主がいないというだけで、御所は不気味なほどに静まり返っていた。
 重い空気がたちこめ、誰もが不安げに顔を見交わす。
 一日に二度、帝の無事と戦の勝利を祈願する祈祷が行なわれる以外は、咳一つ聞こえないかと思うほどの息苦しい空気が張り詰めている。
 秋良も一心に祈り続けていた。
 勝利などどうでもいい。誰が帝であろうとも、秋良にはもはや関係なかった。
 ただ、ただ、洋也が無事に帰って来てくれますように、と祈っていた。
「秋良様、お薬の時間ですよ」
 夏月が薬湯を持って入ってくる。その声に気づかぬほど秋良は熱心に祈りを捧げていた。
 その後ろ姿を夏月も思いつめた表情で見つめる。
 皇軍敗戦の報が入れば、秋良を逃がしてくれと帝から頼まれた。そのための手筈まで教えられた。
 入内の時のように命がけで逃げなければいけないというものではない。内と外から秋良を逃がすための助けは十分に手配されている。
 男物の衣装まで用意されていた。髪を落とし、衣装を着替え、夜陰に紛れて安藤家まで走り、その後は田舎までの逃走となる。
 万が一の場合にと言われていたが、あの帝がそこまで心配するからには、よほどの心配の種があるのではないかと、夏月たちは気がかりでもあった。
 逃走の手順には何も問題がないように思われた。ただ一つあるとすれば、それは秋良本人ではないだろうか、と夏月は思っている。
 あの朝、黙って出て行くはずだった帝に、秋良が目覚めてしまった。
 必死で取りすがる秋良を振り切って、帝は出て行ってしまった。
 それからの秋良はひどく思いつめていて、ほとんど喋りもしない。
 ただ、薬が効いているのか、祈りに熱心なあまり神経が別のことで張り詰めているためか、お腹を痛みを訴えることはほとんどない。
 我慢しているのかと思ってみたが、本当に痛くないと言って、食欲も戻りつつあった。
「秋良様、あまり根をつめないで下さいませ」
 夏月が秋良の肩をそっと叩く。秋良ははっとして顔を上げた。
「あ……あぁ、夏月。お薬の時間?」
 そこでようやく薬湯の匂いに気がついたらしい。
 秋良は盆の上から湯飲みを取り、口に近づけて少しばかり躊躇する。
 薬の苦さを思い出して眉を顰ひそめるが、そのあとすぐに意を決したように、ごくごくと飲み込んでしまう。
 盛大に顔を顰めては口から舌を出して、その苦さを少しでも外へ出そうとする。
「秋良様、これを」
 小さな甘い干菓子を渡すと、秋良は慌ててそれを舌に乗せる。
 ほろほろと溶けていく甘さに、秋良はほっと息をつく。
「お加減はいかがですか?」
「大丈夫。もう本当に痛くないんだよ」
 そう言って微笑むが、その笑顔はとても寂しそうで痛々しい。
「反乱はどうなったんだろうね。早く抑えられるといいのに……」
 遠い目をして南の方を見つめる。
「きっとすぐですわよ」
 元気付けるように言う。
「きっとすぐに、ご無事にお戻りになります」
 無理にも笑う。
 秋良もそれを信じたくて笑う。
「そうだよね」
 しかし、半ば恐れていたような、けれど予想もしてなかった悪い報せが、もたらされてきたのだった。


「えっ…………、怪我を?」
 反乱は程なく制圧できた。帝が自ら出向いたことで、抵抗しようとしていた人たちに戸惑いが生まれたらしい。
 そうなればもう反乱など無きに等しくなった。
 皇軍は反乱の後始末にとどまっていたと表向きに思わせて、内々に黒幕を炙り出そうとしていたところ、その人物は自ら名乗り出てきた。
 しかしそれは罠だった。
 黒幕と思われる人物を取り調べているとき、本当の黒幕が帝に隠し持っていた刃を向けたという。
「幸い、お命に別状はございません。明日にも御所にお戻りになるようです」
 咲玖来の報告に、秋良は自分が傷を負ったように真っ青になった。
「お怪我は……酷いの?」
「詳しくはまだ伝わってきておりません。何しろみんなお出迎えの準備で慌しく、話を聞ける状態ではなく」
 咲玖来に謝られて、秋良は申し訳なく感じる。
「そうだよね。ごめんね。明日になればきっとわかるよね。ご無事なのがわかっただけでも嬉しいよ。ありがとう、咲玖来」
 明日になれば会える。明日は無理でも、すぐにも会える。
 もう明日にはすぐそばまで帰ってくるのだと思うだけで、ずっと抱きかかえていた不安が晴れていくようだった。
 けれど、御所に戻ってきた帝は、傷の静養のためにと寝所にこもり、誰にも会おうとはしなかったのだった。


「陛下、安藤様がお越しになられました」
 戸の外から声をかけられて、洋也は中へ通すようにと伝えた。
 やがて一人の従者を連れた初老の男が入ってくる。
 洋也は半身を起こして、こんな姿のまま話すことを許して欲しいと詫びた。
 御簾越しに見える義理の父は、いつもと変わらず物静かで、大切な一人息子を残酷な手法で奪った男を責める様子は見せない。
「お加減はいかがでございましょうか。本日はこれに息子も連れてお見舞いに窺わせていただきました」
 従者と思ったのは息子のようだ。内密の相談だったため、父親も息子も努めて控えめな服装をしているため、気づかなかった。もとより華美なことを好まない人なので、一部には田舎者と蔑むものもいたが、洋也はとても好感が持てていた。
「貴方達には酷いお願いをしてしまった。勝手に奪いながら、病まで与え、今度は無理につれて帰れなどと、私など戻らねばいいのにと思うほど腹立たしかっただろう」
 帝は秋良の父に、秋良を連れ戻すようにと頼んでいたのだ。
 今頃は咲玖来がそれを伝え、秋良の母親が引き取りに行っているだろう。
 それを考えると、傷跡よりも強い痛みが胸を締め付ける。
 この遠征の前から二人の間にあった問題を、洋也は見つめなおしていた。
 あの人を手放すのは身を切られるより辛い。けれど、それがどれほどあの人を苦しめているのか、とうとう病まで引き起こしてしまった。
 自分が許せない想いだった。
「この傷を負ったときに感じたのは、これこそ秋良の痛みのだということだった。貴方達にすれば、もっと痛いと怒られるだろうけれど」
 会えない今なら手放してやれる。
 追えない今なら、諦めるしかない。
 そう思って安藤家に遣いを出した。
「あとの生活は何不自由のないように計らうつもりだ。貴方達ももうこんな男の顔も見たくないというのであれば……」
 言いかけた洋也の言葉を父親が遮った。
「陛下、畏れながらお尋ねしたいことがございます」
「なんだろう」
 話の腰を折られたことに怒ることもなく、洋也は尋ね返した。
「陛下はもう、秋良などお傍に置かれることも嫌だとお思いでございましょうか」
 その質問にはそうだと答えるべきだろう。そうは思ったが、例え本人のいないところでも、どうしてもそうだとは言えなかった。
「ずっと……傍にいて欲しいと……今でも思っている」
 未練がましい男だと笑われてもよかった。秋良を忘れることなどできない。
「春久くん、君にも謝らなければ……。あの日、必ず秋良を幸せにするから許してくれと、固く約束したのに……私は……その約束を……守れなかった」
 父の後ろで俯いたままの兄にも声をかけた。
 よほど怒りで一杯なのだろう、春久は顔も上げない。まだ最低な男だと罵られるほうが楽だと感じた。
「陛下は病床の中でも、政だけは疎かになさいませんでした。この度の反乱のこともあり、大層お忙しいのでございましょう」
 父親はこの場にあまり関係あるとは思えないことを唐突に語り始めた。
「陛下、長男は陛下の御勅命を戴き、今は国境の警備の職についております」
「…………」
 確かに、その命令を出したのは自分だった。
「陛下はご存じないかもしれませんが、私には息子が二人おりまして、これは末息子の方でございます」
 まさか。……そんなことは……。
 洋也は有り得ないことだとばかりに、その人を見つめ続ける。
 その人は覚悟を決めたようにそろりそろりと顔を上げる。
 瞬きもできずに、洋也は彼を見つめ続け、顔を上げたその人と御簾越しに目が合った。
「……あ、……嘘だ」
 夢でも見ているのだろうか。俄かには信じられなかった。
「どうしても聞きたかった。貴方の本心を……」
「……秋良」
 女性の姿しか見たことがなかった。そうさせたのは自分だ。けれど愛らしい姿に、女性の姿が似合うのだと思い込んでいた。
 略装ながら、狩衣を着たその姿の美しい凛々しさに、しばし言葉を忘れてしまう。
「私はもう疎まれてしまったのかと……それが悲しかった。それならば、このまま帰ろうと思っていました。でも、そうでないのなら、帰りたくありません」
 きっぱり言い切る表情は凛としていて、惚れ惚れとするくらいに綺麗だった。
「秋良……ここへ……」
 洋也が呼ぶと、秋良は躊躇いながらも、御簾を越して伸ばした洋也の手をそっと握った。
「ご無事で……ご無事で良かった……」
 洋也の顔を見た途端、秋良は涙を零し、それしか言えなくなったようだ。
 握られた手をそっと引っ張ると、秋良は洋也の胸に寄り添うように抱きついてきた。
「私は……夢を見ているのだろうか」
 洋也が呟くと、秋良は首を振った。
「嫌だ……貴方が行ってしまってから、僕はいっぱい夢を見た。怪我をしたと聞いてからは、貴方の苦しむ夢ばかり見た。……もう、そんな夢は見たくない」
 そっと父親が席を外す姿を目の端に捉え、洋也は秋良を抱きしめた。
「すまなかった。あなたを苦しめている自分が情けなくて、結局は自分が楽になることを考えていたんだな、私は」
 また一段と細くなったように感じる身体を抱きしめ、洋也は自分の罪深さを思い知る。
「放したくない。帰したくない……。酷い男だ……私は」
「帰らなくてもいいんだよね?」
 秋良が胸の中で顔を上げる。
「ずっと傍にいて欲しい……。今度こそ、あなたを幸せにすると誓う」
 秋良は鳶色の瞳を潤ませて、綺麗な涙を零した。
「僕は……今も幸せだよ」
「秋良……」
 秋良の言葉に驚き、洋也は後悔や喜びが綯い交ぜになって、一気にこみあげてきた。
 もう、何も考えられなかった。
 ただ胸にあるのは、秋良を愛しいという気持ちだけになった。
「痛い?」
 洋也の肩に巻かれた白い布に気がついて、秋良は眉を寄せる。
「大丈夫だよ」
 秋良を強く抱きしめることで、洋也は傷などもう痛くないと証明しようとする。
 僅かな痛みは残っていたが、そんなことはもうどうでもよくなっていた。
「愛している……秋良」
「……洋也」
 名前を呼ばれることの幸せをかみしめ、洋也は愛しい人に誓うように口接けた。