「まだ逃げるのか?」
 帝が薄衣を脱ぐのを見て、秋良は焦った。
「僕は……男だ」
 秋良が再び訴えるのに、洋也は苦笑する。
「もちろん、知っている」
 知っているのに何故、と秋良は床を這うように、部屋の隅まで下がった。緋色の袴の裾が乱れる。
「来るな。こっちに来るな」
 秋良は裾の乱れを直し、背中を壁に押し付け、膝を胸まで深く曲げた。
「新妻にそこまで拒否されるとはな」
 言葉ほどは怒っている様子もなく、むしろ洋也は逃げる秋良を楽しそうに見ている。
「妻じゃない。僕は男なんだから」
「だが、あなたは私の女御として、ここにやってきたのだからねぇ」
 洋也は薄衣を枕辺に落とし、布団の上に座った。
「男なのだから、帰らせてくれればいいんだ。どんなお咎めも受ける」
「それはできない。それ以外の願いなら聞くと、先ほども言った。それに、あなたに酷いことはしたくない。こちらに来ぬか?」
 伸ばされた指先を睨み、秋良は左右に首を激しく振った。
「一晩中、こうしているわけにもいかないだろう?」
「帰れば?」
 今度は帝のほうが首を振った。
「三日夜の餅を分け合いたいのでねぇ」
「だから、それは正式な男女のすることであって、僕は男だから、……できない」
「あなたは自分が男だからと繰り返すが、安藤家の姫としてここに来たんだ。今更帰れるはずもないだろう? 私もあなたを帰すつもりはまったくないのだから」
「男がここにいていいはずがない」
「あなたが男だということは、あなたが言わない限り、ばれる事はない」
 いとも簡単に洋也は言った。手招きされるが、秋良は尚も首を振ってそれを拒んだ。
「じゃあ、じゃあ、……ばらす」
「あなたはできない。私にばらす以外は、お家のために、家族のために、それは出来ない」
 見透かされたように言われ、秋良は泣き出しそうに顔を歪めた。
「諦めて、私の妻となるんだね。そうすれば、私は誰よりも、あなたを大切にする」
「男同士で夫婦の契りを結ぶ事なんて、できない」
「できるよ」
 最後の砦もあっさりと返され、秋良は何も言えなくなった。しっかりと我が身を抱きしめるように膝を抱き、膝の中に顔を埋めた。
 その様子を見て、洋也は哀しそうに微笑んだが、それはもちろん秋良には見えなかった。
「あなたに一つ、約束をしよう」
 秋良はぴくりと肩を揺らしたが、顔を上げようとはしなかった。
「あなたが望まぬ限り、私はあなたに酷いことはしないし、無理に契りを結ぶような真似もしない。だから、私を信じて傍に来てくれないだろうか」
 秋良は顔を隠したまま、首を横に振った。
「申し訳ないのだけれど、あなたを帰すことはできない。私は心からあなたが欲しいと思っていたから。あなたも勝手に帰る訳にもいかないだろう。だから、ここにいて欲しい。あなたがここにいてくれるなら、私はあなたに無理強いはしない」
 真摯な声は秋良の耳に静かに届いた。顔が見えない分、真実の言葉は、秋良の心に優しく響いた。
「ほん……とう…に?」
「本当に。あなたに誓いをたてよう」
 秋良はゆっくりと顔を上げた。
 優しい顔が自分を見ていた。その真剣な瞳に曇りは一点もなかった。
「何もしない?」
「しない」
「誰にもお咎めはない?」
「私は咎める相手を持ってはいないだろう?」
「ここに、いるだけで……いいの?」
「それが私は一番嬉しい」
「本当に、何もしない?」
 重ねて聞かれ、洋也は苦笑を浮かべた。
「あなたが許してくれるまでは」
「僕が許さなければ?」
「許してくれるまで待つ」
「約束……する?」
「約束する」
 真面目に答えてくれる相手に、秋良はどうしようかと考えた。本当に信じてもいいのだろうか。
 相手がそうしたいのなら、本当なら秋良には拒めない。それだけの権力を持っている人なのだから。そうされても文句は言えない身として、ここにやってきたのは秋良なのだ。
「納得してくれたら、こちらに来てもらえないかな?」
 また手が伸ばされた。
「何もしないって……」
 秋良は怯えたようにその手を見つめる。
「何もしないけれど、このまま夜明けを待つこともできないだろう? 私は明日も政があるし、寝るのなら今宵はここしかない」
「じゃあ、寝れば? 僕は邪魔しないから」
「何もしないと言ったことは取り消そう」
 秋良はさっと顔色を変えた。やはり、信じたのは間違いだったのかと」
「そんな顔をしないで。ひどいことはしない。けれど、あなたが許してくれる日が一日も早くくるように口説くくらいはさせてもらうよ」
 あっと思った時は膝を抱いていた手を解かれ、力任せに引き寄せられた。布団の上に引っ張り込まれ、抱きしめられた。
「何もしないってっ!」
 涙を零し、秋良はその腕から逃げようともがいた。
「何もしない。このまま寝たいだけ。朝まで」
「嫌だ……恐い」
「本当に何もしない。信じて」
 強く拘束されるものの、それだけだった。抱きしめられ、相手の胸の音を聞くだけの体勢。
「…………」
 とくん、とくんと鼓動を聞きながら、温かい腕の中で秋良は次第に身体の強張りを解いていく。
 秋良の力が抜けていく分、抱きしめる腕の力も緩んでいった。
「このまま朝まで?」
「そう、……これ以上は何もしない。信じて……」
「…………うん」
 心地好い暖かさに包まれ、秋良は目を閉じた。
「どうして……僕なの?」
「どうしてとは?」
「たった一度、会っただけなのに」
「宿め……を感じたからかな」
「さだめ?」
「縋りつかれた細い腕を忘れられなかった。だから、……欲しいと思った」
 頭の上から降る声は優しく、今日一日緊張の連続で疲弊し切った身体に甘い暖かさを注ぎ込んでくるようだった。
「愛らしい顔と柔らかな身体、何より美しい瞳に引き寄せられた。忘れられなかった」
 柔らかな呼吸に胸をくすぐられ、洋也は秋良が恐がらないように抱き寄せた。抵抗がないのを不思議に思うと、秋良は気持ちよさそうに眠っていた。
「やれやれ、……そう無防備だと、本当に約束を守らなくてはならなくなってしまう……」
 洋也は苦笑いし、丸い額に唇を寄せた。
「甘い香りはあの頃と変わらないね」
 すやすやと眠る秋良は、優しい口づけも、不埒な囁きも聞こえなかった。
 
 
 翌朝、夜明け前に帝は承香殿を出た。
 まだ眠る秋良を起こそうと夏月は焦ったが、帝が起こさなくてよいと言ったので、咲玖来達が見送った。
 秋良が目を覚ました頃、後朝の使いが文を届けた。
 返事を出し渋る秋良を夏月は宥めすかし、紙と筆を握らせた。
「夏月が書いて……。女性の文なんて、書けないよ」
「そういうわけにはまいりません。日名子様に文の書き方も習われましたでしょう?」
 そう諭されて、秋良は唸りながら筆をとった。
 いくら捻っても文句が出ない秋良はふと思った。どうせ、本人しか読まない……と。
 それを読んだ時の帝の顔を想像すると楽しかった。
 短く文を書き、文を咲き始めたばかりの梅の枝に結び付けた。使いにそれを持たせて、秋良はくすくすと笑う。
 秋良の楽しそうな様子に、夏月たちはほっとする。すべてが杞憂に終わった。秋良が幸せならば、ここの暮らしも悪くないかもしれない。
 何より、これほど愛されている女御は他にいないのだから。
 
 
 秋良からの文を帝は楽しみに開いた。そしてそこに書き付けられた文字を読んで、思わず声を立てて笑ってしまった。
 珍しい帝の笑い声に、傍にいたもの達がぎょっとした。
 なかなかに新しい女御は、風刺の聞く聡い方なのだと評判が立った。
 文の中身が和歌ではなく、「今夜は来るな」という憎らしい言葉であったとは、書いた本人、呼んだ本人以外、誰も知らない。