「来るなって、言ったのに……」
 帝の顔を見るなり、秋良が呟いた。帝はその言葉を聞き、喉の奥で笑う。
「あんなに愛らしい文を貰ったのははじめてだな」
 ぬけぬけと言われ、秋良は頬を膨らませる。
 白い夜着に、今宵も桜模様の袿を着ている。昨夜は薄い桃色だったが、今夜は桃色地に白い花模様である。
「桜が好きなのかな」
「好きなわけない」
 つまり、嫌々ながら、着せられたということなのだろう。
「とても良く似合っていると思うが」
「目が悪いんじゃないの?」
 几帳の奥から咳ばらいが聞こえる。途端に秋良はむっつりと口を閉じた。
「もう下がって良いぞ」
 控えていた女房を下がらせ、洋也は布団の上に座る。おいでおいでと手招きするが、秋良はこちらを見ようともしない。
「何もしないと約束したし、昨夜も約束を守っただろう?」
 責める口調ではない。むしろ面白がっているような。それが秋良の癇に障る。不機嫌な顔のまま、洋也を見ようともしない。
「どうすれば傍に来てもらえるのかな」
「一人で寝れば?」
「風邪を引くよ。春とはいえ、まだ寒い」
「…………」
 寒さは身にこたえていたが、自分から擦り寄って行くなどできるはずがない。そんなことをすれば、良くないことをされそうで恐い。
 昨日の夜、抱きしめられて、どうしてだがほっとした自分を覚えている。
 冷たい水の中から救い出してくれた熱い腕。記憶にあるのは、その強さと優しい瞳。
 その人が目の前にいると思うと、緊張して、心にもない言葉を連ねてしまう。
 一緒にいるのは楽しいけれど……。
 けれど……、契りを結ぶなどは、恐くてたまらない。
「あっ!」
 一人物思いに耽っていると、手首を掴まれ引っ張られた。
「な、何をっ!」
「一緒に寝よう。私も寒い」
 胸に抱き寄せられ、しっかりと包み込まれる。
「離せっ!」
「私が嫌いか?」
 抱きしめられた腕の中で聞く声は、とても優しかった。
「嫌いだ。……大嫌い」
「……そうか」
 それで逃がしてもらえると思ったが、抱きしめる腕はますます強くなっていく。
「いや……嫌だ」
 秋良はなんとか逃げようともがいた。
「私はあなたをどうしようと、誰にも咎められはしない」
 頬に洋也の唇が近づき、秋良は身体を固くして縮こまらせる。
「嫌っ! やめろ!」
 触れようとした唇が濡れた。
「…………」
 秋良の震える身体を抱きしめ、洋也は湧き上がる感情を殺すために目を閉じた。
「抱きしめるだけ……、それだけは許してくれないか?」
 静かな声に、秋良は身体の強張りをといた。まだ、抱きしめられる腕の力は緩まないけれど、洋也の声が沈んでいるように感じられたから。
 この世で一番貴い身分の人である。何をしようと、自由で、罪咎があるはずがない。
 本来なら、秋良のような言葉使いさえ、許されるものではない。
 秋良のことも、どうしようと誰も責めはしない。
 拒める相手ではないのだ。
 昨日、この場で殺されていても文句は言えなかった。そして、その覚悟はできていた。
「離して……」
 秋良の声は涙で濡れていた。
 洋也はふっと哀しい笑みを零し、秋良の身体を離した。
「昨日と同じように寝れば……いいんだろ?」
 俯いて唇を尖らせて言う秋良は、どんな花よりも愛らしく見えた。
 強引にではなく、肩に手を置かれ、そっと引き寄せられた。
 褥の上に横たえられ、抱きしめられる。
「こんな固い身体、抱いて楽しいかな?」
 元々が痩せていたし、胸の膨らみもない。
「いい香りがするよ」
 くすりと笑う気配がしたので、秋良は目の前の胸を軽く叩いた。
 ゆっくり背中を撫でられると、眠気がやってくる。
「おやすみ」
 その言葉が呪文のように、秋良は眠りに落ちていった。
「こんなに寝つきが良いと、心配だねぇ」
 帝は笑いながら、薄く開いた唇をそっと盗んだ。
 
 
 むすっとした顔で、秋良は二人の間に置かれた紅白の餅を睨んでいた。
「食べさせてあげようか?」
 手酌で帝が杯を傾ける。秋良に入れてくれと頼んだら、あっさり断わられてしまったからだ。早く二人きりになりたくて、世話を焼いてくれる女房達は下がらせてしまっていた。
「嫌だって……いったのに」
 いつまでたっても餅を睨むだけの秋良に、帝は楽しそうに笑う。
 この三日で、秋良の憎まれ口がすっかり可愛くなってしまった。
 今まで想うだけで逢えなかった人が、目の前でいろんな表情を見せてくれるのは楽しい。
 かなりの無茶を通したが、それが苦労ではなかったと思えるほどに。
「どうぞ」
 一つを手に取り、秋良の口元に運ぶ。
「んー」
 嫌々ながらも、小さな口をあけて、一口齧る。
「美味しいか?」
「……うん」
 上目使いに睨まれて、洋也は笑いながら、残りの餅を口に入れた。
「あっ!」
 それを見た秋良が声を上げる。
「何?」
「それ、僕が齧ったのに」
「だから?」
「…………汚いよ」
 眉間に皺を寄せて、秋良は唸るが、もちろん帝がそれを汚いなどと思うわけがない。
「美味しかったよ。早くあなたも食べたいな」
「ば……、なっ……、あ……あ……」
 秋良が顔を真っ赤にして、口を開いたり閉じたりする。
「この世で一番の果実を早く私に……」
 ひゅんと飛んできたのは、小さな餅。一つを避ければすぐに次が飛んできた。
「避けるなっ!」
 秋良の手が次を投げてくる。
「当たると痛そうだからね」
「信じられない! ばかっ!」
 信じられないのは、帝に餅を投げて、馬鹿と言う人間なのだが、秋良にはそんな禁忌はもはや消えていた。
 翌朝、殆どの餅は洋也が片づけていてくれたが、一つだけ屏風の陰に落ちていたものを夏月に見つかり、秋良はくどくどと叱られた。
「…………どうして僕が」
 溜め息と共に呟いたが、それはお小言を増やすだけだった。
「でも、これであいつももう来ないよな」
 三日目の夜を越して、今夜からは一人で寝られると、秋良は後宮に来てはじめてご機嫌な日中を過ごしたのだった。