Text −6−



「マシュウ様!」
「いやっ!」
 瞬間、直樹の目に映ったのは、やはりボウガンの矢だった。矢の先端がキラリと光って、直樹にその存在を教えた。
 その光が見えた時には、身体が動いていた。
 十分間に合うはずだった。実際、助けられたと思っていた。
 マシュウが直樹に抱きとめられることを嫌がらなければ。
「ナオキ!」
 肩に走る熱い痛みに、直樹は己を激しく責めた。
 矢は直樹の肩を掠り、地面に落ちていた。やはり赤い矢羽根がついている。
「ナオキ!」
 マシュウの狂ったような叫びに、直樹は右肩を左手で押さえ、「落ち着いて下さい」と呼びかけた。
 マシュウは混乱しきっていて、涙を流しながら、直樹の肩に手を伸ばした。
「いけません」
 直樹はそのマシュウの手を止めて、立ちあがる。万が一、矢に毒が塗られていた場合、自分の血に触れられたらマシュウにも危険が降りかかる。
「でも……」
 直樹は自分の愚かさを悔いながら、マシュウを見下ろした。
 マシュウは泣きながら、どうすればいいのかわからず、直樹の肩を、そこを赤く染める血を見ている。
 カリヨンの近く、森の中を散歩している時に狙われた。狙撃者はもう、逃げ去っているだろう。
「すぐに戻りましょう。人を呼ぶより、早いですから」
 マシュウは涙を拭き拭き頷いて、直樹の腕を掴もうとした。怪我をした直樹を庇うつもりだったようだ。
「私に触らないで下さい」
 直樹は厳しい声でマシュウをとめた。
「うっ……」
 再び涙を零すマシュウに、直樹はしっかりしなさいと、はじめて声を荒げた。
「走って下さい。まだ危険が去ったわけではありません」
 マシュウは唇を噛んで、僅かに頭を上下させた。
 腕で涙を拭くと、カリヨンに向かって走り出す。そのうしろをぴたりと併走しながら、直樹はこれからどうすればいいのか、それを考え、またそれをした時のマシュウの気持ちを考え、暗澹たる気持ちに陥っていた。

 幸い直樹を襲った矢には毒が塗られていなかった。掠っただけの傷は、多少肉が削げていたが、傷を縫えば肩を固定せねばならず、そうなればマシュウの護衛につくこともままならない。直樹は縫合を拒否し、止血剤とテーピングで対処した。
 直樹が王宮の医務室からカリヨンに戻ると、アトレーが表に聞こえるほどの大きな声で何かを捲くし立てていた。
「あいつだ。あいつが来るようになってから、マシュウは狙われるようになった。ボディガードといいながら、あいつが一番怪しいんじゃないのか。だってそうだろ、城の中に暗殺者など入れるわけがないんだ。誰かが手引きしない限りな!」
 直樹は足を止めてその声を聞いていた。目には鋭い光が宿る。
「今はマシュウを守ったように見せながら、今度は守りきれなかったといって、マシュウを!」
「アトレー、やめて下さい。マシュウの前でそんなこと」
 リリィの制止がなければ、直樹は飛び込んでいたかもしれない。飛び込んで、アトレーを王子とわかっていても殴っていたかもしれない。
 それ以上、その話を聞いてはいられなかった。
 自分を侮辱されたからではない。マシュウが死んでしまうという話を、仮定であってもされたくなかったのだ。
 直樹は深呼吸し、ポーカーフェイスを顔に貼りつけ、今の話など微塵も聞かなかったような態度で、館の扉を開けた。
「ナオキ!」
 マシュウが叫んで駆け寄ってきた。
 けれどマシュウは、先程直樹に激しく止められたことと、今も直樹の表情にその時の冷たさが残っていることを敏感に感じとり、数歩を残して、直樹の前で止まった。
「ナオキ、痛くない?」
 か細い声で弱々しく尋ねられるが、直樹はその問いを無視し、アトレーの前に歩み出た。
「な、何だよ」
 直樹はアトレーに向かって深く頭を下げた。アトレーは驚きに目を丸くする。
「申し訳ありませんでした」
 突然の謝罪に、アトレーは意味がわからないようだった。
「い、いいさ。お前はマシュウを守ってくれた」
 とても嫌そうにだがアトレーは、直樹の肩の傷を労らいさえした。
「以後、何があってもマシュウ様はお守りします」
「あ、ああ。よろしく頼む」
 これ以上はないという憎しみに満ちた目で、アトレーは直樹にマシュウのボディガードを依頼しなければならなくなった。
 うまく誘導されたことを知って、アトレーは唇を噛む。
「アトレー様、そろそろ戻りませんと」
「うるさい、わかっている!」
 バドールに促され、アトレーは足音も荒く館を出て行く。
「必ず捕まえてやる。犯人をな。手引きしている奴もろとも!」
 捨て台詞を残し、アトレーは館を出ていった。
 直樹はほっと息を吐き、リリィに向かって深く頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。一つ間違えば、マシュウ様にお怪我を負わせるところでした」
 リリィは緩やかに微笑むと、直樹の傷の状態を尋ねた。
「もう大丈夫です」
 それを聞いてリリィは頷くと、美しい眉を寄せた。
「ミスター、これはアトレーに言われたからではないのですが」
 言い難そうに言葉を選びながら、リリィは直樹に重ねて質問をした。
「マシュウから裏門の鍵を預かっておられるそうですね?」
 直樹はドキッとしたが、その動揺を隠す。
「私はミスターを疑ってはいません。けれど、あなたがそれを持っていることがお兄様の耳に入ったらと、それを心配します」
 リリィの言葉を表面通りに受けとっていいものかどうか迷いながら、直樹は上着の内ポケットに手を入れた。
 マシュウから預かっていた鍵を取り出し、掌に乗せてリリィに差し出した。
「どうぞ、お返しします。軽率なことをして申し訳ありませんでした」
「ナオキ!」
 マシュウは悲しそうな声を上げて、その手を見詰めた。
「マシュウ、わかるでしょう? あなたは危険なの。あなたを狙う者が誰なのかわかるまで、海に行くのはやめてちょうだい」
 リリィは息子の身体を抱きしめる。マシュウはリリィにしがみつき、首を横に激しく振った。
「少しの辛抱よ、わかるわね。きっと真珠祭が終われば、狙われることもないわ」
 リリィの説得にマシュウは不承不承頷く。
「それが終われば、また鍵をくれる?」
「ええ、いいわよ」
 優しくマシュウの頭を撫で、リリィは悲しみに顔を曇らせる。
 金色の髪が眩しく、綺麗なのに、それが息子を苦しめる。
 リリィの横顔は自分の過去の恋さえ、酷く後悔しているように見えた。

「ナオキ、痛む?」
「いいえ」
 直樹の短く抑揚のない返答に、マシュウは会話の接ぎ穂を見つけられず、戸惑い、立ち竦んでいた。
「ごめんなさい……」
 マシュウが小さな声で謝ると、直樹は小さな王子をより竦ませるような溜め息をついた。
「何を謝っておられるのです?」
 いつにない直樹の声の冷たい響きに、マシュウは細い足を震わせる。
「僕が……。ナオキの邪魔をしたから……。だから、ナオキが怪我をした。僕が動かなければ、ナオキは前の時みたいに、怪我をしなかった……」
 とつとつと話すマシュウに、直樹は王子が俯いているのに気を許して、悲しい瞳を向ける。
 だがマシュウが話し終わって顔を上げた時にはもう、直樹の瞳は何も語らぬ、冷たい色に塗り替えられていた。
「何故、私が王子を抱き上げようとした時、抵抗なさったのです。私が怖いですか?」
 マシュウは何度も何度も首を振った。髪が揺れて、室内に差し込む光を弾く。
「だって……、ナオキが危ないと……、思った……、から……」
 俯いて涙を零すマシュウを見ながら、直樹は天井を見上げて目を閉じた。
 胸に渦巻くのは、ただただ深い後悔だった。
『お前の責任だぜ』
(わかっているさ)
 呆れたような懐かしい声。
 それに対して直樹は毒づく。
(わかっているさ、これは、俺の責任だ。だから……)
「私の身体は、あなたの盾になるために在るのですよ」
 マシュウはそれを聞いてはっとして顔を上げた。目には涙が溜まり、青い瞳が水色に見える。
「嫌だ。ナオキが傷つくのは嫌だ」
「では、私を解任して下さい」
「どうしてっ!」
「私はあなたの遊び相手としてここに来ているのではありません」
 突き放すような直樹の言い方に、マシュウは息を飲む。瞬間息をするのも、泣くことも忘れたように、目を見開いて直樹を見詰めた。
「私の仕事を理解して頂けないのなら、どうぞ代わりを見つけて下さい」
 言って、直樹はくるりと背を向けた。
 背後から啜り泣く声が聞こえる。
 直樹は泣き声を聞きながら、目を閉じる。
『これで本当にいいのか?』
 茶化すような過去からの声に、直樹は唇を歪める。
(これでいい。これで……)
 肩の傷が痛む分、自分の選択は間違っていなかったのだと教えてくれる。
 この痛みを忘れるな。心の傷よりもリアルに、直樹に己の失敗を覚えさせてくれるだろう。
 泣き声は陽が沈んでもとまらず、その間ずっと、直樹は振り返らなかった。

「ナオキはこの前、僕がナオキを怖がっていらると守りにくいって言ったよね。……それは、僕の盾となるため?」
 泣き声がやみ、室内が暗くなり始めた時、直樹の背後から弱々しい声がした。
「そうです」
「ナオキは僕にナオキを好きにならせて、それで守ってもらって、もしナオキに何かがあったとして、喜ぶと思った?」
 それはまるで心臓に鋭い錐を突き刺されたような痛みのする質問だった。
 そんなことはないと叫びそうになる自分を、直樹は必死で押し殺す。
「王子のお気持ちは関係ありません。それが私の仕事です。それに王子たるもの、護衛の命の一つや二つ、気にかけてはいけません」
 本心ではない。本心ではないが、それが要人に必要な覚悟でもある。
 マシュウが大人になる日が遠い未来であればいいと願いながら、今直樹はその背中を押している。
 その矛盾に直樹自身苦悩していたが、一番傷ついているのは他ならぬマシュウであることもまたわかっていた。
「僕がナオキを解雇すると言えば、他の護衛官が来るんだ」
「そうです」
 それをマシュウが選んだとしても、直樹に異論は唱えられない。
「僕がナオキにいて欲しいと願えば、ナオキは僕のことを守ろうとする。僕が嫌だと言っても」
「……もちろんです」
「僕が選ばなくてはならないの?」
 直樹は己の愚かさに吐き気さえしていた。どうしてこんなことになったのだろうと思う。守りたい人は、ただ純粋に、マシュウのことだけなのにと思う。マシュウの気持ちまでも、親鳥が雛を守るように、大きな羽根で包むように守りたいと思うのに。
「ええ」
 短い返事を言った今も、マシュウに背中を向けていてよかったと直樹は思う。
 今顔を見られれば、鉄壁のポーカーフェイスも役に立たなかっただろう。それほど後悔してもいたし、苦しい表情をしていた。
 そして、マシュウに背を向けていた直樹は知らなかった。マシュウが悲しみを飲み込み、数段大人びた顔つきになっていたことを。
 振り返っていれば、何も言わずマシュウを抱きしめ、この『オルゴール』という意味の優雅な名のついた館から、攫ってでも自由を与えたいと思っただろう。
 振り返らなかったのは、直樹の弱さであり、執着だった。
「僕はこれからもナオキに護衛を頼みたい」
 直樹は苦労して表情を引き締め、ゆっくりと身体の向きを変えた。
 マシュウは泣き疲れた、けれど静かな目で窓の外に視線を移していた。
 マシュウの元に歩み寄り、直樹は膝を折った。
 母親譲りのその美しい横顔を見詰め、直樹は小さな白い手をとり口接けた。
「何があっても、王子をお守りします」
 ぽつりと涙が一滴、その口元に伝って消えた。




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