「こんな所で何をしている」
 低く厳しい声と、凍てつくような冷たい目。
 なのに怒りに燃え上がる光をこめて、その双眸が秋良を見下ろす。
「…………陛下」
 声が震える。
 ぐっと伸びてきた手が秋良の腕を掴んだ。今までにない強い力で掴まれて、痛みに顔を顰める。
「帝、秋良を離して下さい」
 気丈にも勝也は秋良を取り戻そうと手を伸ばすが、その手を反対に洋也に掴みあげられた。
「そんな奴は知らんな。これは私のものだ。誰にも触れさせない」
 怒りが頂点を越したのか、洋也は微かに笑っているように見えた。
「秋良は女じゃない。男だ。返せ!」
 冷たい目がきらりと光り、鬼のように笑う。
 もはや寛容で、人徳深く、皆に慕われる帝の影はどこにもない。
「返せというのか、私に。ならば、私はお前を斬らねばならないな」
「……や…めて……」
 腕の痛みに耐えながら、秋良が切れ切れに訴える。
「人の心配をしている場合かな?」
 楽しそうでいて、暗い笑み。見ている者の心まで凍らせるような、冷たさに秋良は涙を零した。
 自分が……優しいこの人を、自分がこんな顔をさせている……。
「お前の処分は、これのお仕置きをしてからだ。家に戻って謹慎をしていろ!」
 洋也が勝也を突き飛ばす。容赦のない力に、勝也は扉の向こうに弾き飛ばされてしまう。
「夏月、扉の鍵をしっかり閉めろ」
 夏月は震える手で鍵をかけた。扉を叩く音がするが、洋也は門の向こうにも誰かを待機させていたらしい。
「そいつを家まで連れて行け。謹慎だ。家の周りにも見張りを立てておけ」
 応えがして、人のもみ合う音がする。
「陛下、秋良様は悪くありません。お咎めはこの私に」
 夏月が平伏して訴える。
 くっと笑って、洋也はそれを無視し、秋良を力任せに引っ張っていく。
 承香殿に戻ると、騒ぎに気づいたのか、咲玖来が出てきた。秋良の腕を掴み引きずる帝、泣きながら追いすがる夏月の三人に、驚きの目を瞠る。
 ただならぬ様子に慌てながらも、洋也の前に膝をついて頭を下げた。
「何事でございましょう。陛下は本日、物忌みの日。このように騒ぎを起こすのは、一番してはならないことではございませんか? 秋良子様も大変怯えておられます。どうかお手をお放し下さいませ」
「咲玖来」
 聞いたようなこともない硬い声に、何とかできるのではないかと思っていたことが、甘い考えだと知る。
「はい」
「お前はこれの監視をするのが務めだろう。これは今夜、逃げ出そうとしていた」
 咲玖来はまさかと姫を見た。
 姫は泣きながら首を振る。
「秋良子様がそのようなことをなさるはずがございません。どうか落ち着きあそばして、お話をお聞きください」
 この人ならば冷静さを取り戻してくれる。そう信じての言葉だったが、洋也は乾いた笑い声を立てるだけだった。
「お前も仲間か。これに絆されたのか。わかった。みんなよく聞いていればいい。来い、秋良」
 洋也は寝所の扉を開けて、秋良を引きずり入れる。
「誰も入ってくるな。私の邪魔をするな。聞きたくなければ逃げろ」
 扉が閉まる。
「いやだ!」
 秋良の声がして、夏月は耳を塞ぐ。
 夏月や咲玖来以外の女房達も出てきて、不安そうに扉を見つめる。
「夏月さま……」
 安藤家から連れてきた女房達は、泣きながら夏月に縋る。けれど夏月ももう立ち上がることもできないほどに震えていた。
「やめて!」
 床に伏し、耳を塞いでも、秋良の叫び声は響いてきた。


「いやだ!」
 上にきていた着物を破るようにはがされた。
 ただ怒りだけをこめた瞳が、秋良を睨んでいた。
 袴の紐を無造作に解かれる。
「やめて!」
 何を言っても、全く聞いてもらえない。
「お願い、止めて」
 涙がとめどなく零れてくる。
 こんな彼は知らなかった。今はただ恐ろしかった。
「私は愚かだった。あなたがいつか私を見てくれるなどと、甘い幻想を抱いていた」
 怒りに笑うその姿は鬼のようにしか見えない。
「何もしないと約束した。だが、そんな約束は、無意味だ。あなたは私から逃げることしか考えていない」
 白い着物一枚になり、乱れた裾から白い足が見える。
「逃げたりしない……」
 震えながらもそれだけは言ったが、洋也は馬鹿にしたように笑うだけだ。
「あなたの気持ちを大切にしようなどと思った私が甘かった。最初から力で支配すればよかったんだ。どんなに待っても、あなたの気持ちなど手に入らない」
 腰紐に手をかけられて、秋良は必死でその手を掴む。
「気持ちが手に入らないのなら、身体だけでも自分のものにする」
「いやだーっ!」
 秋良の抵抗など軽々とかわし、洋也は腰紐を解いた。
 衿を掻き合せる秋良を笑い、夜着を肩から引き裂いた。
 白く細い肩と背中が露わになる。
「助けて……」
 毎晩抱きしめてくれた暖かい手はどこにも感じられない。
「誰に助けを求めている?」
 楽しそうに問われ、秋良は泣きながら首を振った。
「呼べばいい。呼んでも、誰も来ないがな」
 肩を掴む手が恐ろしくて、秋良は丸くなってうつ伏せる。
「こちらを向け。自分が誰のものか、しっかり見ろ」
 肩を引っ張られて、顎を掴まれた。
「痛い……」
 どれだけ抵抗しても無駄だった。顎を掴む手は、骨が砕けてもいいという力で、洋也の方へと向かせる。
 顎を掴んでいる手にも、秋良の涙が伝う。
「逃がさない。何があっても。あなたは私のものだ。それを忘れないようにしてやる」
 枯れることなく涙を流す秋良に、洋也は顔を歪ませる。
 そのまま床に縫い付けるように覆い被さった。
 折れそうなほど細い首に唇を寄せて噛み付くように口接けた。
 びくりと全身を震わせて、秋良は嗚咽を漏らす。
 甘い匂いに一瞬怒りを忘れそうになる。
 薄い胸はふくらみなどなかったが、薄い桃色の二つの飾りは、洋也の目を捕らえて離さない。
 全身が小刻みに震えていた。
 喉を鳴らしながら泣く姿に、洋也は胸の痛みを覚えた。
 大切にしたいと思っていた。
 何よりも大切だった。
 だからこそ、失うと思った恐怖は大きく、裏切りを許せなかった。
「助けて……」
 小さな声が助けを呼ぶ。
「誰を呼ぶんだ、あなたは」
 憎々しげに聞いた。
 愛している。だから、憎い。
「助けて……ひろ…や……」
 ひっく、ひっくと鳴き声にまぎれた声が自分の名前を呼び、洋也は驚いた。
 聞き間違いかと思った。
 自分の名前など呼ばれるはずが無いと。
「洋也……」
 涙に濡れた目は自分など見ていない。けれど確かに秋良は自分の名前を呼んだ。
 身分や地位にとらわれず、一人の男として自分を見て欲しいから、名前を呼んでと頼んだ。
 無理矢理剥ぎ取った着物を秋良に被せた。
「私は……謝らない」
 多分秋良は聞いていないだろう。それでよかった。
 洋也は逃げるように寝所を出て行った……。