Text −7−



 マシュウは館から出なくなった。
 神殿への毎日の礼拝には出ていくが、それ以外は、一歩も出ようとはしなかった。
 あれほど行きたがった海へも、行きたいと言わなくなった。
 怖がっているのだろうと、最初直樹は思っていた。
 二度も命を狙われたのだ、怖くないはずがない。マシュウはまだ十六才なのだ。
 直樹とマシュウの間には、以前のような親密な空気は全く感じられなくなった。
 直樹から話しかけることはなく、マシュウも口を開くことは稀だった。
 気まずく、重い沈黙の空気だけが、室内に垂れ込める。マシュウは所在無げに座り込み、本を読むだけの日々が続いている。直樹はそんなマシュウを見るともなく見ている。
 二人の視線は合うことすらない。
 青い瞳は常に伏せられ、活き活きとした輝きはなくなった。
 自分のせいだと思いながら、直樹は関係の修復を試みるつもりはなかった。
 肩の傷は鍛えた身体の賜物か、縫わなかったのが良かったのか、すぐに包帯も外せた。
 身体の傷は癒えたが、マシュウを守るために、二度と同じ失敗は繰り返さない。そう心に決めていた。
「海に行きたい」
 真珠祭が近づき、城内がざわざわと落ち着かなくなってきたある日、マシュウが直樹に話しかけてきた。
「潜られますか?」
「潜りたい」
 マシュウの答は簡潔で、以前のように甘えた響きも感じられなくなっていた。
「では準備いたします」
 直樹が警備兵に電話をかけ、車の手配を始めると、マシュウはまた興味もなさそうに、膝の上に本を開いた。
「王子、私は潜る準備をしてきますので」
 マシュウの頭が上下するのを見て、直樹は与えられた隣の部屋に移動する。
 いつ潜りたいと言われてもいいように準備が済んでいた機材を持ち上げる。
 部屋に戻ると、マシュウがこちらをじっと見詰めていた。
「車の用意ができたか、見て参ります」
 マシュウの物言わぬ視線に堪えられず、直樹は逃げ出した。
 久し振りに絡んだ視線に、直樹は苦しくなる。
 マシュウの力のない瞳。苦しいと訴えているのは、自分に都合のいい幻想だろうか。直樹は自分の愚かさに唇を歪める。そんなことがあるはずがない。
 王子の信頼は、もう欠片も残っていないのにと。
「海に行くなんて、どうかしているんじゃないのか!」
 カリヨンの玄関が開き、車の用意ができのと先触れが来たのかと思っていたら、アトレーが血相を変えて飛び込んで来た。
「マシュウ様が海に行きたいと言われましたので」
 直樹の説明にアトレーは尚荒々しく責めたてた。
「それをとめるのがお前の役目だろうが」
 理不尽な問責に直樹は無表情で返した。
「それは私の領分を越えますので、アトレー様からマシュウ様にご進言下さい」
 アトレーはぐっと詰まり、直樹のうしろに視線を移した。
「マシュウ、海に行くなんて危険だ」
 いつの間にあとを追ってきたのか、マシュウが階段を下りてきていた。
「そろそろ海の様子を見に行かないと、祭まで日がないから」
 祭に供える真珠を獲れるのはマシュウだけなのだとアトレーもよくわかっているので、無下に反論することができなくなった。
「今日は様子を見るだけで、すぐに戻ってくるから」
 マシュウの言葉に、アトレーは仕方なさそうに頷いた。
「お前、必ずマシュウを守れよ」
 直樹は頭を下げ、車の用意ができたかを見るため外に出た。
 リリィとマシュウ用の車が玄関の前に横付けされる。車のトランクに、ダイビング用の機材を積み込み、直樹は周囲を鋭い視線で見回した。
「よろしいですよ。どうぞ」
 後部座席に二人で乗りこむ。車はゆっくりと滑り出した。
 車の中をただ沈黙だけが支配する。マシュウは車に乗った時に、何かしら地名のようなものを運転手に言ったので、目的地へ向かっていることは間違いがない。
 城の周囲をぐるりと回り、車はいつもマシュウが抜け出す入り江の脇に止まった。

 海の中は、直樹がこれまで潜ったどこよりも綺麗な色をしていた。
 一人で潜れるならば、すべてを忘れて、沈み込みたいという欲求が出るほどに、美しく澄んでいた。
 マシュウはフィンをつけている直樹も追いつけないほどに、どんどんと深みへ潜っていった。
 マシュウは薄い水着と共布でできた腰布を巻いた姿で、海中を流れるように泳いだ。
 直樹はついて行くのがやっとだったが、ある場所に来ると、マシュウは動きを止めた。
 その光景をどのように言葉にしていいだろう。直樹は驚きに目を見開き、茫然とマシュウを見ていた。
 ふわりと水中に浮かんだマシュウの身体の周りを、魚たちが舞うように泳ぎ寄ってくる。
 マシュウは両手を前に伸ばし、魚たちと遊ぶように、手を動かす。
 くるりとマシュウが回転すると、南洋特有の派手な色の熱帯魚たちもくるりと回る。
 マシュウは一度水上に顔を出し、再び海の中に見を沈める。
 そんなマシュウの傍に、一頭のイルカが泳ぎ寄ってきた。
 マシュウの頬に擦り寄り、イルカは喜ぶように、くるくると周りを泳ぐ。
 マシュウはイルカの背びれに手をかけると、イルカは勢いよく泳ぎ始める。
「…!」
 直樹は慌ててマシュウとイルカのあとを追う。
 マシュウはイルカの胴を叩き、少し待つように促す。イルカはマシュウに寄り添い、直樹の元まで泳ぎ戻ってきた。
 マシュウがイルカから手を離すと、イルカは直樹に向かって、二、三度、頭を振った。
 調教されたようなイルカの仕草に、直樹は手を伸ばした。
 イルカの額には流れ星のような、白い模様があった。伸ばした直樹の手に、その額を摺り寄せる。
 直樹に挨拶を済ませると、イルカはマシュウのいる方へ身体を翻す。
 途中でマシュウが何度か息継ぎをして、イルカとの遊泳は三十分も続いただろうか、マシュウが水中で手を叩くと、イルカは帰っていった。
 直樹とマシュウはそのまま磯に上がった。
 マシュウは岩の上に身体を持ち上げると、荒い息の中から、クスクスと笑った。
 直樹は訝し気にマシュウを見た。酸素不足だろうかと心配になる。
「カルナダリアの海は綺麗でしょう?」
 重いエアタンクや、身につけた色々な機材を外しながら、直樹は無言でマシュウを見た。
「海は、嘘をつかない。魚は嘘をつかない。海では人も嘘をつけない」
「マシュウ様?」
「きっと素晴らしい真珠が獲れると思う。それが済めば、直樹の本当の気持ちを聞かせて」
 ウェットスーツを脱ぎながら、直樹は聞こえないふりをした。
「僕の友だちは、ナオキを海の仲間だって認めてくれたよ。だから、僕は……」
 その続きを言わず、マシュウは直樹を見た。
 水に濡れた髪が、白い頬に貼りついている。海から上がったばかりの濡れた瞳はやはり水色に見える。
「私は……」
 言いかけて直樹は口を噤む。
『やめろって』
 陽気な声が頭の中で響く。
 お互いに先の言葉をつなげられず、黙り込む。
 直樹の脳裏に、未だ生々しい光景が写し出される。
 目の前で散った紅。それが自分のものだったなら、どれだけよかっただろう。
 視界が真っ赤に染まり、その中で笑っていた彼。
『だから、やめろって言ったのに』
 そうだ。そう言ったのは直樹の方だった。
 その身を投げ出し、笑いながら息絶えた男の顔が目蓋の裏に浮かぶ。
『相手に情を移すな』
 何度も忠告したが、聞き入れられなかった。
 軍の同じ部隊に所属し、特殊な任務にも一緒に就いた。そのコマンドに誇りと意義を持っていた。
 それは直樹も彼も変わることはなかった。
 だが、彼の方がその無機質であるべき仕事に、一つの感情を流し込んでしまった。
 この任務が終われば、軍に戻り、エリートへの道が約束されているのだ。日本人の直樹と違い、彼は生粋の海軍一家の嫡子なのだ。
 長官にのぼりつめることだって、夢物語ではない。
 直樹はむしろ、彼の護衛も兼ねていたといってもよかった。
『相手を好きになるな』
 何度もそう言った。その度に彼は笑って誤魔化した。
 瞬間の判断ミスが彼の動きを封じ、ただ守るだけに徹していた。
 彼は凶弾に倒れた。直樹が伸ばした手は、倒れていく彼には届かなかった。
 直樹は自分も足を撃たれながら、彼が抱えた要人を、力をなくした彼の身体の下から引き摺り出し、安全な場所へと避難させた。
 彼を助けろと、クライアントは泣き叫び、直樹を責め立てた。それでも直樹は友を捨ててきた。そうするしかなかった。職務を全うするためには。
 そのまま、彼と再会することは叶わなかった。
 自分が彼に言った罠に自ら嵌り、あまつさえ、守るべき者を危険に晒してしまった。
 それを許せというのだろうか。そんな甘えを自らに許していいのだろうか。
 答など誰に聞かなくてもわかっている。否だ。
 直樹は首を振り、手早く着替えた。マシュウは直樹の暗い瞳に何も言えず、差し出された着替えに腕を通す。
「急いで下さい。スコールになりそうです」
 マシュウは目を伏せ、陸に上がった魚のように重く感じる身体を動かす。
「どうすればナオキは、前のように僕を見てくれるの?」
 悲しい悲鳴に似た問いを直樹は黙殺する。
 長くここにいてはいけない。
 海では嘘をつけないとマシュウが言ったように、本心を吐露しそうになる。それを食いとめているのは、過去の友人の声だ。いや、自分が言った言葉だ。
 過去と、現在に、直樹は縛られる。
(やはり、この仕事は受けるべきではなかったのだ)
 直樹は深く後悔する。だが、その後悔の中に、微かな安堵も混じっていることに気がついていた。
 ここに来なければ、マシュウと出会えなかった。自分がマシュウを守れることに、直樹は運命というものに感謝した。
 相反する二つの気持ちの中で、マシュウを結果傷つけることになったことを、いつまでも直樹は後悔し続けるだろう。
 それを忘れないためにも、マシュウを守ると、直樹は誓う。自分を捕らえた、小さな天使に。
 雨の匂いを運んでくる風に、直樹はマシュウに車に乗るように促す。
 マシュウは涙を堪え、後部座席に座った。ドアが閉じられると、潮の匂いまで途切れる。
 動き始めた車の振動が、泳ぎ疲れた身体には心地好かったのか、マシュウはすぐに眠り始めた。
 肩を貸しながら、直樹はマシュウの目尻に滲む涙を指先で拭った。
 この純粋な心の持ち主に、酷いことをしている自覚はもちろんあった。
 だが、それ以上に何ができるのか、ナオキには答が見つけられなかった。
 腕に抱き込んでしまえばいいのだろうか。何も見なくていい、何も聞かなくていいと言ってやれれば、どれほどマシュウは救われるだろう。
 カルナダリアの王家の血統や、しがらみから解き放ってやれれば、どれほど幸せになれるだろうか。
 けれど、カルナダリアを離れることは、マシュウに別の宿命を背負わせることになる。
 寝てしまったマシュウを抱き上げ、彼の部屋に運びながら、直樹は愛らしい寝顔の頬を撫でながら囁く。
「ごく普通の幸せをあなたに差し上げられることが、私にはできない」
 そっと、その白く柔らかい頬に、唇で触れる。触れるか触れないかわからないほど、そっと。そっと……。
 誰にも聞こえない呟きは、言われた王子にも届かなかった。


>>Next