Text −10−



 祭は滞りなく、終わろうとしていた。
 町の中では今宵一夜、羽目を外した国民たちが、夢の覚めやらぬ夜を過ごすだろう。
 午前中に、先日マシュウが獲った真珠を捧げる儀式が宮殿の中にある神殿で執り行なわれた。
 マシュウは儀式の間、直樹の姿が見えないことに、寂しそうにしていたという。
 儀式が終わり、宴もたけなわになった頃、マシュウは祭の席をこっそり抜け出した。

 夕焼けが足早に夜に色を変える窓の外の景色を眺めていると、ドアが軽くノックされた。
「はい」
 返事をすると金色の頭がドアの隙間から覗く。
「入ってもいい?」
「どうぞ」
 直樹は笑いながら起き上がった。
「大丈夫? 痛くない?」
 マシュウは慌ててベッドに走り寄ってくる。
 マシュウがたった一人でここまでやって来たことを知って、直樹は軽くマシュウを睨んだ。
「王子、また護衛もつけずに来られたのですね」
 もう心配はなくなったも同然だが、祭の時期は、外部の者もたくさん城に出入りする。その期間、マシュウにも護衛がつけられたのだが、小さな王子はどうしたわけか、すぐに護衛の目を抜け出してくる。
 直樹は溜め息をつきながら、マシュウに怖い顔をしてみせる。
「だって、僕の護衛はナオキだけだもの」
 拗ねるように言って、マシュウは上半身を起こした直樹の胸に抱きついた。
 マシュウの肩に手を置き、直樹は優しく微笑む。
「私は今怪我をしているので、マシュウ様を守れないのですよ」
「じゃあ、ずっとここにいる。もう祭は終わったから」
 直樹は細い身体を抱きしめ、苦悩に歪む自分の顔を愛しい者から隠した。
「もう、留学先は決められたのですか?」
「まだ……」
 いくら自由に留学先の国を選んでいいといっても、それには色々政治的な思惑も絡むらしく、マシュウはいくつかの候補の国を指定されていた。
 マシュウはどことも選びかねていた。そのリストにはない国に強く惹かれているために。
「だって、日本には行っちゃ駄目だって言う……」
「日本には、潜れるほど綺麗な海は少ないですよ」
 直樹は話の核心をはぐらかす。
「どこの国を選んでも、ナオキは一緒に来てくれる?」
「ええ、私は王子をお守りすると言ったでしょう?」
 顔が見えないことをいいことに、直樹は平然と嘘をついた。
「日本じゃなくても、ついてきてくれる?」
「はい。王子の望むままに」
 よくもここまで嘘をつけると自分でも思いながら、直樹はマシュウが顔を上げた時にはもう、優しい自分を演じる顔に戻っていた。
 金色の髪に手を差し入れ、柔らかな髪に指を絡ませる。
 できることならずっと守りたい。何よりも大切な存在。
 けれど、直樹の契約は既に切れていた。それでも手厚く看護されているのは、ギルの厚意に過ぎない。
 この仕事をもう一度選ぼうと決めた途端、戻って来いと、矢のような催促が始まった。
 腫れ物に触るように最後の仕事だと言っておきながら、直樹が立ち直ると、過去のことは忘れたように次の仕事を用意しているらしい。
 それら全てが、直樹に与えられたこの療養室を出た時から始まる。
 祭の終わりは、直樹にとっても、カルナダリアとの別れでもあった。
「ナオキ……」
 もう一度直樹の胸に顔を埋めたマシュウの髪を梳きながら、今また嘘をつく自分の胸の痛みを堪える。
 明日、マシュウがこの部屋を訪れた時にはもう、直樹はいない。
「これは何?」
 ふと、枕元に置いた本にマシュウの興味が逸れた。
「ああ、国から持ってきた本ですよ。あまり読む機会がなかったのですが」
「見てもいい?」
「どうぞ」
 子どもっぽい好奇心に、直樹は微笑み、本をとってやる。
 マシュウは嬉しそうに本をパラパラとめくった。
「全然読めない」
 日本語で印刷されたページを見ながら、マシュウは苦い薬を飲んだような顔をした。
「でしょうね」
 笑いながら、直樹は本を閉じかけて、ふと思いついた。
「私の名前は、私の国の文字でこう書くのですよ」
 同じく枕元においておいたペンで、本のカバーに『直樹』という漢字を書いた。
「へえ」
 興味津々で覗くマシュウに、真っ直ぐな樹木という意味ですと教えてやる。
 それがよほど気に入ったのか、マシュウは声を立てて笑った。
「マシュウ様には、こんな漢字が似合うでしょうね」
 直樹は自分の名前を書いた横に、『真珠』と書いた。
「これでマシュウと読むことができます」
「どんな意味?」
 好奇心いっぱいの目がキラキラと輝く。
「真珠です。パール。この国では、神聖なものの象徴の」
「しんじゅ……」
 マシュウはその漢字を指でなぞり、茫然と呟いた。
「マシュウ様のお父様がリリィ様に贈られたお名前だそうです。そうお聞きしています。誰憚ることなく、マシュウ様はお名前も、その髪も、その瞳も、誇りに思って下さい。今も、マシュウ様を大切に思われていますから」
 マシュウはその青い瞳に涙を浮かべ、直樹にしがみついた。
 優しく背を撫で、宥めながら、直樹は心の中で別れの言葉を綴った。
(お元気で。どうか、お幸せに)
 嘘を重ねた贖罪として、直樹は本心から願った。
 幸せに泣くマシュウを、どうぞこのまま、自分のいなくなったことをすぐに忘れるようにと。

 タラップに足をかけた途端、海風が潮の薫りを運んできた。
 離れがたい想いに、直樹は躊躇する。もう会えないと知りながら、振り返るのは、ただの未練だ。
 後ろ髪を引かれながら、故郷を去る時には感じなかった愛惜を直樹は振り切るように首を振ってタラップを上る。
 直樹の所属する空軍が用意してくれたセスナ機に、一人乗りこんだ。
「よお」
 軍服を着たパイロットが気軽に声をかけてくる。
「久し振りだな」
 直樹も気軽に声を交わし、パイロットは飛行機のエンジンをかけた。
 腰に響く振動を与え、セスナはふわりと飛び立つ。
 見る見る陸地が遠ざかる。
 セスナは上昇しながら、ぐるりと左に旋回を始める。
 カルナダリアの大地と、青い海。寄せる波飛沫が白く見える。
「おい、低過ぎないか?」
 直樹は低空を跳ぶセスナが、どこか調子が悪いのではないかと思って声をかけた。
「ああ、惜別のブルーを見せてやろうと思ってな」
 飛行機が南へ進路をとると、直樹が潜った海の入り江が見えた。
 もう見納めかと思って眺めた先、入り江の岩場の上に、小さな人影が見えた。
「っ!」
 驚きに声を飲み込む。
 他の誰かと身間違えることなどできない。この国で、金色の髪を持つのはただ一人なのだから。
 直樹は思わず、セスナのドアを開けて身を乗りだした。
 マシュウは直樹の見ている先で海に飛び込んだ。
「マシュウ!」
 ぽかりと海面に金色の頭が浮かび上がる。
「おい、飛行機を下ろせ!」
「無茶を言いなさんな。これは車やバイクじゃないんだぜ」
「なら、空港に戻れ!」
「だからそれも無茶だって。着陸料を払う金なんてもう持ってねーよ」
 軽々しい答にイライラして、直樹は青い海面を、目を凝らして見た。
 マシュウはかなり陸から離れてしまっている。いくら泳ぎが得意でも、沖まで出るのは危険過ぎる。
「マシュウ様、戻って!」
 声の限りに叫ぶが、マシュウに聞こえるはずもない。自分の声さえ、セスナのエンジンの音に掻き消されそうなのだ。
「ああ、そうだ。杉山」
 パイロットが今思い出したというように、懐から紙を取り出した。
「あんたに新しい仕事の指示が出てたんだ」
 何を呑気にと思いながら、人の悪そうな笑みを向けるパイロットに何か作為を感じ、その紙をとる。
 風に煽られて読みにくいと思いながら、簡単なその文面を目で追う。
 指令書と書かれた僅か数行のその文字を読んだ直樹の目が驚きに見開かれる。
「飛行機はとまらなくても、途中下車ならいいわけだな」
「まあな」
 気のいい返事に頷いて、直樹は、荷物は後で送ってくれと言って、セスナが海面すれすれの高度まで下がったところで、海に飛び込んだ。
「マシュウ!」
 直樹は自分に向かって泳いでくる、たった一つの真珠を手に入れるため、泳ぎ始めた。



                          おわり。