洋也が他の女房のところへ行くのは辛い。 その気持ちを認めてから、秋良は洋也への態度をずいぶん柔軟なものにした。 夜が来れば彼を待つようになり、顔を見れば微笑みかけるようになった。 そんな変化は洋也当人だけでなく、周りにも微笑ましく映っていて、承香殿はとても和やかな雰囲気に包まれていた。 夜は一緒の褥で寝るが、ただ抱きしめ合って眠るだけ。 その暖かさが手放せないもののように感じていた。 「今度、東宮の誕生祝の席を設けようと思うのだが、秋良にも出て欲しい」 「東宮様って、もうすぐお誕生日なんだ。何歳になられるの?」 まだ幼いと聞いてはいたが、その姿を見たことはなく、実感がわかない。 「今度の誕生日で三歳になられる。まだ幼いので、簡単に済ませるつもりだ。大臣達の祝い口上など取り入れたら、間がもたないだろうから」 それは幼い東宮だけでな、秋良自身も退屈しそうだ。 「今、自分も間がもたないと感じたか?」 くっくっと楽しそうに笑って言われ、秋良はかっと頬を赤く染めた。 「そっ、そんな事、言ってないだろっ! もうっ、あっちへ行けっ!」 胸を叩くつもりで伸ばした手を、呆気無く掴まれてしまう。 「姫は乱暴だな」 ぐいっと引き寄せられて、広い胸と強い腕に包み込まれる。 「姫って言うな」 泣きたくなるほど安心できる胸の温かさに、秋良は口では悪し様に言いながらも、逃げ出そうとはしなかった。 それ以上からかえば逃げ出されるとわかっている洋也は、ただゆったりと秋良を抱いて、柔らかな身体と甘い香りを堪能することにした。 「東宮様のお祝いは、何を差し上げたらいいんだろう?」 幼い女の子が何を欲しがるのかさっぱりわからない秋良は、洋也の胸の中で目を閉じながら尋ねた。 「遥……東宮はちょっとお転婆なところがあるから、あなたの見立てたものを喜びそうな気がするな」 「それはどういう意味?」 良い意味にも悪い意味にも取れるような気がして、秋良はむうっと口を尖らせる。 洋也が笑う振動が胸越しに感じられ、秋良は身体を起こした。 「人が悪いな、貴方は!」 馬鹿にしているわけではなく、単純に楽しんでいるだけだとわかる笑い方だが、だからこそ恥ずかしかった。 最近は、突っ張ることもできくて、そんな自分がとても甘えていると感じられて、恥ずかしいと思う場面が多くて困っている。 それなのに楽しそうにされると、余計に恥ずかしくなって隠れてしまいたくなる。 「私は可愛いなと思っているだけだ」 さらりと言われて、秋良は咄嗟に言葉をなくして、首まで真っ赤になる。 離れてしまった秋良の身体を引き寄せ、何か抗議を言おうとしている唇を塞ぐ。 「んんっ!」 秋良は突然のことに、ドンと洋也の胸を叩いたが、ちっとも痛くないらしく、角度を変えて唇を吸われる。 「……ん……」 喉の奥で甘えた声が絡まり、それがたまらなく恥ずかしい。 唇を舐めていた洋也の舌が、秋良の唇を割って入ろうとするのに、秋良は身体を震わせて逃げようとした。 洋也は寂しげに笑みを作り、秋良の唇をそっと離した。 「髪が伸びたね」 耳朶を愛撫しながら、関係のない話をふる。照れて秋良が意固地になってしまわないように。 洋也の前でだけ、付け毛を外す。髪はようやく背中を覆うほどになっていた。 「面倒なんだけど」 長い髪に慣れない秋良は不満気に一房を手に取って眺めた。 「人前に出るときだけかもじをつければいいのだが、せっかく綺麗な髪なのだから、伸ばして欲しいな」 抱き寄せて、髪を撫でる。 美しい光沢の髪は、見た目以上にさらさらで、手触りも信じられないほどに気持ちいい。 「そりゃ……いちいちつけるのも面倒だから……伸ばしてもいいけど……」 素直にうんと言えない秋良の、了解の返事に、洋也は嬉しそうに笑う。 ゆったりと抱かれて、夜は静かに更けていった。 「東宮様のお祝いって、何がいいんだろう?」 日程も差し迫ってきて、秋良は夏月に相談した。 実際に秋良が買い物に行くわけではなく、遣いを出すことになるのだが、品物は決めなくてはならない。 「咲玖来様は何がいいと思われます?」 御所暮らしが長く、事情通の咲玖来なら、いい物を選んでくれると期待して、夏月は彼女に頼った。 「そうですわねぇ。でも、なんでもお持ちですし……」 何不自由のない暮らしをしている東宮への贈り物となると、かえって難しくなる。 「鞠がいいんじゃないかな?」 「鞠……ですか?」 「そんな、秋良子様、男の子じゃないんですから」 咲玖来が戸惑いながら聞き返し、夏月が嗜める。 「だって、帝がお転婆だと言っていたよ」 「秋良子様、それはご謙遜なさったのですわ。やはり、この場合、貝とか香とか、扇とか無難なものの方がよろしいんじゃないかしら」 「それこそ、たくさん持ってらっしゃるんじゃないの? それに、そんなの嬉しくないって」 だから、東宮様は女の子ですってば、と夏月は目線で秋良を黙らせようとする。 「日名子姉さまの持ってる鞠なら、女の子も喜ぶと思うけどなぁ」 あっと夏月は声をあげる。 「そうですわ。日名子様はちょっと変わった物をお好みになるんです。鞠も遊ぶ用の鞠ではなくて、組み紐で綺麗な模様を作った鞠をお持ちなんです。あれなら、飾り用としても素敵ですわ」 夏月は素敵な提案だとばかりに手を叩いた。 「では、それを安藤家の方にお願いしてもよろしいですか?」 咲玖来もその鞠が気になるようで、意見は一致した。 「ええ、すぐに遣いを出してお願いして参ります」 「あ、じゃあ、咲玖来にも一つ作ってあげて」 秋良が夏月の背中に声をかける。 「ええっ! そんな、秋良子様、駄目です」 「どうしてさ。咲玖来も見てみたいんでしょ? いつもお世話になっているから、一つくらいいいじゃない」 夏月も嬉しそうに頷いて出て行った。 「秋良子様……ありがとうございます」 「本当に綺麗なんだよ。咲玖来も気に入ってくれると思う」 咲玖来は感激で瞳を潤ませながらも、これは帝の悋気に触れないかと、内心では冷や冷やしていた。 帝は秋良から咲玖来にもお礼をしたと打ち明けられて、そのあっけらかんとした様子に、恐縮して身を縮ませる咲玖来を、苦笑で許した。 「今度は私にも何か贈って欲しいな」 本当に欲しいものは秋良だけれど、それを微笑みの下に器用に隠した。 「鞠が欲しいの?」 秋良に不思議そうに問われ、洋也は楽しそうに笑った。 そうして東宮の誕生日を祝う宴は、賑やかに始まった。 女房達もそれぞれに贈り物を用意し、幼い東宮を飽きさせないようにと、唄や舞も子供向けのもので、和やかに進んでいく。 東宮の遥は宴の始めこそは帝の横で大人しく座っていたが、しばらくするとちょこちょこと歩き回り始める。 その様子が愛らしくて、みな笑顔で見守っている。 秋良も御簾の影からその様子を見ていた。 今日もここに来るまでに意地悪をされたり、嫌味を言われるかと心配していたが、何事も無くやってこれてほっとしていた。 女房達の御簾の前には、それぞれの東宮への贈り物が置かれている。 遥はそれを見つけて、歩いてくる。 どれを手に取るのだろう。宴に呼ばれていた者たちは皆、それを興味深く見守っていた。 遥は赤や朱色、桃色の糸で綺麗に織られた鞠を手にした。 「ほほうー」 貴族達の感心した声が上がる。 「これ、遥の!」 嬉しそうな顔で遥が宣言する。 帝もそれを楽しそうに見ていた。 遥はそれを手にしたまま、ひょっこりと秋良の御簾をめくり上げて、中を覗く。 「こんにちは」 元気な挨拶に、秋良は驚いたものの、すぐに微笑んだ。 「こんにちは」 遥は秋良が答えてくれたことにとても嬉しそうに笑って、御簾の中へと入ってきた。 秋良の膝にちょこんと座り、鞠をころころと転がした。 「あっ!」 「大丈夫、取って差し上げます」 秋良の言葉に咲玖来が鞠を取りに行こうとしたら、洋也が入ってきた。 「いけない東宮様だな。私の大事な人の膝を奪ってしまうなんて」 洋也は朗らかに笑って、遥に鞠を返した。 何度か鞠を投げて遊んだ遥は、またその鞠を手に御簾を出て行った。 「ありがとう、とても気に入ったようだ」 洋也も秋良に礼を言って、御簾を出た。 縁台に出た洋也は、ふと視線を感じて振り返る。 まだ若い衛士が酷く驚いた表情で秋良のいる御簾を見つめている。 「どうかしたか?」 中には聞こえないように、低い声で厳しく問う。 はっとしたように衛士は洋也を見て、慌ててその場に膝を着いた。 「見る方向が違うだろう」 「申し訳ありませんでした」 頭を下げた衛士に、それ以上は叱れず、洋也は自分の席に戻った。 それからもその衛士には気をつけていたが、彼はすぐに別の場所の警備へ移ったようで、宴の間に再び姿を認めることは無かった。 「秋良だ……」 ある日突然、病気の療養のために遠くへ行ったと聞かされた幼馴染み。 見舞いに行きたいからその場所を教えてくれと頼み込んでも、願いは聞き入れなかった。そればかりか、執拗に食い下がると、死んだと思って諦めてくれとまで言われてしまった。 その幼馴染みが、何故か帝の女房として御簾の向こうにいた。 帝があんなに楽しそうに入っていくのなら、帝に寵愛されていると名高い姫なのだろう。 「でも、秋良だった……」 見間違いなんかじゃない……。 何とかして会えないものだろうか……と、真夜中の月明かりの下、勝也は清涼殿の奥を区切る、重く固い扉を見つめていた。
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