その幼馴染みは少し年上だったが、まだ元服もしておらず、一日中屋敷の中で過ごしているのだと言った。 そのせいか身体も華奢で、日に焼けていない肌は白く、下ろしたままの前髪は彼を少女のように見せていた。 自分より年下の勝也がもう出仕していることを知ると、自分も早く元服したいと何度も父親に願い出ていたようだが、それを許される様子はなかった。 その度に寂しそうな彼を慰めるために、休みを利用しては遊びに行った。 秋良は歓迎してくれたが、彼の屋敷の者は勝也が遊びに行くと、顔には出さないものの、迷惑そうな様子を見せた。 本当なら遠慮すべきだろう。実際勝也の家にも、何度か遠慮をしてくれという打診があった。 双方の兄同士が同僚のため、兄を通しても、相手の迷惑になることは止めておけと言われたこともある。 それでも無理に出向いていたのは、自分が行けば秋良が喜び、帰る時にはとても寂しそうにしてくれたからだ。 秋良がいつ出仕できるのかはわからなかったが、例え出仕できないとしても、勝也は変わらぬ友情を秋良に誓っていた。 なのに……。 ある日突然、『秋良はいません』と言われた。 元々身体が弱く、病状が悪化したので、田舎へ療養に出したと説明されたが、とても信じられなかった。 確かに身体は細かったが、病気を持っているようには思えなかった。いつも明るくニコニコしていて、屋敷の中で駆け回っていたのだ。 見舞いに行きたいからその場所を教えてくれと頼んでも、顔を曇らせるばかりで、答えをはぐらかされた。 それでも執拗に食い下がると、『死んだと思ってくれ』と言われた。 以来、取り次いでももらえなくなった。 そう、あれは今の帝が新しい女御を迎えられた頃だった。 安藤家の姫というだけで、勝也などは承香殿の女御様と呼ぶので、名前も顔も知るはずもなかった。 けれど秋良は言っていた。姉は一人いるだけだと。自分が末っ子だと。その姉はもう婚姻が決まっていて、安藤家から入内できる姫などいるはずがなかったのである。 先日の東宮の誕生祝の宴で、勝也は守衛についていた。 今は清涼殿の警護が勝也の仕事である。 その際、東宮が承香殿様の御簾をめくり、中へ入っていった。 勝也もその御簾の前に綺麗な鞠が置かれているのを見ていた。どこかで見たことがあると思っていたのだ。 秋良が姉の鞠を持ち出して、二人で遊んだのを思い出したのは、帝がその御簾の中へ入って行った時、その隙間から中が見えてしまい、幼い東宮を膝に抱いた女御を見た時だ。 見間違うはずなどない。 あれは秋良だった。 衝撃で勝也はしばらく動けなかった。 御簾を出てきた帝に咎められるまで、呆けたように立ち尽くしていた。 秋良は本当は姫だったのだろうかと、そんな馬鹿げたことまで考えた。 あえて確かめたことはないが、夏には一緒に上半身裸になって水遊びをした。いくら幼馴染みとはいえ、秋良が女の子だったら、勝也の前で裸になったりしないだろう。 そもそも姫ならば、御簾の奥深く、外に遊びに出たりしないものなのだ。 ならば、何故……。 なんとか真実を確かめられないだろうかと、勝也は必死で考えた。 奥殿に男が入り込めることなどできない。 里帰りを待とうとも思ったが、承香殿様は帝の寵愛深く、未だ一度も里下がりを許されたことはないという。 里下がりを許されるまで待つというのは、果てしなく気の遠いことのように思われた。 どうすればいいのだろう。 十日程は悶々と考えあぐねていた。仲間にも『どうしたんだ?』と心配されるほど、ぼんやりしているように見えたらしい。 結局、いい考えも思い浮かばず、それでも諦めきれずにいた時、車寄せから奥殿へと向かう女房を見て、はっとした。その女性に見覚えがあった。 こんな好機は二度とないかもしれないと、相手が驚くのも構わずに駆け寄った。 「安藤家の方ですよね。俺……私のことを覚えておられませんか」 手に風呂敷の包みを持った女房は、驚いて勝也の顔を見た。あきらかに動揺が走っている。 「夏月様ですよね」 夏月は驚愕を隠せず、何度か見かけたことのある若い衛士を見た。その真っ直ぐな強い瞳に晒されて、堪らずに視線を外す。 「お願いです。秋良に会わせて下さい」 返事を待たずに頼みこむ。 夏月は顔を強張らせて、首を振った。 「秋良様は……秋良様は、病気の療養に。私も場所は知りません」 「嘘だ。俺は見たんです。承香殿様を。あれは……秋良だった」 勝也が断定すると、夏月は唇を震わせた。 「お願いです。秋良に会わせて下さい」 「私は……私は知りませんっ!」 勝也を振り切るように彼女は走りさる。奥殿への入り口に立つ守衛は、勝也たちより位も高く、騒ぎを起こせば勝也は謹慎させられるだろう。 自分の身分がどうなろうとも構わなかったが、そうなってしまうと、二度と秋良には会えない。 今はまだ騒ぎを大きくするべきではないと、勝也は堪えた。 戸口の向こうに消える背中を見送りながら、勝也は拳を強く握りしめていた。 夏月は震える足を必死に動かしながら、承香殿に向かっていた。 ばれた……。ばれた……。ばれてしまった。 安藤家と帝だけの秘密が漏れてしまった。 秋良とよく遊んでいた少年が、よもや今頃になって、秋良に会わせろなどと言ってくるとは思ってもみなかった。 部屋に飛び込むと咲玖来が驚いて夏月を見た。 「どうなさいました?」 打ち明けるわけにもいかず、夏月は無言で首を振る。 「酷く顔色がお悪いですわ」 荒い息を繰り返す夏月を心配して、ぬるめのお茶を差し出してくれる。 礼もそこそこにそれを飲み干すと、今度は身体が震えてきた。 「何かありました? 安藤家で何かございましたの?」 安藤家に遣いに出て、戻ってきてのこの様子なら、姫の実家で何か大変なことがあったのではと心配になる。事によってはすぐに帝に奏上しなくてはならないのが、咲玖来の務めでもある。 「何も……何もございません」 ようやくそれだけを言う。 「けれど……」 何事もない状態には到底見えない。 「ちょっと蜘蛛に驚いただけです。私、蜘蛛が大嫌いで」 無理に笑おうとする夏月に、咲玖来は納得できないながらも、「そうですか」とそれ以上の追求は諦めた。 「ですが、お困りのことがありましたら、私にも相談くださいね」 けっして帝の意向に逆らうようなことはいたしませんからと、咲玖来は念を押す。 「ありがとうございます」 彼女を味方につけることが出来れば、どれだけ心強いだろうか。それは夏月も何度も考えた。 けれど所詮は御所の人だ。いくら帝に忠誠を誓おうとも、男を女御として迎えたなど、受け入れられるとは思えなかった。 ばれたりしたら……。 それを考えると身体がぶるりと震えた。 御所をあげての騒動になるだろう。 秋良はどんな咎めを受けるのだろう。 あの時……どんなことをしても逃がすべきだったのだ。 この身一つの命を惜しみ、秋良を大切にするという帝の言葉を喜んでしまい、後のことを考えもしなかった。 「夏月? どうしたの?」 部屋から出てきた秋良が心配そうに声をかける。 秋良は今幸せだ。 帝の気持ちを受け入れ、表情も明るくなった。 髪も伸び、姫らしい振る舞いも出来るようになってきた。 けれどそれは、皆が秋良に無理強いをしてきたことだ。 本来彼は、元服を望み、出仕したいと願っていた。 男性としては頼りなく見えるが、優しく思いやりに溢れた人柄で、派手な仕事は出来なかったかもしれないが、勤めにつけば皆に愛されて、こつこつと為すべきことを積み上げていけたはずだ。 全ては帝に愛されたために……。 「夏月……。ど、どうしちゃったのさ」 ほろりとこぼれた涙に、秋良がおろおろする。 「秋良様……どうしましょう」 夏月には手に負えなかった。 秋良のためなら何でも出来る。どんな汚いことでも出来る。 けれど、第三者が介入してきた今、どうすればいいのかもわからない。 「家で何かあったの? お父様かお母様に何かあったの?」 安藤家から戻ってきた夏月が取り乱すのは、両親に異変があったのではと、秋良もそれを心配していた。 「秋良様……実は……」 隠しておけない。彼は諦めそうになかった。それほど強い目をしていた。 夏月はごくりと唾を飲み込み、秋良の幼馴染みのことを話し始めた。 「そう…………会うよ」 夏月から全てを聞いた秋良は、しばらくの間黙り込み、やがて一つの決意を告げた。 「そんな。会ったりすれば、何もかもばれてしまいます。今ならまだ、別人で通すことも」 隠し通せばいい。彼一人が何を言おうと、誰もここまで確かめに来たりしない。 全てを話してしまって、夏月は往生際悪く、隠すことを選ぶべきだと思い直していた。 「なんでしたら、帝に話して、あの者を遠い地に赴任していただければ」 それが一番いいように思えた。 どうして秋良に話してしまう前に、それを思いつかなかったのか悔やむほどだった。 秋良は悲しそうに首を振った。 「勝也はね、御所に勤めていることをとても誇りにしていたんだよ」 「でも、秋良様」 「駄目だよ、夏月。咎められ、流されるとするなら、僕でなくちゃいけない。他の誰も悪くない。僕のために、他の人が罪を背負うなんて、あっちゃいけないことなんだ」 やっぱり秋良に言うのではなかった。あのまま安藤家に引き返し、旦那様に打ち明けるべきだったのだ。 「明日は帝の物忌みの日だよ。夜にこっそり抜け出して、裏口でなら人目につかずに会える」 「秋良様、そんな」 裏口というのは、承香殿から下男下女が塵などを捨てる小さな木戸だった。夜になれば中から施錠されるので、そこをうろつく者などいない。 「無理です」 「お願い、夏月。今なら勝也もまだいるかもしれない。だから、伝えてきて。明日しか、もうないんだよ。次に帝の物忌みまで待っていたら、勝也は別の方法を考えるかもしれない。そんな気持ちで過ごすなんて、不安じゃないか」 秋良の決意は固そうで、夏月は説得を諦めた。 もしも帝にばれたりしたら……。 それを考えると、背中に冷たい刃を押し当てられたように寒気が走る。 けれど他に方法もないように思えた。 夏月は震える足を叱りつけながら、立ち上がった。 「頼むね」 泣き出しそうな秋良の目に、夏月はこくりと頷いた。
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