怖い、苦しいと繰り返す秋良を見つめ、洋也はその言葉を意味通りに受け取っていいものかと自問する。
 自分の傍に置き、自分しか見つめさせず、愛情を溢れるほどに注ぎ続ければ、いつか、少しは、自分に情のようなものを感じてくれるかもしれないと、そんな不確かな期待を抱いていた。
 今回の婚姻はどうしても避けられない事情があり、天皇家の意向を汲んで、名目だけという条件をつけて受け入れた。
 それについて、秋良が少しでもやきもちを妬いてくれたのなら嬉しいとは思っていたが、まさかここまで秋良に精神的な打撃を与えるとは思ってもみなかった。
 わかっていたのなら、絶対、何があっても断ったものを。
 けれど、同時に期待に胸が膨らんでしまう。
 秋良の恐れているものの正体は、日頃自分に寄せられている感情だと気がついたようだ。その思いが怖いほどだと言うのなら、それは『嫉妬』なのではないだろうか。
 安奈姫に対して感じた嫉妬。
 その暗い気持ちが、秋良の言葉を借りれば、毎日毎夜、日毎夜毎、自分に注がれている気持ちと同じだと言うのなら……。
「秋良……私はあなたのその気持ちを、嬉しいと感じてしまう」
 手の中に抱きしめた柔らかい身体。この三日間で少し痩せてしまったように感じるのは、自分の驕りだろうか。
「あなたが安奈姫に感じたその気持ちは……私のためだと思ってもいいのだろうか」
 どうかそうだと言ってほしい。
「……わからない……」
 本音はわかりたくないというところだろうか。秋良の弱々しい声に、今はそれだけでも十分だと洋也は感じた。
「あなたを愛している。もう二度と、あなたにこんな想いはさせないと誓う」
 抱きしめた腕に力をこめると、秋良は腕の中で小さく首を振った。
「だって……だって、みんなの気持ちが……僕の上に……たくさんたくさん降りてくる」
 洋也は愛しさでいっぱいになり、秋良の頬を両手で挟んだ。
「私は、みんなの気持ちがあなたと一緒だとは、とても思えない」
 真剣な目で語りかけると、秋良はようやく洋也を見返してくれた。
「他の女御たちは、私のことなど好きなんじゃない」
「でもっ!」
 そんなはずはないと言い返そうとする秋良を、洋也は首を振って止めた。
「彼女たちの愛しているのは、私という個人ではなく、帝という地位。いいや、もしかすると、帝の側室という自分の立場だろうね」
「でも、僕は色々言われた……、あの気持ちが嘘だとは思えない」
 ここに来てから囁かれた嫌味や、嫌がらせの数々を思い出しては、秋良は身体を震わせる。
「彼女たちは、側室という中でも、一番になりたいと思っているだけだ。自分こそが、一番に相応しいと、そんな風に育てられた人たちばかりだからね」
 それでも眉間の憂いが消えない秋良を、洋也はそっと抱きしめなおした。抵抗がないのは、洋也の言葉を少しずつでも受け入れてくれているからだろうか。
「あなたは安奈姫に何かしようと思った?」
 優しく問われて、秋良は少しの間、考え込んだ。
 自分の苦しい気持ちを知り、それが今までもみんなに向けられていたのかを感じ取り、恐怖を覚えた。
 けれど、誰かに対して、何かをしてやろうとは、全く思わなかった。
「それがあなたとみんなの違いだよ。矜持だけで人を傷つけようとする彼女たちに、私は愛情の欠片すら持つことはできない。彼女たちがあなたに感じているのは、私に対する愛情などではなく、自分の自尊心を傷つけているという、あなたに全く関係のない汚い感情だけだ。本来なら、それは自己反省の材料にするべきなのに」
 秋良にわかってほしい。
 秋良の中に芽生えたばかりの洋也に対する気持ちと、側室たちの嫉妬など全く気にする必要などないことを。
 洋也はゆっくり、噛んでふくめるように説明をする。
 固く、体温すら低かった秋良の身体が、少しずつ強張りを解いていく。
「あなたを愛している。あの時からずっと、私にはあなたしか居なかった。あなたのために東宮の立場を捨てたかった。けれどそれはできなかった。先帝があまりにも早くに崩御されてしまわれたから、他の手立てを打つことができなかった。だから、あなたを手に入れるために、こんな形であなたを閉じ込めるしかできなかった。それは……本当にすまないと思っている」
 本来なら一切謝罪など必要のない立場の人だ。言葉一つで、何でも動かしてしまえる人だ。
 その人が心から謝ってくれているとわかる。その誠実な瞳の色に、秋良は胸が痛くなる。
「秋良……。あなただけが私の心を慰めてくれる。あなたに傍に居てほしい……」
 ずっと心の中に渦巻いていた黒い靄が、ゆっくりと晴れていく。
 洋也の言葉は秋良の中へ、清浄な水を流し込んでくれるように、爽やかに注がれる。
「……傍に居るだけなら……」
 自然とこぼれた想いに、秋良自身驚かされた。
 あんなに帰りたいと願っていたはずなのに。
「秋良……」
 すぐにも取り消したいと思ったが、洋也が泣き出しそうな顔で、嬉しそうに笑ったので、嘘だとは言えなくなってしまった。
「……ありがとう」
 優しい笑顔と喜びの言葉は、秋良にも微笑みを取り戻させるだけの力があった。
 端整で凛々しい顔が近づき、秋良の唇に、熱い唇が重なる。
 自分の気持ちをはじめて自覚した口接けは、秋良の身体を熱くした。
 ぎゅっと洋也の袖を掴み、その緊張に耐えようとするが、堪えきれずに洋也の胸を押し返してしまう。
 少し驚いたような洋也に、秋良は真っ赤な顔でいやいやと首を振る。
「秋良?」
「……こわい……」
 その怖さは、今までの焼けつくような恐怖とは違う、未知の世界への畏怖だった。
 自分の気持ちを意識したばかりの秋良は、どうしていいのかわからずに、洋也から逃げようとした。
 けれどその姿は、洋也には愛らしいとしか映らない。
「何もしない。その約束を破るつもりはない。あなたの意に染まぬことはしないと約束した」
「陛下……」
 洋也はふっと笑って、秋良に手を差し伸ばした。
「名前を呼んで。二人きりのときには、私は秋良だけの、ただの男になりたい」
「…………洋也」
 消え入りそうな声だったけれど、確かに名前を呼ばれて、洋也は笑みを深くした。
「いつものように抱きしめて眠るだけ。それならいいだろう?」
 秋良は困ったように洋也を見つめた。
 そんな秋良の可愛い仕草に、抱きしめて壊してしまいたいという思いを、理性を総動員して押さえつける。
 怖々と秋良を抱きしめると、もう抵抗はなかった。
「おやすみ、秋良」
 寝床へ驚かせないように横臥する。
「……おやすみ」
 やっと安心できたような、眠そうな声。もう一度この手に抱きしめられた秋良の温もりを決して離さないと、洋也は眠るのを惜しむように、いつまでも抱きしめていた。