「会いたかった」
 優しい声に秋良は震えながら顔を上げた。
 声と同じように、優しい笑顔が自分を見下ろしていた。
 白い夜着に、薄布の上着を羽織っている。
 秋良は同じような白い夜着に、緋色の袴。桜模様の袿を着ている。
「私のことを覚えているか?」
 秋良は正座したまま手をつき、頭を下げた。
「それは、忘れたと言うことかな?」
 さして責めているという口調ではなく言ってから、帝は歩を進めた。秋良の座っている布団に足がかかる。
 秋良は思わず、後ろに下がった。
 恐かった。
 今更、ここに来てから、自分のしようとしていることが。
 この人を裏切ろうとしている。
 家族のもの達は秋良さえ逃げ出せればと願っているようだが、秋良がそれを善しとする筈がないということを失念している。
 秋良は簡単に『男だって言ってくるよ』と出てきたが、それが通る事がないことは承知していた。
 この世で一番貴い人を騙しているのだ。咎めが尋常であるはずがない。
 それでも、秋良のためにみんながいろんな我慢をしてきてくれた事を知って、それから自由になって欲しくて、流れに身を任せることにした。
 罰ならこの身一つで。どうせこの人に救われた命なのだ。惜しいはずもない。
 そうは思っても、この人を騙したことを激しく後悔した。
「どうして逃げる?」
 どこか面白がっているように、帝が言った。無理に秋良を捕まえようとはしていないと感じた。
「お願いがございます」
 秋良は額を擦り付けるように深く頭を下げて言った。
 几帳の影で夏月たちが拳を握り締める。
「姫の願いなら、どんなことでも聞き入れよう」
 帝の言葉に秋良はほっとして顔を上げた。
「ただし」
 秋良をまっすぐに見つめる帝の目は真剣だった。
「家に帰りたいと言う願い以外は」
 秋良は身体を強張らせた。ほっとしたのも束の間、安心が大きかった分、その失望は大きかった。
「帰さぬ。何があってもな。そなたを手に入れるのに、十年もかかった。我が身の幼さを何度嘆いたと思う? だから、離さぬ。覚悟を決めて欲しい」
 秋良は帝の言葉を聞きながら震えた。この言葉を素直に喜べたら、どんなにか幸せだろう。だが、自分は彼の望む姫ではないのだ。
「では……、お聞き頂きたいことがございます」
 再度頭を下げて、秋良は三つ指をついた。女性としての立ち居振舞いは、母と姉から教え込まれている。
「聞いても良いが、もう少し傍近くに寄らぬか?」
 帝が足を進めると、秋良は慌てて後ろに下がった。
 その様子を見て、洋也は苦笑し、布団の端に座った。
「こちらに来ないか?」
 自分が近づけばその分姫が逃げるとわかり、洋也は座って秋良を呼んだ。けれど秋良は頭を下げたまま首を横に振る。
「何を話したい?」
「それは……」
 秋良はぎゅっと目を閉じた。身体が小刻みに震え始める。
「それは……、私が帝の望まれる姫ではないということです」
「私が助けたのは、たしかにあなただと思うけれど?」
 胡座を組んだ膝の上に肘をつき、頬杖をついて、洋也は震える秋良を見ていた。
「それは……、それは確かに私です」
「だったら、問題はないだろう?」
「いいえ、いいえ。ですから、私は、姫などではないのです。私は……、私は……」
「そなたが男だという事なら、あの時から気づいているが?」
 秋良は聞き間違いなのかと、今聞いたばかりの帝の言葉を頭の中で繰り返した。
 驚きは少し遅れてやってきた。
 怖々と顔を上げる。
 洋也はどこか面白がる風に秋良を見ていた。
「あの……」
 男だとばれれば、帝の怒りをかい、捕らえられ、咎めを受けると思っていた。それ以外の反応など、少しも考えていなかった。
 どうすればよいのかわからなくなった秋良の腕を帝が掴んで引っ張った。
「あっ!!」
 ぐいと引かれ、その腕の中に落ちた。
 洋也は秋良を両手で抱きとめ、身近にあった几帳を蹴り倒した。
「動くな。聞け」
 夏月らが駆け寄ろうとするのを、帝は短い言葉で止めた。
「安藤家の女房達。どれほどの覚悟があってここまでついてきたのか、秋良を思う気持ちを余は嬉しく思う」
 洋也に抱きしめられ、秋良はもがいていたが、体格の差が、その抵抗を虚しくしていた。
「秋良につけた咲玖来達も信用のおける者ばかりを厳選した。何も心配なく過ごして頂けるようにと。安藤家の女房がたの邪魔をすることもなかろうし、どんな秘密も守らせよう」
 秋良を抱きしめ、帝はきつい眼差しを夏月らに向けた。
「秋良の秘密なら既に知っている。それでも尚、余はこれが欲しい。欲しいから、こうするしかなかった。邪魔をするものは、たとえ秋良の信が篤い者でも容赦はせぬ」
「だけど……、僕は……男だ」
 なんと打ち明けようと悩んで、口篭もっていた言葉がするりと出せた。知っているなら、隠す必要もなかった。
「それが? 言っただろう? 私は秋良が欲しかった。私だけのものにするには、ここに閉じ込めるしかない」
 強い腕に抱きしめられ、顎を持ち上げられて、洋也に見つめられた。
「僕は……男だ。後宮には、女性ばかりだぞ」
 洋也は薄く笑んだ。
「だが、他の女たちに、まさか自分は男だと言って愛を囁く事があなたにできるのか? 他の女御や女房達も女と思っているそなたにそんな感情は抱くまい。だから、私が心配なのは、あなたの傍仕えだけなのだ」
 言ってから洋也は今にも秋良を守ろうと飛びかからんばかりの五人を睨みつけた。
「これは余のものだ。奪おうとするな。邪魔をするな。その時は容赦はせぬ」
「秋良様」
 夏月の悲鳴に似た叫びに、秋良は顔を歪ませる。
「お前達が認めてくれるのなら、私はお前達の主をこの世の誰よりも大切にすると誓おう。…………どうする?」
 どうすると問われて、他に選択ができただろうか。
 秋良を守る事だけが使命であった。今宵限りの命だと諦めていた。
「下がれ。部屋から出て行け」
 夏月はしばし帝を見つめ、その瞳の奥の深い色を見て、両手をついた。
「秋良様を……秋良様をお願いいたします」
「わかった」
 短い答えに満足して、夏月は他の四人を引き連れて部屋を出て行った。
 秋良はそれを見送り、目を閉じた。
「酷くして悪かった」
 何もかも諦めた秋良を帝はそっと離した。
 静かに解放され、秋良は驚いて洋也を見つめた。
 洋也は一時の激情が嘘の様に、穏やかに秋良を見ていた。
「どうして……」
 どうして知っていて、自分を入内などさせたのか。
「あなたにそれなりのお役目をあてて、傍近くに置こうとも考えたが、それでは満足できないと思った。あなたがいずれ妻を娶るのも嫌だ。私のものにするには、こうするしかなかった」
 そっと伸ばされた手を秋良は叩いて逃げた。
「まだ逃げるのか?」
「僕は……男だ」
 ずりずりとさがる秋良に、洋也は苦笑して薄衣を脱いだ……。