Text −9−



 海面が遠退いていく。
 マシュウは無事に逃げただろうか。
 そのことだけが直樹の気がかりだった。
 沈みゆく身体に、何かが擦り寄った来た。
 直樹は最初、それが何かわからなかった。
 切られていないの方の脇腹をつんつんと突つかれ、直樹は脇から覗いた顔に、驚く。
 イルカは直樹の脇に自分の背びれを押しつけるようにして、ぐいっと引っ張った。
 直樹はかろうじてその背びれに捕まり、イルカの泳ぐままに任せた。
 ぐいぐいと勢いよく引っ張られ、直樹は海面に飛び出るように、顔を出した。
「ナオキ!」
 マシュウの声を聞きながら、その無事を喜んだ。直樹はごほごほと肺に詰まった水を吐き出す。
「ミーティア、ありがとう」
 マシュウはイルカの額に口づけると、流れ星という名前のイルカは、高い鳴き声を上げた。
「ミーティア、あそこまでナオキを運んで」
 マシュウはイルカに捕まる直樹を庇いながら、寄り添うように泳いだ。
 岸が近づいてくるのを見ながら、もう大丈夫と思うと、次第に意識が遠退くのを感じた。
 ずるりと沈みそうになる身体を慌てて抱えられ、岸に引き摺り上げられた。
 その場でウェットスーツを脱がされ、応急処置を施される。
 マシュウは直樹の横で泣きじゃくり、ひたすら直樹の名前を呼んだ。
 ウェットスーツを着ていたためか、思っていたよりも傷は浅く、心配なのは傷よりも出血の方だった。
 神聖な祭が穢されたと言って、周りは大騒ぎになっていた。
 泣き叫ぶマシュウに、直樹は荒い息の中から、大丈夫だと笑いかける。
 そんな直樹に、マシュウは泣きながら首を振った。
「僕のために、ナオキが……、ナオキが」
 その言葉をアトレーが聞き咎めた。
「マシュウが狙われたのか。何故!」
 アトレーの叫び声に、直樹は痛む傷を押さえ、上半身を起こし、アトレーを睨んだ。
「バドールは戻ってきませんよ」
 直樹の指摘に、アトレーはさっと顔色を変えた。
「まさか……」
「他の二人のうち、一人は帰ってくるかもしれませんが」
「な、何の事だか、……わからない」
 震える唇で、アトレーはとぼけようとした。
「確かにバドールは、マシュウ様を狙ってはいませんでした。私を狙っていましたから。どなたかのご命令を忠実に守ったのでしょう。ご安心下さい」
 強烈な皮肉に、アトレーは頬をひきつらせて笑い、素知らぬふりを押し通そうとした。
 辺りがざわめくが、そんな様子もアトレーにはわからないようだった。
「アトレー兄様が直樹を?」
 震える声でマシュウは直樹の傍らに座り込みながら、泣き腫らした目でアトレーを睨んだ。
「バドールは俺の護衛じゃない。そうだ、バドールは兄様の直轄だ。俺は借りていただけなんだ」
 自己保身の醜い言い訳に、誰もが顔を歪める。
「私がその男を襲わせた。それでもいいさ」
 群衆の中で一人、冷静にことを眺めていたニコルが、直樹の前に歩み出てくる。
「だが、きみたちを襲ったのは、バドールたちだけだったか?」
「では、あのボウガンのスナイパーは、ニコル様のご指示ですね?」
 直樹が問い詰めると、ニコルは愉快そうに笑った。
「何故私がそんなことをする必要がある。何も持たない、路傍の石にも等しい混血児の命を狙って、私に何の得がある」
 ニコルの言葉にマシュウが凍りつく。確かにニコルがマシュウを狙う必要性はないが、そこまで言われる筋でもない。
「あなたには得がないかもしれません。けれど、アトレー様のことがあります」
 直樹は傷ついた様子のマシュウを気遣いながら、ニコルが指示した可能性を指摘する。
「ほう、アトレーね」
 楽しそうにニコルは血に染まる直樹を見下ろす。
「ニコル様は、アトレー様がマシュウ様に何かとかまわれることに良い感情をお持ちではなかった。バドールをアトレー様にお付けになったのも、実はマシュウ様に近づけないようにするためだったのではないですか。マシュウ様と一緒にいれば、ボウガンの流れ弾という危険に晒されると、心配だったのです」
 直樹は自分の中にもニコルへの憎しみがわいてくるのを感じながら、強い視線をニコルに向けた。
「しかし、私が得た情報では、マシュウを狙ったのは、リリィではないかと思われる節がある」
 リリィの名前が出され、マシュウはびくりと震える。直樹も今更そんなふうに周りを貶めようとするニコルに苛立った。
「何故リリィ様がそんなことをする必要がある。いい加減なことを言ってマシュウ様を惑わせるな」
 直樹は濡れた手でマシュウの身体を抱き寄せた。こんな話は聞かせたくないのに。
「他国に打ち捨てた落とし胤の存在が邪魔になったある人物が、それを産んだ女を使って、始末させようとした。そんなところだろ」
 つまらなさそうに言い捨てるニコルの話に、マシュウは肩を震わせ、声も立てず、涙を零していた。
 リリィは捨てられた猫のように泣く息子を見ていながら、反論もしない。直樹は我慢できず、トップシークレットとなっている事実を話す覚悟を決める。
「王子、騙されていけません」
「騙してなどいるものか。王宮の中で影のように暮らす少年のことを、他の誰が知りえるというんだ」
 ニコルは直樹の覚悟に気づかない。
「マシュウ様、私をここに遣わしたのがあなたのお父様です」
「ミスター!」
 リリィが直樹の言葉を制止しようとする。けれど直樹は今更、それをとめるつもりはなかった。
「あなたのことをたいそう心配しておられ、引き取れないことを申し訳なく思っておいでです」
 マシュウはそろりと顔を上げる。
「ナオキはお父様を知っているの?」
「……ええ」
「そう、それが何よりの証拠だ」
 ニコルが直樹の説明にそら見ろとばかりに反応する。
「お前はマシュウの父親に頼まれたのだ。息子を始末してきてくれと。いつか邪魔になるからと」
 一国の皇太子として、采配を振るっている人物とは思えない台詞に、直樹は目を眇める。
「マシュウは私の子です! 私だけの。他の誰の子でもありません!」
 ニコルの言葉に我慢できなくなったのか、リリィが叫んだ。
「こんな危険な目ら遭わせないために、マシュウの父親が誰であるのか、隠してきたのです。ミスター、恨みますわ」
 リリィは悲しそうに直樹を見た。直樹は寂しそうに自分を責めるリリィの姿にいたたまれなくなった。
「どんな陰口だって、どんな仕打ちだって、黙って堪えてきました。マシュウはこの国の中にいれば安全だと思ったからです。それなのに……」
「お母様……」
 泣き崩れるリリィにマシュウは戸惑いながらも、どこか嬉しそうだった。
 母親の愛情をほんの僅かでも疑っていたが、誤解だとわかったのだ。
「綺麗ごとを言うな。仮にリリィが知らなかったとしても、その男はマシュウの父親の依頼で来た男だ。目的は暗殺に決まっている」
 リリィの母親としての言葉にも動じず、ニコルは言い募った。
「違います。マシュウ様、信じて下さい」
 マシュウは必死で直樹を見詰めていた。その目は直樹を信じると告げている。
「信じられるものか。お前は以前の仕事で、仲間を死なせた。仲間を盾にして命乞いをして、逃げ出したんだ」
 ニコルは予想もしなかった直樹の告白に慌て、口を滑らせた。
「それをご存知だということは、あなたは私の素性を調べられたのですね。私の真の雇い主も。ならば、マシュウ様を父上が狙うはずもないということも、わかっているはずだ」
 直樹の迫力にニコルは気圧され、歯軋りをした。
「私はあなたのお父様の部下です。マシュウ様を守るためにここに来ました。私の死んだ仲間は、あなたのお兄様を守って、凶弾に倒れました。けれどその事件が処理され、もう父上や兄上に危険はなくなり、マシュウ様ももう安全なのですよ」
 まだ見ぬ弟を護ってくれと、直樹をこの地に遣わせた彼。
 父親と同じ金色の髪を持つと聞いた弟が羨ましく、嫉妬も感じていた。それを反逆者に利用されようとしていた。
 父親は彼を護れと直樹たちに命じた。彼の命だけではなく、その脆弱だった精神も。
 彼は直樹の友と心を通じ、王家を継ぐ者として成長していた正にその瞬間だった。あの悲劇が起こったのは。
 直樹を責めた彼も、落ち着きを取り戻し、親友を亡くした直樹を、直樹以上に深い悲しみを持ちながら救おうとしてくれた。
 それがマシュウの護衛だった。
 自分と同じように、彼と共に在ると思い、護ってくれと。
 そしてあの銃を渡してくれた。
 彼が直樹とマシュウを護ってくれたのだ。
「お父様と……、お兄様……」
 マシュウは濡れた瞳で微笑みながら呟いた。
「ミスター……」
 リリィが話さないで欲しいと、直樹を見ていた。
「もう、隠すことに意味はありません」
 直樹はきっぱりと言い、マシュウを見た。
「もっと、お心のままにマシュウ様を抱きしめて差し上げて下さい」
 直樹の言葉にリリィは頷いた。
「そこまでだ」
 厳かな声が割り込んだ。
 ギル王は息子たちの間に割り入り、マシュウと直樹を見下ろした。
「マシュウ、真珠は獲れたかな?」
 優しい声に、マシュウははっとして、腰につけた網の袋から、貝を取り出した。
 ギルはそれを受け取り、短刀を貝の口に刺し込む。ぐるりと口に添って切れ目を入れ、短刀を梃子にして貝を開いた。
 貝の身に指を差し入れ、慎重に内部を探る。
 そして、ギルは一粒の真珠を取り出した。
 それは直径が一センチメートルもあろうかという大きな真珠で、表面は淡い乳白色をしているが、ギルが太陽の光に翳すと、青とも碧ともつかぬ艶を放った。
 おおぉと、人々の間から感嘆の声が漏れる。
「素晴らしい!」
 ギルは満足そうに微笑み、何度も頷いた。
「これぞエターナルブルー。カルナダリアに海のご加護を」
 国王の祈りに、その場にいたものは胸に手を当て、祈りを唱和する。
「マシュウ」
 祈りを捧げたあと、ギルはマシュウたちに向き直った。
「何故、きみが狙われたのか、私には理解できない理由があるように思う。バドールを失ったのは私にとっても大いなる痛手だ。だが、バドールは人として、してはならないことをした。そこまでバドールを追い込んだ者を、私は許さない」
 アトレーが父親の傍で身を固くする。
「きみはカルナダリアに素晴らしい真珠を獲ってきてくれた。私はきみに何を返してやれるだろう?」
 マシュウは悲しみを乗り越えた者特有の静かに和いだ面持ちで、国王を見上げた。
「僕はカルナダリアを出たい」
 国王は優しい表情で頷いた。
「ならばマシュウ。きみの望む国に留学できるよう、手配しよう」
「父上!」
 アトレーは思わず、父親に向かって声を上げた。
「アトレー、そなたはマシュウの従兄弟である前に、我が国の官僚でもある。何故バドールがあのようなことになったのか、原因をつきとめて、私に納得のできる説明をせよ」
 アトレーはこぶしを握りしめ、肩で息をする。必死で感情を押さえているのが、その様子がわかる。
「アトレー、マシュウはリリィの代わりにはなれないし、ましてやそなたの人形ではない」
 アトレーは父親の言葉にはっとして顔を上げる。
「バドールを失ったことを、私は許さない。その分、自戒し、国のために働きなさい」
 アトレーはうな垂れ、こくりと小さく頷いた。
「ニコル。それでよいな」
 皇太子は突然話を振られ、僅かに身体を反らした。
「そなたもアトレーが大切なのと、アトレーがマシュウを愛しく思っている感情とは別のものであると、わかっているのだろう?」
 ニコルは答えず、強い視線で父王を見返した。
「全ての責任はそなたにある。どのように償う?」
「カルナダリアのため、全ての国民のため、国を豊かに安らかに導くこと」
 皇太子の答に満足そうに頷き、ギルはマシュウの頭に手を乗せた。
「もっと早くに国を出してやれずに、すまなかった」
 国王の優しい声を聞きながら、直樹はおかしそうに笑った。
(この親父、すべてわかってて。食えない奴)
 笑いながら、堪えていた痛みを、意識ごと手放した。
「ナオキ!」
 マシュウの叫び声が聞こえたのを最後に、意識は途切れた。



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