「どうしてくるのかなぁ」
「秋良様」
 秋良が呆れたように言えば、咎めるのは夏月だ。
 言われた当人は何が楽しいのか、にこにこと笑っている。
 三日夜を過ぎれば来なくなる。少なくとも、他の女御達はそうだったと聞いて、秋良は安心していた。
 そのうち秋良に飽きれば、というか秋良の存在を忘れてくれれば里下がりも許してもらえるだろうと、たかを括っていた。
 その目論みは見事に打ち砕かれた。
 毎夜、毎夜、帝は通ってくる。
 そして初夜以来、秋良は契りを許していないのに、それすらも気にする風もなく、ただ抱きしめて眠るために彼は来る。
 そうなると、『帰らせてくれ』と言い出すのも機会を逃したままで、帝の顔を見ては悪態をつき、夏月に叱られるというのが日課のようになってしまった。
「姫は毎日ご機嫌斜めだな」
「姫って言うな」
「秋良様!」
 どうして言った本人ではなく、お付の女房に叱られなくてはならないのだ。
 夏月たちは最初、秋良の味方だった。
 何がなんでも秋良を守ると誓ってくれていた。それはもう、決死の覚悟が覗えた。
 それが今では……。
「夏月、どうして僕の味方じゃないの?」
 秋良は不満の捌け口を正しい相手に向けることにした。洋也に何を言っても嬉しそうな顔をされるだけで、ちっとも効果がない。
「もちろん、秋良様の味方です」
 嘘だ。
「ですから、秋良様をこよなく大切にして下さる陛下も、夏月には大切な方なのです」
 たまらないというように帝が笑い出した。
「笑うな」
 秋良はふいと横を向いて、夏月にも帝にも背を向けた。
「夏月、下がって良いぞ」
「失礼いたします」
 夏月が深く頭を下げて下がる。それで二人きりになってしまう。
「秋良、こっちにおいで」
「嫌だ」
「毎日嫌だと言うね、秋良は。たまには素直に来てくれないかな?」
 秋良は唇を尖らせ、横を向いたままだ。
 室内に焚かれた香が、微かな香りを運んでくる。秋良は香が苦手だったが、洋也が選んでくれたこの香りは気に入っている。
 匂いがきつくなく、清々しい水のような感じがするのだ。
「私は別に、嫌がる姫を抱き寄せるのも、また楽しいと思えるからいいけれどね」
「なっ……」
 秋良は頬を朱に染めて、洋也を睨んだ。
「どうする?」
 可笑しそうに洋也は秋良を見ていた。
 秋良はとても不満そうに、渋々と膝を擦りながら、洋也の傍まで近づいた。
 手を伸ばせば届く距離だが、どうしても身体を寄せることはできなかった。
「おいで」
 洋也が腕を広げる。
 秋良は首を振って、じっと床を見つめた。
 どうしても自分から、洋也の腕の中に抱かれにいくことはできなかった。
「仕方ないな」
 洋也は笑い、秋良の腕を掴み抱き寄せた。
「いつになったら、待っていましたと出迎えてくれるのだろうね」
「ずっとない」
 憎まれ口を叩きながらも、秋良はほっとしていた。
 どうしてなのかわからないが、洋也の腕の中はとても暖かく、安心できるのだ。
 先日、帝の物忌みの日、夜の渡りがなかった。その夜はとても寒く、心細く、長かった。
 それ以来、本当は抱かれて眠ることが嫌ではない。ということに気がついてしまった。
 夜が来て、洋也が来るとほっとする。ほっとすると同時に、そんな自分が怖かった。
「もう来なくていいよ。一人の方が気が楽だ」
 心にもないことを言うと、顎を掴まれ、洋也の方に無理にも顔を向けさせられた。
「いっ……」
 痛いという言葉は言えなかった。はじめて見るような強い視線に晒され、秋良は怯えた。
 睨み合うように見つめられ、秋良は身体が震えるのが分かった。
 逃げ出したくても、肩を抱かれた腕も、顎を掴んだ手もきつく、身体が竦んで動けなかった。
 ふっと洋也の視線が緩んだ。そして顎を掴んでいた手の力も。それで秋良も身体の強張りを解いた。
 秋良が嫌がれば、洋也は何もしない。
 その油断があった。
 近づいてくる顔に、どうしてと思う間もなく、唇が重ねられた。
「……っぅ」
 柔らかな唇が自分の唇に触れている。
 秋良は驚き、頭の中は混乱する。
 逃げ出そうとするが、身体は思うように動いてくれない。肩を抱く洋也の腕が、より自分を近づけようとしている。
 両手で洋也の胸を押し返すがびくともしない。それで顎を掴む手を引き離そうとしたが、両手でその手首を持って引っ張っても、少しも動いてはくれなかった。
 ちろりと熱く塗れたものが秋良の唇を舐めた。
「……んっ!」
 秋良は唇を固く閉じて、目もぎゅっと瞑った。
 怖い……。怖い……。
 力で捩じ伏せられるのは、たまらなく怖かった。
 屋敷の奥深くで、大切に育てられてきた。だから、力で制圧されるということが恐ろしい。
「…………っう、……っ」
 涙が零れるのを見て、洋也は唇を離した。
 秋良は抵抗も忘れ、ぐったりとその身を預けてきた。
「……秋良」
「……も……いって……」
 秋良は泣きながら、震える手で洋也の胸を叩いた。
「秋良?」
「何もしないって。嫌がることはしないって、約束したじゃないか。……信じてたのに、……信じてたのに……。……ばか……」
 信じてくれていたのかと、嬉しい反面、洋也は複雑になってしまった。
 一度でもむりやりに奪えば、あとは流されて自分のものになってくれるかもしれない。
 そんな思いがあったのは確かだ。
 だが、無理な関係は望まなかった。
 労わり合い、微笑み合う夫婦でいたいと思っていた。男である秋良を手に入れるために、様々な画策もしたし、陥れる真似もした。
 それほどにこの清らかな魂が欲しいと願った。
 手に入れるまでに長い時を必要としたが、それでも我慢できた。それ以上の幸せを手中にできると思ったから。
 秋良はもちろん、そんな思いはなく、噛み合わないのも覚悟していた。
 秋良の心まで手に入れるには、もっと長い時を必要とすることも分かっていた。分かっていたのに……、泣かせてしまった。
 それほどまでに自分が拒まれていることに腹を立てて……。
「すまない」
 泣く秋良を抱きしめた。ただ、抱きしめた。
「もう……しない」
「嘘だ」
 ただ抱きしめていると、秋良の震えが治まっていくのがわかった。
 すべてを拒まれているのではないとわかり、洋也は安心する。
「もうしない。秋良が嫌がることは」
 それに対する返事はなかったので、許してもらえたのだと、良い方に解釈することにした。
 まだどこか怯える秋良を褥に寝かせ、いつものように抱きしめた。
 普段ならそれですぐに眠ってしまう秋良が、今夜は眠れないのか、身体を固くしていた。
「もう……何もしない」
「……うん」
「あなたを愛している」
「…………僕は……」
「私の我が侭だとわかっている。けれど、傍にいて欲しい……」
 背中を撫でると秋良がそっと洋也の胸に額を寄せた。
「どうして僕なの?」
「秋良といるととても落ち着くから。気持ちが」
 それは同じだね。
 言いそうになって、秋良は口を噤んだ。
 今はまだ……言いたくない。また、さっきのようなことは困るから。
「おやすみ」
 額に唇を寄せると、秋良はびくりと身体を震わせたが、抵抗はなかった。
 額への口づけ一つを許して、秋良は目を閉じた。
 ようやく心地好い眠りに落ちていった。
 そのあとで唇を盗まれているとも知らずに……。
 
 
 ひそひそと、だが聞こえよがしに、その声は響いてくる。
 廊下一つ、塀一枚、それがなんの妨げにもならないことを秋良は否応無しに知らされることになる。
「帝は貴いお方だから、下々の手練手管が珍しいだけよ」
 耳を塞ぎたくても聞こえてきたものは心に残る。
「いやだわ、……こんなものが」
 庭を掃除していた下女が、咲玖来に投げ込まれたものを見せた。それは塵だったり、泥で汚された布だったりした。
 ずっと隠れていればいいんだ。
 不安そうな秋良に、夏月たちは『大丈夫ですよ』と笑うが、秋良は投げられるものよりも、囁かれる言葉よりも、その暗い気持ちが怖かった。