Text −5−



 マシュウが襲撃されてから一週間ほどは、平穏な日々が流れていた。
 それは退屈といえるほどの優しい時間でもあった。
 直樹は変わりなくマシュウの身辺に目を光らせていたが、特に目立った動きもなく、マシュウもあの衝撃を忘れつつあるようだった。
「ナオキ、まだ海は駄目?」
 危険がないとわかると、マシュウは海へ行きたがった。
「どうしても行きたいですか?」
 直樹が苦笑しながら訊くと、マシュウは寂しそうに首を振る。
「ナオキが駄目って言うなら、行かない」
 マシュウが俯くと、細いうなじが、直樹の位置からよく見えるようになる。剥き出しの肌が、痛々しく見える。
「明日、アトレー様は来賓のお相手で忙しいようですね」
 直樹が明日のアトレーの予定を話すと、マシュウは顔を上げた。その表情が嬉しいと物語っている。
「いいの?」
「ただし、あまり嬉しい顔を今からなさってはいけませんよ。それと、潜るのは無しにして下さい」
「どうして?」
 潜ることを禁止され、マシュウは嬉しそうな顔を一気に萎める。
「もう少し、この辺りの地形を私に勉強させて下さい」
 黙って抜け出すのなら、かえってマシュウには安全なのではないだろうか。
 そう思って直樹は重いしこりを胸の中に隠す。
 マシュウを狙っている者は城の中にいる。そしてそれを手引きする者は、マシュウに近い場所にいる。
 どれだけ冷静に考えても、そうとしか思えなかった。
 直樹は頭の中に何人かの顔を思い浮かべ、まさかとそれを否定する。いくらなんでもそれではマシュウが可哀想だと思う。
「……まだ、危ないと思う?」
 少し険しい顔で考え込んでいると、マシュウは心配そうに直樹を見上げていた。
「大丈夫です。王子のことは、私が必ずお守りします」
 直樹の言葉を聞いて、マシュウは安心したように笑う。
 最初の頃を思えば、ずいぶん信頼されるようになった。ぴったり横につくようになっても、マシュウはもう怯えたりしないし、むしろ最近では、直樹が少しでも離れると、不安を訴える。
 片時も護衛から離れようとしないマシュウの態度を、アトレーが燃えるような視線で見ていることに、直樹は気がついていた。
 アトレーが見せるマシュウへの執着に、直樹は気分が暗くなる。
 マシュウを狙う者はアトレーではありえないとわかるが、彼のマシュウへの想いは、決してプラスにはならないと、直樹は考えていた。
 マシュウがまだ直樹に慣れない頃、アトレーには気を許していた。それでも危険が迫っていたのだ。
 アトレーが傍にいることで、マシュウがより反感を買うことになっていたとしたら。直樹はそちらの方を心配していた。
「本当に海が好きなのですね」
「海の中の方が好きだよ」
 マシュウは屈託なく答える。
「ナオキは潜るのが嫌いなの?」
 他の同年代の少年たちより、マシュウはずいぶん幼く見える。生い立ちを聞けば、やはり学校に通ったことはなく、城の中で家庭教師について、勉強をしていたらしい。
 それも日本で言えば中学卒業程度の勉強で、従兄弟たちのように高等教育や帝王学については、学んでいない。
 これはマシュウが特に酷い扱いを受けているということではなく、カルナダリアの平均的な教育程度であるという。高等教育や、大学に進む者は、本当に一握りだけらしい。
 一旦打ち解けると無邪気に話しかけてくる。マシュウのそんな幼い姿は、直樹にとっては救いでもあり、慰めでもあった。
 守るべき命がこんなに美しい心の持ち主であることが、直樹の今も疼く傷を優しく撫でる。
「潜るのも好きですよ」
 直樹の返事に、マシュウは嬉しそうに顔を綻ばせる。
「魚たちの話は聞いたことがある?」
 マシュウは瞳を輝かせながら、海の話に夢中になっていた。夢でも見ているように、頬を紅潮させ、興奮気味に口を開いている。
「魚たちの話、ですか?」
 直樹は唐突な話題に戸惑う。
「聞いたこと……、ない?」
 わからないという表情を直樹がしたのだろう、マシュウは寂しそうに、上目使いで直樹を見た。
「ええ、私は以前にも言いましたように、道具を使いますから、きっと魚たちは変な奴が来たと警戒するのでしょう」
 なるべくマシュウを傷つけないように直樹が言い訳をすると、マシュウはふーんと首を傾げる。
「今度潜ったら、僕の友達を紹介するね」
 屈託のない笑顔に、直樹は胸に差す影に気持ちを塞がれる。
 マシュウはいつまで子どものままでいられるのだろう。いつかきっと、今のままではいられない日がやってくる。
 その日が遠い未来であればいい。
 直樹は自分の領分も忘れ、純粋にマシュウのために、心を痛めていた。

 足音を忍ばせて、城の裏門へと辿りつく。
 マシュウは秘め事をしている者特有の、悪戯っぽい笑顔を直樹に向ける。
 直樹は少しだけ怖い顔をして、マシュウの浮き足立った気持ちを鎮めようとする。
 それは少しも成功することはなく、マシュウは口を動かして、早く、早くと直樹を急きたてる。
 直樹は左右を見回し、門の鍵を開けた。先に門を潜り、危険がないかを確かめる。
「大丈夫?」
 ちょこんと覗く金色の頭を、直樹は押し込める。
「駄目なの?」
「よろしいですよ」
 直樹が手招きすると、マシュウはなーんだと言って出てくる。
「誰かいるのかと思った」
「それを確かめるまでは、出てきては駄目ですよ」
 直樹は鍵を閉めながら、マシュウに注意をする。
「僕の髪が金色だから?」
 マシュウの問いに直樹ははっとして、自分の主を見た。
 青い目に哀しい色が差す。
「違いますよ。危険だからです」
 きっと、誰もが批難するのだろう。髪の色が違うことで、目の色が違うことで、マシュウは辛い目に遭ってきた。
 それを辛いとは言わないマシュウだったが、だからといって何も感じていないのではないと、当たり前のことを今更ながらに感じて、直樹はよりマシュウが愛しくなった。
「私の国では、若者たちは、わざわざ髪を金色に染めるのですよ」
 直樹が言うと、マシュウはわからないというように、不思議そうな顔をした。
「目も、色のついたコンタクトを入れたりしているようです」
「へぇ……」
 岩場を歩きながら、マシュウは直樹の国の話を聞きたがった。
「ナオキも金色にしたい?」
 マシュウの質問に、直樹は楽しくてつい笑ってしまった。
「そうですね。王子のように似合えばしてみたいです」
「僕、似合ってる?」
 マシュウは海風に吹かれる髪を指先にくるりと巻きつける。
「ええ、私は似合っていると思います」
 直樹が断言すると、マシュウはニッコリ笑った。
「ナオキの国って、遠い? どっち?」
 マシュウは海に向かって、指を差す。
「こちらですね。私の国は。そんなに遠くありません」
 直樹は北を指差す。その指先をマシュウは見詰める。
「国に帰りたい?」
 マシュウに見詰められ、悲しそうに問われて、直樹は微笑んだ。
 直樹は純粋な日本人だが、所属する団体はヨーロッパのとある国である。ずいぶん昔に国を出てから、故国はその国だと思っている。
 故国だとは思っているが、直樹自身、その国では実績を上げるまでは、黄色い肌、黒い髪のために嫌な思いをしたことが多くあった。
「帰りたいと思ったことはありません。ずっと、王子が私を必要としてくれる限り、カルナダリアにいます」
 マシュウはほんとに? と問い、直樹は頷いた。
「約束してくれる?」
 純粋で曇りのない心。直樹はその美しさに比べて、自分の身の内に潜む醜い傷を知られまいと、優しい笑みにひた隠す。
「約束します」
 あまりにも嬉しそうに笑って、マシュウは直樹に抱きついてきた。ふわりと細い身体に抱きつかれ、直樹は戸惑う。
「王子……」
「黒い髪を金色にできるなら、この髪も黒くできる?」
 マシュウの静かな痛々しい問いに、心を打たれた。
「コンタクトというのを入れれば、黒い瞳になれる?」
「マシュウ様……」
「黒い髪と黒い目になったら、愛して貰える?」
 矢継ぎ早に出される質問に、直樹は絶句する。王の甥として生まれながら、こんなにも孤独で寂しい王子がいるだろうかと思う。
「誰に愛して欲しいのですか? カルナダリアの国民ですか? 国の官僚たちですか?」
 直樹には、マシュウを嫌う人たちで思い当たる人物といえば、それくらいしか思いつかなかった。
 だが、マシュウは思いもかけない名前を言った。
「お母様……」
 その答えを聞き、直樹は虚を突かれた。
「リリィ様ですか? リリィ様は王子を愛していらっしゃるでしょう?」
 愛した人との証しではないのか、この髪と瞳の色は。忘れられぬからこそ、愛しているからこそ、相手の素性を隠すのではないのか。
「お母様は……、時折、僕の髪を見て溜め息をつく。アトレー兄様が褒めると嫌そうな顔をする」
 ぎゅっとしがみつく身体を、直樹は力をこめずに腕を回した。
 いじらしい子だと思い、愛しい想いが込み上げてくる。
 母親の胸に去来するものが何であるかは直樹にもわからなかったが、小さな子どもは、周りの反応と母親の気持ちを重ねてしまっている。
「大丈夫ですよ。リリィ様はマシュウ様のことをとても愛しく思われています」
「本当?」
「ええ。マシュウ様はリリィ様が好きなのでしょう?」
 マシュウは直樹の腕の中で、力強く首を縦に動かした。
「その気持ちはリリィ様がマシュウ様を大切に思われているからこそ、生まれてくるものなのです」
 直樹の言葉に、マシュウは護衛の背中に回した手をぎゅっと握りしめる。
「城の中は嫌い。みんなが嫌な目で僕を見る。海が好き。海は僕を変な目で見ない」
 直樹の胸の中でマシュウはずっと抱え込んでいたものを吐露する。
「ずっと、海の中で暮らしたい」
 マシュウの孤独を理解しているつもりだったが、それでも何不自由のない暮らしをしていられるのは、幸せなことだと、心のどこかで思ってもいた。
 けれど、孤独を埋められるのは、富や権力や血統などではない。
 直樹のことは、父親の代わりのように慕っているのだろうと思われた。
 それでも、それでも守りたいと思う気持ちは嘘ではない。
『クライアントに情を移すな』
 懐かしい声が直樹の心の中に響く。
『相手を好きになるな』
 白い歯が印象的だった。今もまず思い浮かぶのはその笑顔だ。
(わかっているさ)
 直樹はマシュウを抱く腕に力をこめ、皮肉に笑うその人物の面影に言ってやる。
(わかっているさ。これは同情じゃない。だが、愛情でもない)
 自分の気持ちがどこへ向かうのか、それすらもわからぬまま、直樹ははじめて抱く感情に、流されていく自分を、どこか冷ややかに眺めていた。


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