退屈な法要。東宮というだけで連れて来られ、読経が済めば、大人同士の話だからと、外へ出された。
 賢い子。しっかりした子。
誰もが舌を巻くほど彼には一目置いていた。
 だが、まだ六つ。
 いくら慣れているからといって、半日にわたる法要の後、更に待てと言われて、じっと待っていられるわけはない。
 庭にはちゅんちゅんと雀が遊んでいた。
 ……庭に下りるくらいは……。
 彼はきょろきょろと辺りを見回した。
 傍付きの衛士は、扉の外で控えているのか、姿は見えない。
 そっと足を下ろす。
 足袋のまま地面に足を下ろすのははじめてだった。その不思議な感覚、痛いような、嬉しいような。
 思っていたより地面は冷たくはなかった。
 そっと庭に下り、雀に近づくと、小さな鳥は飛び立つことはないものの、ぴょんぴょんと跳ねるように彼から離れて行く。
 彼は両手を伸ばしながら、雀を追いかける。
 裏木戸まで行った時、彼は戻らないとと思った。早く戻らないと、彼がいなくなったら、大騒ぎになることは知っている。
 もう戻ろうと思った時、裏木戸が薄く開いているのに気がついた。
「無用心だな」
 彼は木戸をしっかり閉めようと手を伸ばした。
 その戸の向こうを何かが横切った。
「何?」
 彼はそっと木戸の向こうを覗いた。
 小さな白い猫がにゃあと鳴いた。
 彼を見つめる小さな黒い目。
「ねこ………?」
 猫を見るのははじめてだった。
 木戸が見えるところなら大丈夫。
 誰かが自分を呼べばすぐに聞こえるし。
 彼は木戸から身体を滑らせるように外に出た。
 猫はにゃあと彼に鳴いて、まるでついて来いとばかりに、鳴きながら振りかえる。
 まだ木戸は見える……。彼は猫についていく。
 もうこれ以上は駄目。彼が諦めて引き返そうとした時、その悲鳴は聞こえた。
 
「秋良!」
 小さな池があった。そのふちで、女の子が叫んで手を伸ばしていた。
「秋良!」
 池の少し離れたところで子供が溺れていた。浮き沈みしている身体はどんどん沈んでしまいそうに見えた。
「……!」
 溺れている子が何かを叫んだ時に水を飲んでしまったのだろうか、一瞬、身体が完全に沈み込んだ。
「秋良! 誰か、誰かー!」
 姉は振りかえり、驚いて佇む彼に気づいたのか、縋るような目で見つめる。
 けれど、どう考えても彼は幼すぎた。
「お願い、誰か呼んで来て。秋良が、秋良が」
 彼は腕を掴まれ、揺さぶられた。早く助けを呼ばなければ確かに溺れている子は沈んでしまうだろう。
 ばしゃっと大きなしぶきが上がる。最後の力を振り絞るように、子供が浮き上がって、手を伸ばしていた。
 彼は浄衣を脱ぎ、池に飛び込んだ。
 泳ぎは夏の御用邸に行った時に教えてもらったことがあった。さして距離はないはずだった。
 実際、三回ほど水をかいただけで、子供に届いた。
「大丈夫?」
 彼が子供の脇に手を入れると、子供はしがみついてきた。
「もう大丈夫だよ」
 彼が笑うと、子供は泣いて抱き付いてきた。その甘い感触に彼は不思議な気がした。
「ほら、行こうね」
 彼が岸を目指して泳いだ。
 しっかり首に回された手に、きっと助けてあげると心に決めた。
 人を抱えながら泳ぐのははじめてだったが、助けてあげるという思いだけで頑張った。水に濡れた衣は重く、岸に上がるのに苦労した。
 岸で泣きながら待っていた姉が彼と子供を引き上げた。
「ありがとうございます。ありがとうございます」
 姉は泣きながら、その場に両手をついてお礼を言った。
 田舎者とはいえ、貴族の身分にあった彼女は、彼が着ている重ねの禁色に気がついていた。その色を着ることができるのは、この世にただ一人なのだと。
 助け上げた子はごほごほと咳き込み、苦しそうに喘いでいた。
 姉は子供に自分の袿を着せてやり、隠すように抱きしめた。
 子供はゆっくりと上を向き、弱々しい瞳で彼を見た。その綺麗な瞳の色に、彼はじっと魅入った。
「若君!」
 突然、がさがさと繁みが揺れ、刀を手にした武人が二人飛び出してきた。
「何事です!」
「こやつら、若宮様を!」
 子供相手とはいえない様子に、幼い兄弟は怯えきったように震える。姉はしっかりと子供を抱きしめるが、子供の方はまだ放心状態なのか、自分を助けてくれた少年を見つめていた。
「静まれ!」
 東宮は一喝で彼等の動きを止めた。
「私は彼のものに助けられたのだ。この二人がいなければ、私は溺れていたのだ」
 どう見てもそのようには見えなかったが、東宮が言う言葉を疑うほど、武人達の身分は高くない。
「篤く礼を言う。どこの家のもの達だ」
 洋也はなるべく優しく言ったつもりだったが、姉は震える手を地面についた。
「私はこの辺りの荘園をまとめる受領を拝領しております安藤家の娘、日名子と申します。こちらは妹の秋良子にございます。どうぞ、ご無礼をお許し下さいませ」
 あとになって、秋良が溺れていたことがばれれば、罪に問われて殺されるかもしれない。日名子はそう考え、とっさに嘘をついた。
 今なら、秋良は自分の着物を着ているし、まさかここで子供とはいえ、脱がせて確かめるようなことはしないだろう。また、安藤家に秋良子というものを探してきたとしても、そこに娘がいなければ、手出しはできないのではないか。
 子供の浅知恵とはいえ、日名子は必死だった。弟を守るために。
「秋良子か。ありがとう」
 東宮は秋良に微笑み、共の者を連れて、その場を去って行った。
 日名子の杞憂は、ただの心配に終わった。安藤家に褒美と礼の品物が届くのは、その後まもなくである。
 そして、父親は月が変わる頃には、宮中に召抱えられるようになる。異例の大抜擢である。
 東宮の、自分が助けた姫をいずれは妃にという計画は、この時から始まっていたのである。