「どうかしたのか?」
 盃に酒を注ごうとしたところで、洋也に問いかけられた。
「え?」
 徳利を傾けたまま、秋良は顔を上げる。
「今夜はやけに素直だなと思って。何か隠し事があるのではと疑ってしまうよ」
 手が揺れて、徳利が盃に当たり、かちゃりと不快な音をたてる。
「か、隠し事なんて……こんなところに閉じこめられていて……、できるわけが……ないよ」
 そんなに態度が変だっただろうかと、秋良はどきどきしながら、酒を注いだ。
「そうだね。すまない」
 言い訳に対して謝られると心苦しくなってしまう。
「気晴らしに吉野の別邸にでも行ければと思っているんだが。夏になれば考えてみよう」
「吉野の御用邸のこと?」
 夏の暑さや、冬の寒さをしのぐために、帝はいくつかの御用邸を持っている。吉野の御用邸は山の中にあり、夏でも涼しいと聞いたことがある。
 しかも、そこは安藤家の元の家がある所に近い。
「あまり長くはいられないが、息抜きくらいにはなるだろう」
「そんなところについていっても……いいの?」
 好奇心が疼いて、尋ねてしまう。
 高い杉の木に囲まれた、細長い道。秋良が幼い頃過ごした館は、立派とは言い難かったが、緑の木陰や野鳥の鳴き声、虫の声が好きだった。
「もちろん。数人の女御を連れて行くのが慣例のようだが、私は秋良一人でいい」
 行幸ともなれば、大掛かりな移動になるだろう。側室のすべてを連れて行けるわけではないので、お気に入りの数人だけというのが、慣わしになっているようだ。
「やっぱり……いい」
 それが一人だけということになったら……。
 行っている間はいいだろう。御所のことを忘れられる。けれど、帰ってこなくてはならないのだ。その時の周りの反応が怖い。
「それよりも……一日だけでもいいから……」
「駄目だ」
 すべてを言い終わらないうちに、厳しい言葉で止められてしまった。
「まだ……言ってないのに」
「安藤家には帰せない。それはもう何度も言った」
 二人の間に、久しぶりに緊張が漲る。
「じゃあ、僕はずっと帰れないの? 家で何があっても? 家族が病気になっても、見舞いにも行けないの?」
「そんなことはない……。秋良が……あなたが私の元へ必ず帰ってくれると思えるようになったら、いつでも好きなときに帰ればいい」
 洋也は盃を置いて、秋良の肩を抱き寄せた。
「僕は帰ってくるよ。約束する」
 洋也の胸に両手をつき、顔を見上げて頼み込む。
 もしも、家に戻ることができるのなら、危険なことをしなくても、勝也とも普通に会えるのだと思った。
 けれど洋也は首を横に振った。
「その約束を……まだ私は信じられないんだ」
「どうして……」
 信じられないと言われて、悲しい気持ちになる。
 前は帰りたい一心だったが、今はここに戻るだろうと自分でも思っているのに、それを信じてもらえない。
 洋也は秋良の唇に口接けし、ぎゅっと抱きしめた。
「あなたを離したくない。誰にも渡したくない。私は今の生活を守りたい」
 そう言って貰えるのは嬉しい。
「僕だって……そう思っているよ?」
 離れたいとは思わない。ここに洋也がいるとほっとする。
 けれど洋也はふっと笑うだけだ。
「明日は来られないから、今夜はこうして寝ようかな」
 秋良を横抱きに膝の上に抱き上げる。
「うわぁ……」
 秋良は驚いて、洋也の腕にしがみついた。
「こんな……眠れないよ」
 唇を尖らせて、洋也を軽く睨む。
「一晩も離れたくないのだがな……。物忌みとは厄介な風習だ」
 笑いながら秋良を布団に下ろし、自分も横に添いながら、ゆったりと腕を回す。
「……仕方ないよ。一晩だけじゃないか」
「姫は私が来ないほうがいいのかな?」
「…そっ……そんなこと、ないよ」
 明日に限っては、来ないで欲しい。どきっとしながらも、一応は否定する。
「まぁ……いいけれどね。明後日にはまた会える」
「明日の朝は、ちゃんとお見送りするから、起こして」
「わかった」
 唇を合わせる。優しく頬を撫でられて、心がとても温かくなる。
 この生活を守るため……。
 洋也の言った言葉が思い出される。
 そう、この生活を守るためなのだ。そのためには勝也を説得しなくてはならない。
 彼はわかってくれるだろうか……。
 不安が押し寄せてきて、秋良はぎゅっと洋也の腕を掴んだ。


 起こしてと頼んでいたのだが、目が覚めると、とっくに帝は出かけた後だった。
 正直なところ、今夜のことを考えると、洋也の顔をちゃんと見られるのか不安だったので、それはそれでありがたかったのだが、やはり寂しいという気持ちになってしまう。
「秋良様……お気持ちに変わりはございませんか?」
 夏月は朝から顔色が悪く、何度も秋良に確かめてくる。
「もう、そんなに気にするなよ。大丈夫だって。話せばわかってくれるよ」
 秋良はなるべく明るく、夏月の心配を打ち消す。自分でも不安でいっぱいだったが、そんなところを見せれば、夏月は帝に勝也の処分を望むという手段を選びそうで、気丈に振る舞うしかなかった。
 二人はぎこちなく一日を過ごし、夜には早く休むからと、咲玖来たちを下がらせた。
 秋良は目立たぬように女房の姿をして、夏月と一緒に裏木戸へと向かった。
 月明かりの明るい夜で、二人は蝋燭を持たずとも、通路を進んでいけた。
 勝也はもう来ているだろうか……?
 とんとんと着いた合図に、裏木戸を叩いてみると、向こうからもとんとんと応えがあった。
 そっと音をたてないように木戸を開く。
 戸の向こうには懐かしい幼馴染みの顔があった。
 記憶にあるより大人になった顔は、今は緊張に強張っていた。
「勝也……」
「やっぱり……秋良!」
 戸を開いて、勝也が身を乗り出す。
「秋良、どうしたんだよ。どうしてこんな恰好……。何があったんだ……」
 勝也は秋良の着ている女物の上着を掴んで揺すった。
「色々あって……」
「逃げよう、秋良。お前、こんなところにいたくないだろう? 俺、逃げられるように、準備してきてある」
「勝也……ちょっと待って」
 今にも秋良を連れ出そうとするような、勝也の切羽詰った態度に、秋良は戸惑いながら身を引いた。
「秋良?」
「僕は嫌々ここにいるんじゃないんだよ。今夜ここに来たのも、勝也に黙っててって、頼もうと思ったからなんだ」
「どういうことだよ」
 勝也は顔を顰めて、秋良に詰め寄った。
「お願いだから、こんな無茶なことはしないで。僕は自分の意思でここにいるんだ」
「嘘だ。だって、お前、女として扱われているんだろう? 承香殿様は酷い虐めに遭ってるとも聞く。こんな所で我慢することないよ」
「勝也……違うんだ」
 自分を救い出すという使命感で一杯の勝也は、秋良の説明を聞こうとしない。
「一緒に逃げよう。大丈夫。清涼殿の門番も、御所の門番も、今夜は仲のいい奴ばかりで、俺と連れを通してくれと頼んである。髪を切って、男の恰好に戻れば、承香殿様だってばれたりしない」
「勝也、ちょっと待てって」
 揉み合う二人に夏月はおろおろとする。そのために、背後への注意を怠ってしまう。
「こんなところで我慢する必要なんてない。こんな女の格好をさせられて」
「勝也、落ち着いて」
「何をしている!」
 厳しい声が二人の動きを止める。
 いやというほど聞き覚えのある声に、秋良は恐る恐る振り返る。
「……どうして……」
 今夜は物忌みで、帝は部屋を動けないはず……。
 秋良ははじめて見る洋也の冷たい目を、震えながら見上げることしかできなかった。