破れた着物をかき合わせ、震えていると外から秋良を呼ぶ声があった。
 夏月の心配そうな声に、秋良は着替えを持ってきてと頼んだ。夏月はすぐに新しい着物を持ってきてくれ、泣きながら着替えを手伝ってくれた。
「秋良様……」
「大丈夫だよ、夏月。ごめんね、僕のために叱られて。夏月はお咎めがないようにするから。辛いだろう? 屋敷に戻っていいよ」
 まだ手を震わせる夏月に、秋良が声をかける。
「そんなっ、秋良様。屋敷に帰るのなら、秋良様も一緒でなければ嫌です」
 夏月はあらたな涙を零す。
 裂けた着物を見れば、秋良がどれほどつらかったか、わからない夏月ではない。それでも尚、自分のことより夏月のことを心配する秋良が痛々しい。
「僕は……帰らない。僕は、出て行けと言われるまで、ここにいる」
 酷い仕打ちを受けたばかりなのに、洋也のことを怖いと思ったのは事実なのに、それでもここを出ていこうとは思えなくなっていた。
 秋良の涙に手を止めてくれた人。謝らないと言ったのは、きっとその気持ちを心の中に持っているから。
「……秋良様」
「でも、もう、見捨てられたかもね。帰れって言われちゃうかも」
 自分で言った言葉なのに、それがとても悲しくて、秋良の心を傷つける。押し倒されるより、着物を引き裂かれるより、見捨てられたかもという言葉が酷く痛かった。
「夏月ももう寝て。皆にもごめんなさいと言っておいて。僕ももう寝るから」
「……はい。失礼いたします。おやすみなさいませ」
 真夜中の騒動は、その激情を過ぎて、痛いほどに静けさを取り戻していた。
 秋良は床に横になった。一人寝の夜はそれでなくても寒く感じる。
 いつも抱きしめてくれる温もりがないことが寂しくて辛い。その温もりを永遠に失ったかもしれないという恐怖に、秋良は身体を丸めて耐えるしかなかった。
 緩やかな眠りが近くに来ては、はっと目が覚める。そして一人を確かめさせられる。
 寝返りさえ打てず、いつもより長く感じる夜を一人耐えなければならなかった。


 翌朝、どんな処分が下されるのだろうかという夏月たちの心配をよそに、帝からは一切の連絡がなかった。
 昨夜の騒ぎも、帝は本当に腹心の最小の部下だけを動かしたらしく、どこからも噂一つ聞こえてこない。
 だからといって安穏としていられるわけもなく、承香殿は重苦しい空気に包まれていた。
「秋良様、もう少し食べてください」
「もう、食べられない」
 一口二口箸をつけただけで押し返された膳を見て、夏月が眉を寄せる。それでなくても食の細い人なのだ、なんとか工夫を凝らして食べさせようとするが、日頃から小食で賄いを悩ませている。
 昨日の今日で食べろというのは無理だとは思うが、だからこそ食べさせたい。今日は秋良の好きなものばかりを作ってくれるように頼んでいたのに、これではますます心配になってしまう。
「せめて半分だけでも」
「ごめん。夜にはちゃんと食べるから」
 その約束は甚だ疑わしいが、まさか押さえつけて食べさせるわけにもいかず、夏月は仕方なく膳を下げた。
 秋良はずっと部屋にこもりきりで、話もしたがらない。
 咲玖来も色々と心配をしてくれるが、今日ばかりはそっとしておいたほうがいいと判断して、周りにも静かにするようにと手配をしてくれている。
 夕方になって、まさかと思っていた先触れが、帝がやってくることを告げる。
 咲玖来は驚いて、先触れの女房に本当かと尋ねて、相手を不審がらせた。何しろ、帝が承香殿を訪れるのは当たり前のことなのだ。
「秋良子様、帝のお渡りがございます。ご準備下さいませ」
「…………え?」
 秋良も夏月もまさかと顔を見合わせた。
「ほんとう……なの?」
 秋良の驚きに、咲玖来も間違いないと思いますと、自信のない答えを返した。
 慌しく準備が整えられ、夏月に着替えさせられながら、秋良はまだ実感がなかった。
 一人部屋に座っていると、扉の向こうがざわざわとして、本当に帝が入ってきた。
 驚いて顔を上げたままの秋良を、洋也は静かに見下ろしている。
「来るとは思わなかったのか?」
 嘲笑うように言われて、秋良は慌てて頭を下げる。
「お待ちしておりました」
 声を震わせながら告げると、ふんと笑う気配がした。
「心にもないことを」
 どさりと座る音がして、用意された酒の膳を引き寄せる。秋良は慌てて徳利に手を伸ばそうとした。
「何もしなくていい!」
 怒鳴るように言われて、秋良はびくりと手を止めた。
「嫌々されても嬉しくない」
 嫌々ではないと言いたかったが、洋也は既に自分で酌をして飲み始めた。
 どうしていいのかわからず、秋良は少し離れた場所で俯いているしかなかった。
 いつもなら……楽しく会話をして、手を握り合ったり、抱きしめられたりして、自分でも恥ずかしくなるくらいの、甘い空気が漂う。
 けれど今はピリピリとした緊張が二人の間にあり、言葉の一つもない。
「あの……」
 秋良が口を開こうとすると、じろりときつい眼差しが向けられるので、何も言えなくなってしまう。
「なんだ、あの衛士が気になるのか?」
 勝也のことは心配だったが、それに頷ける雰囲気ではなかった。
「あれは謹慎させてある。まだ処分はしていない。いずれ御所以外の勤務を言いつける」
 それが勝也にとっては悪いことなのだろうということはわかるが、止めてと言えばもっと酷いことになるのは明らかだった。
「夏月は……」
 せめてそれだけはなんとかしたいと、怖いながらも口にした。
「どうもしない。腹は立つが、あれを処分すると、事が公になる。そうなれば……」
 言葉を切った洋也に、秋良はどうしたのだろうと視線を上げた。
「あなたを逃がしたりしない。一生ここに閉じ込めてやる」
 一昨日の夜、ここに戻ってくれると信じることができたら、家に帰ることもできると、言ってくれた人と同じとは思えない。
 そうさせてしまったのは自分だと、秋良は深い悲しみに陥った。
 それ以降、会話もなく、二人の間の距離が縮まることもなく、張り詰めた緊張のまま時間だけが過ぎていった。
 そしてはっと秋良が気がつくと、いつの間にか自分だけが布団に寝かされていて、夜は明けてしまっている。
 あんな状態だというのに自分は寝てしまい、多分、洋也が褥に運んでくれたのだろう。
 どうしてあの緊迫した状況で寝てしまえるのか、自分がかなり情けない。
 それからも洋也は今までと変わらずに、夜になれば承香殿を訪れ、無言で酒を飲み、いつしか眠っている秋良を寝かせて、明け方になればまた無言で帰っていく。
 夏月にも秋良にも咎めはなく、承香殿はまた和やかになりつつあったが、それとは反対に秋良は憂鬱を溜め込んでいた。
 何故……無言で、何もせず、重苦しいだけなのに、洋也は通ってくるのだろう。
 秋良にはその真意がわからなかった。
 あれ以来、抱きしめられることもない。洋也にとっては、楽しいことなど何一つないはずだ。
 なのに……何故。
「夏月、……お腹が痛い」
 脇息にもたれて、秋良がおさえているのは、腹部でも少し上の位置だった。
「お薬をお持ちしましょうか?」
 時折同じことを訴える秋良のために、安藤家から持ってきた薬がある。少し苦めのその薬を普段は嫌がる秋良だが、今回は素直に飲んだ。
「お加減が優れないとか。お医者様をお願いいたしましょうか?」
 咲玖来が心配そうに夏月に尋ねるが、夏月は首を横に振るしかない。医者を呼ぶなら安藤家から呼ぶしかない。御所の御典医に、秋良が男だとばれるわけにはいかないのだ。
 秋良の立場で物々しく安藤家の医者を呼ぶのは憚られた。
「秋良様がいつも飲まれるお薬がありますから」
 実際のところ、薬を飲んで休んでいると、腹痛も去るのか、ゆっくりと起き出す。
「あの、秋良様がこのことは陛下には内密にしてくれと仰っているんです」
 様子を窺うように上目遣いで頼まれて、咲玖来は迷いながらも頷いた。今秋良の立場は非常に難しい。二人の空気からもそれが察せられる。
 どんなことが原因で、また帝の怒りを買うのかわからない状態の中では、不用意に帝の耳に入れるわけにはいかない。
 秋良の腹痛も、帝の態度が原因のような気がしている咲玖来は、秋良の望みのままに振る舞うしかなかった。
 けれど、それからも秋良は頻繁に腹痛を訴えるようになり、薬の効きも悪くなっているとしか思えなくなっていった。