もなく帝のお越しでございます」
 咲玖来に声をかけられて、秋良は身体をぎくりと強張らせる。
「秋良子様、おもてなしのご用意をいたしますね」
 夏月はいそいそと用意を始めるが、秋良は弱々しく首を横に振った。
「嫌だ……お断りして」
「まぁ、我が侭を仰ってはいけませんわ」
 夏月が宥めるが、秋良は俯いたまま顔を上げない。
「気分が悪いって、お断りしてよ」
「悪いのは気分じゃなくて、機嫌なんじゃありませんか? きっと帝のお顔を拝見すれば、治りますよ」
 夏月は取り合わずに、さっさと秋良を立たせて用意を済ませてしまう。
 泣き出しそうな顔で、秋良はされるがままにまた座らされてしまった。
 怖い。……怖い。怖い!
 足音が近づいてきて、秋良は震えた。
「秋良……。逢いたかった」
 いつものように強気な声ではなく、頼りない小さな声だった。
 けれど秋良は必死で俯いていた。
「秋良、顔を見せてくれ」
「……嫌だ……。っ、やめろっ!」
 優しい手が秋良の肩に触れる。その手を秋良は振り払い、手の主を睨みつけた。
 振り払ったことを咎められることはなく、むしろすまなそうに細められた目は、秋良を見つめていた。
「帰れ。ここにはもう来ないで。お願いだから」
 秋良は絞り出すように頼んだ。
 洋也は悲しみを堪えるように笑って、小さく首を左右に振った。
「それは、できない」
 すっと伸ばされる手。怯えるように秋良は後退さった。
「許してくれなくてもいい。私を憎んでもいい。嫌いでもいい。それでも、私は貴方と居たい」
 真摯な願いに、秋良は涙を零して嫌々と首を振る。
「もう……苦しい。もう怖い。……もう、許して」
 自分を抱きしめるように両手を前で交差して、腕をしっかりと掴み、秋良は震えながら訴えた。
「何が貴方を苦しめている?」
「貴方だ……。全部、貴方が悪い」
「そうだね……。それでも、私は貴方を離すことができない」
「嫌っ!」
 洋也は秋良を抱きしめた。きつく逃れないほどに強く。
 秋良はもがいたが、その腕を離すことはできなかった。
「貴方をどれだけ苦しめても、私は貴方が欲しい」
「もう……怖い。……僕は……みんなから、あんなにも苦しい気持ちで、恨まれている。……毎日毎夜、日毎夜毎、僕の上に恨みは降り積もる……。怖い……」
 逃がしてほしくて、洋也の胸を押し返しながら、秋良は訴える。
 その言葉を聞いて、洋也は少なくない驚きとともに、つい腕の力を緩めてしまった。
「だから……もう、ここには来ないで。お願い……」
 必死で見つめる涙に濡れた瞳。
 洋也は信じ難い驚きと、じわりと広がる喜びに、秋良を見つめた。
「それは……貴方が苦しい気持ちで、この三日間を過ごしてくれたと……思ってもいいのだろうか……?」
 どうかそうだと言ってほしい……。
 洋也は祈るように、愛しい人を見つめていた。