陽が西に沈む頃、帝は承香殿にやってくる。
 日中は体調の不良を訴え、半ば以上を床に臥している秋良は、その頃になると起き上がり、帝を迎える準備をする。
「秋良様、大丈夫ですか?」
 夏月の心配そうな声に、秋良は白く痩せた頬で微笑む。
「大丈夫だよ。不思議だよね、夜になると痛みが引くんだ」
 決して無理をして言っている訳ではないが、夏月はあまり信用している様子ではない。
「一度お屋敷に戻って、先生に診て頂ければいいのですけれど……」
 昼間の辛そうな秋良を見ている夏月は、今にも秋良が倒れるのではないかと気が気ではないのだ。
「本当に大丈夫。だから、家に戻ることは言っちゃ駄目だよ。僕は帰らないんだから」
 秋良が酷く思いつめた顔をして言うので、夏月は顔を伏せて唇を噛んだ。
 あの日以来、秋良は帰りたいと言わなくなり、夏月にも屋敷や父母を懐かしがるようなことを言うと咎めるようになった。
「ちゃんと薬も飲んでるだろ? ずっと痛いわけじゃないんだから、すぐに良くなるから」
 逆に説得されるように言われると、夏月も黙るしかなくなる。
 けれど、誰がどう見ても、秋良の状態は悪くなっていってるようにしか見えなかった。
「陛下、恐れながら奏上したいことがございます」
 一人でふらりと立ち寄ったように訪れた帝に、出迎えの女房の中から、咲玖来が頭を下げたまま申し出た。
 ここ数日、帝は不機嫌を隠しもせず、難しい顔をしてピリピリとしているので、もてなすにもかなり神経を遣うほどだったのに、咲玖来が物怖じもせずに申し出たことで、他の女房達ははっと息を飲むほど緊張した。
 すっと足を止めて、洋也は切れるような視線を咲玖来に向ける。
 姫のことでは何も聞きたくないというのがありありとわかる。
「何だ」
「秋良子様におかれましては、先日来大変お加減が思わしくなく、毎日のように床に伏せっておられます。どうかお医者様に診ていただけるように陛下からもお計らい下さいませ」
 眉間に深い皺を寄せて、洋也は夏月に視線を移した。
「夏月、本当か」
「……はい」
「いつも起きて待っているではないか」
 納得できないというように、帝は平伏す女房達を見た。
「夜には痛みが引くようでございます。けれど、お昼頃には毎日痛みを訴えられまして」
「咲玖来、何故今まで黙っていた」
「秋良子様が……」
 苦々しい顔をして、洋也は部屋の中へ入った。
 頭を下げる秋良の前に仁王立ちになる。
 昨日までは用意された膳の前に座り、無言で酒を飲み続けていた洋也の突然の行動に、秋良はまた責められるのではないかと恐れながら顔を上げた。
 痩せた……。とは思っていた。それが灯りの下で間近に見ると、思っていた以上に痩せていることに気がつく。
「体調が優れないのなら、何故言わない」
「大丈夫……です」
 今も痛みは引いている。不思議と洋也が来ると思えば、痛みは引くのだ。朝、寝床で一人で目覚める時が一番辛い。
「ギリギリまで我慢して、どうしようもなくなって、倒れてでも家に帰りたいか」
 意地悪そうに言われて、秋良は悲しくなり、首を横に振って否定するしかなかった。
「すぐに医者の手配をさせる」
「でも、僕は……」
 医者に身体など見せられない。
「わかっている。さっさと寝ろ」
 秋良の腕を取り、引き倒すように褥に横にする。
「あの……」
 布団から首だけを出し、何かを言いたそうに秋良が口ごもる。
「いないほうがいいのなら、出て行く」
 秋良は慌てて首を振る。
「眠るまででいいから……」
 秋良がそっと手を伸ばすと、洋也は酷く驚いたようにその手を見つめていた。
「駄目……ですか?」
 震える白い手を、洋也は今にも壊れそうなものを包むようににぎりしめた。
 秋良は儚げに微笑んで目を閉じた。
 冷え込んでいた手も、足も、心も、その場所から暖かくなっていくのがわかった。
 このままきっと、調子の悪いのだって治る。
 久しぶりに優しい手を感じて、それだけで嬉しくなる。
 昼にあれだけ寝たのに、また眠くなってくる。
 明日になれば大丈夫。もう大丈夫。
 けれど、朝になってみれば、自分はやはり一人で眠っているのだった。隣に洋也が寝ていた様子はない。
 小さな溜め息をつくと、またちりりと痛いような気がした。


「秋良子様、お医者様が見えられました」
 御簾の向こうから声をかけられて秋良は慌てた。
「ちょっ、ちょっと待って」
 ぎゅっと衿を掻きあわせたとき、机帳の影から夏月が現れた。
「秋良様、大丈夫ですよ」
 夏月は嬉しそうに笑って、その医者を招き入れた。
「せ、先生……。あっ」
 安藤家でいつも秋良を診てくれていた医者と、彼に引き続いて入ってきた人物を見て、秋良はあっと声をあげた。
「お母様」
「秋良……」
 母親は医者の対面に座って、秋良の手を握った。
「こんなに痩せて……」
「申し訳ございません」
 夏月が頭を下げるのに、母親は涙を浮かべながら、悪いのは秋良を入内させた自分達だと首を振った。
「先生、お願いします」
 帝は秋良のために安藤家から医者を手配するように頼んだらしい。一緒に母親まで呼んだのは、やはり秋良の気持ちがそれで少しでも安らげばという配慮だろう。
「もう、大丈夫です」
 まだ青白い顔色で告げても、真実味は無かった。医者も「秋良様はいつも大丈夫と言われるのでしたな」と苦笑している。
 どんな症状がいつから出ているのか、今はどのような状態なのかという一般的な問診から、横になっての触診と、診察は進んで、医者が秋良から離れて正座する。
「先生、どうなんでしょう?」
 母親が心配そうに尋ねる。
「秋良様」
 じっと深い瞳で見つめられて、秋良は僅かに身を引いて、はいと小さく返事をした。
「ここにいるのが辛いですかな?」
 秋良はごくりと唾を飲む。
 心の中にほんの一瞬、これに是と答えれば帰れるかもしれないと、そんな考えが浮かんだ。けれどその考えが浮かんだ次の瞬間には、口がもう否と答えていた。
「いいえ。いいえ、辛くはないです」
「では、私が帰れと言えば?」
「帰りたくないです」
 その質問にもすぐに答えられた。嘘偽り無い心からの気持ちだった。
「しかし、私は秋良様がいつまでもここにおられるのは、良いこととは思えませんね」
 秋良は悄然と俯いた。
 それは自分でもわかっていた。
 帝の寵愛が自分に向かっていることで、色んな軋轢が生まれている。
 少なくなったとはいえ、陰湿な苛めも止むことはない。
 御所の奥に巣食う暗い噂も、元は自分がここにいるためだとわかっている。
「今は薬を飲んで安静にしてくださいとしか言えません。薬はいつも秋良様が飲まれているものを変えましょう。苦くても飲めますか?」
「はい」
 神妙に頷く秋良に、医者は苦笑しながら立ち上がった。
「それでは後で薬を届けさせましょう」
 医者が帰っても秋良の母親はしばらく残り、いろいろと話をしてくれた。
 その話を聞きながらも、秋良は帝がこの診察の結果を聞けばどうするのだろうかと、そんなことを心配していた。

「それで、秋良子の様態は」
 診察の済んだ医者を、帝は御前に呼び出していた。
「秋良様は、昔から一度嫌だと申されたら、押し通す方でした」
 突然の昔語りに、洋也の方は出鼻を挫かれたような気持ちになる。老齢とはいえ、帝を目の前にして、よほど度胸があるとしか思えない態度だ。
「周りには遣い過ぎるほど気を遣われる方で、いつも自分を抑えておられる。周りが傷つくより、自分が傷つく方を選ばれる。そのくせ、一度こうと決めたことは、押し通される方です」
 何が言いたいのかと、帝は鹿爪らしい顔で老医師を見つめる。
「ご実家に戻られることをお勧めしましたが、嫌だと申される。いつも嫌がって、逃げ回っていた薬より苦い薬でも我慢すると仰るのだから、私にはもう何も言えません。陛下がお決めください」
 そう言って笑い、医者は頭を下げた。
「……嫌だと……言った?」
 信じられない気持ちの方が強い。
 医者が帰らせるべきだと言うなら、自分も頷かないわけにはいかない。
 いよいよ手放さなくてはらないのだと、諦めてもいたのだ。
 秋良は知らないが、政務の方でごたごたもあり、決断を迫られている状態でもあり、洋也はいよいよ諦めの境地にあった。
 もう秋良を帰してやれるのなら、今しかないという状態でもあった。
 けれどどうしてもその決断がつかない。
 帰ればいいと言ってやれば、どれほど秋良は救われるだろうか。なのに、それは嫌だと、洋也の心が訴える。
「秋良様は不思議な方ですな。隠そうとすればするほど、相手の傷を察してしまうようです。私も昔、あの小さな手に背中を撫でられて、死ぬほどの苦しみから救っていただいたことがあります。陛下もその手をご存知なのでしょうな」
 洋也は沈黙した。じっと自分の手を見つめる。
 昨日の夜差し出された手。あの手を慰めるつもりで握ったが、本当に慰められたのはどちらだろう?
「秋良様には薬を処方いたします。それを飲んでいただけば、しばらくは大丈夫でしょう。……ご心労の原因さえ取り除ければ」
 どきっとするようなことを言って、医者は帰っていった。
 洋也は詰めていた息を長く吐き出して、額を手で押さえた。
 秋良は本当に帰りたくないと言ったのだろうか。
 言ったとすればそれは何故なのか。
 洋也が怒ってあの若者に厳罰を下すと恐れているからだろうか。
 悶々と悩めば悩むほど、明るい方向は見えてこない。
 考えることを放棄したように立ち上がった洋也を、まるでどこかから見ていたように、ばたばたと慌てて走り寄ってくる足音が聞こえてきた。
 洋也は表情を引き締め、帝としての威厳を一瞬にして取り戻した。


 かたんと響いた小さな音に秋良ははっとして起き上がった。
 前夜、難しい顔で現れた洋也に、医者の診断を告げることはできなかった。洋也も聞こうとしなかったので、秋良はかえってほっとしていた。
 相変わらず洋也は一人で黙々と酒を飲み、壁にもたれたままで秋良に話しかけることもなかった。
 夜の分として渡された薬を飲んだ頃から、眠くて仕方なかった秋良は、いつの間にか眠ってしまったようだった。また一人で布団に寝かされていた。
 秋良の起きた衣擦れの音が聞こえたのか、洋也が戸口で振り返った。
「……帰るの?」
 まだ眠気の残る声で秋良は尋ねた。
 窓から差し込む月の明かりで、洋也が苦々しそうに笑うのがわかった。まだ朝には早すぎる時間だ。
「どうして今夜に限って、あなたは目が覚めるのだろう」
 洋也の言葉に、秋良は首を傾げる。
「昨日、大和の方で反乱があった。明日……いや、もう今日か、それを治めに……行ってくる。しばらくは帰れないだろう」
「え……?」
 秋良は急に寒気がして、身体がぶるりと震えた。
「どうして陛下が……行かなくてはならないの? そんなの……他の人が行くものだろう?」
 洋也は唇の両端を持ち上げる。
「皇室の反乱であるならば、誰かに行かせて済む問題ではない」
「そんな……」
 唇まで震えてくるのがわかった。
 行かせたくない。引き止めたい。秋良は震える手を伸ばそうとした。
 洋也はその手を悲しそうに見つめてから、背中を向けた。
 先々代の帝の遺児が、正統な後継者の名乗りを上げ、帝を追い落とそうとしている。
 その動きは察していて、色々な手を打っていたが、まさか相手が武力によって反乱の軍を立てるとは思わなかった。洋也の判断が間違っていたことになるが、洋也にとっては血の繋がった叔父がそこまでするとは到底思えなかったのだ。裏にきな臭い匂いを感じていて、それを調べさせているところを気づかれてしまい、乱を急いだとしか思えない状況だった。
 地方で起こった反乱だ。戦の火種にはしたくない。それだけは避けたい。ならば自らが出向くのが一番だと思われた。出向くだけで叔父の方が折れてくれそうにまで、話はつけてある。だが、油断ならない相手がいるのもまた疑いのない事実だった。
「今はまだ反乱だ。だが、秋良、私が負けたら、逃げろ」
 秋良は顔を歪ませる。
「咲玖来と夏月には言い含めてある。反乱軍有利になれば、あいつが助けに来る」
「あいつ?」
「あの時と同じようにして逃げればいい」
 何を言われているのか漠然とわかってきた秋良は首を振る。
「いや……嫌だ……」
「いいか、ここに残っては駄目だ。女御達は出家させられるか、新しい帝の慰み者になればまだいいほうだ。どんな処遇になるか見当もつかない。だから、必ず逃げろ」
「……帰って……くるんだ…ろ?」
 洋也はそれには返事をせず、扉を閉めようとする。秋良は慌ててその戸に縋りついた。
「嫌だ。行くな」
「……私など、帰ってこないほうが……あなたの幸せになる」
「洋也っ!」
 扉を開けようとするが、それは秋良の目の前で固く閉じられてしまった。
「洋也っ!」
「さよなら、秋良」
 扉越しに響いた小さな声。誰かが押さえているのか、扉はどれだけ叩いても開かない。
 外がゆっくりと白み始め、清涼殿の方から荒々しい声が聞こえてくるようになった。
「……洋也」
 いくら呼んでも聞こえるはずもないのに、秋良は泣きながらその名前を呼び続けていた。