最初の事件は、マシュウが神殿にいる時に起こった。 マシュウはカルナダリア王国で、神官としての役割を担っていた。 マシュウの外見を理由に、神官の役割を与えることに不満を唱えるものも多かったが、マシュウのある能力のために、異議を表面に出せないでいた。 カルナダリアは真珠の養殖が盛んであるが、養殖真珠の他に、天然の真珠も獲れた。 天然の真珠の中でも極上品は光の加減によって、カルナダリアの海の色に似た青とも碧ともつかぬ艶を、表面に浮かべるといわれている。 あまりにも素晴らしいその色合いの真珠は滅多に獲れることがなく、高級品とされ、神殿に供物として捧げられる。 その極上の真珠を獲って来ることができるのが、今の王国では、マシュウ一人だけなのだ。 一年を通してカルナダリアは、日本の夏のような気候だが、海流が微妙に変化する八月頃、その真珠が獲れるとされている。 その頃にカルナダリアは、祭を迎える。新年よりも、王の誕生日よりも大切な祭の季節だ。 素晴らしい真珠を神前に供え、国の安寧と発展を祈る。 そのために極上の真珠は必要不可欠とされていた。 マシュウだけがその真珠を獲れるとあっては、日頃マシュウを厭う者たちも、あからさまな態度はとれないでいる。 そうした理由があるため、今までマシュウは微妙な立場にいたものの、特に危険に遭うこともなかったし、平穏な日々を過ごせていた。 何故今頃になってマシュウの身の回りに危険が迫るようになったのかは、はっきりしなかったが、まことしやかに王宮で囁かれる噂の中には妙に信憑性のあるものもあった。 皇太子であるニコルに現在縁談が持ち上がっている。相手は隣の国の王族に縁のある娘で、その王女は、自分の容姿に自信があるあまり、自分より綺麗なマシュウが気に入らない。そういった理由で縁談が難航し、業を煮やした官僚たちの中の過激な思想を持つ者たちによって命を狙われているというのである。 直樹にはその噂を審議する力も余裕もなかったが、あながち外れていないのではないかと思っていた。 それが事実だとしても、マシュウが狙われていいことにはならない。 マシュウ自身にそんな噂が聞こえることはなく、神官としての日々の勤めを、つつがなくこなしていた。 神殿は宮殿の中央、三方を宮殿の外廊に囲まれた広場に奉られていた。 主神は海の神だという。 神殿は拝礼するための部分を屋根で覆われているが、壁はなかった。正面には神がいるとされている小さな建物があり、その中には普段は立ち入らない。建物には、階段で昇るようになっていて、拝礼する部分も、階段も、神殿自体も綺麗に磨かれていた。 マシュウはいつも神殿の前まで行き、そこに供えられた花や水を取り替える。ロウソクに火をつけ、その火が消えるまで、静かに祈りを捧げる。 直樹はその間、周囲に目を光らせる。壁がないというのは、とても神経を使うのでもっぱら気を配るのは、マシュウのうしろと左右だった。 直樹は自分がうしろに立つことでマシュウの背中を守り、左右に神経を尖らせる。 直樹が恐れるのは、拳銃だ。拳銃は距離があっても、十分に獲物を仕留めることができる。ボディガードが気づいて行動しても、間に合わないことが多い。 ただ、神経を研ぎ澄ませることで、その気配を知ることは、可能であるとされている。 その時、直樹はそんな気配を察知してはいなかった。 これまでにも、マシュウにそんな直接的な危険が迫ったとも聞いていない。 だが、直樹は自分の右手側、宮殿の外廊の柱の影に、何かキラリと光るものを見つけた。 見つけたと思った時にはもう身体が動いていた。 敬虔な祈りを捧げるマシュウを自分の左手で抱え、階段の脇に逃げ込む。 マシュウはあっと驚いた声を上げたが、直樹の突然の行動に、何が起こったのかはわからないようだった。 「ナオキ?」 祈りを遮られた戸惑いと、何があったのだというマシュウの純粋な疑問は、直樹が口を塞いでいたため、訊くことも叶わなかった。 直樹は抱え込むようにマシュウを自分の懐に抱き、階段の陰から、その場所を見詰めた。 「まだ動かないで下さい」 ただならぬ直樹の様子に、マシュウは唇が震え、返事ができなかった。そのまま青い顔で頷く。 直樹はそろりと階段の脇からゆっくりと身を出し、今までマシュウがいた場所に立った。向こうに見える外廊には、もう人影は見えない。 直樹は溜め息をつくと、マシュウが座っていた葉所に突き刺さるそれを引き抜いた。 あっと、マシュウが驚きの声を上げる。 それは赤い羽根がついた、ボウガンの矢だった。 「マシュウ!」 直樹の報告を受けて、リリィが慌ててカリヨンに戻ってきた。リリィのうしろにはアトレーの姿も見える。 直樹は神殿からバドールに連絡をとった。駆けつけたバドールは直樹からその矢を受けとると、すぐに部下と兵士を不審者の探索に向かわせた。 それらを見届けて、直樹は震えるマシュウを抱えるようにして館に戻ってきた。 その頃にはもう、宮殿は大騒ぎになっていた。 一国の王子が宮殿で命を狙われたとあっては、それも無理のないことだろう。すぐにリリィの耳にも入り、彼女はとるものもとりあえず、戻ってきた。 「お母様」 マシュウは震える身体のまま、母親にしがみついた。 「無事で良かったわ」 日頃気丈に振る舞っている彼女ではあったが、さすがに今回のことは堪えているらしく、うっすらと目に光るものがある。 「お前がついていながら!」 二人が無事を確かめ合っているところへ、アトレーの荒々しい声が響いた。 はっとしてマシュウもリリィも振り返った。 アトレーは憎しみの色に染めた目で直樹の前に立っている。今にも直樹に掴みかからんばかりに、その手は震えている。 「やめて!」 アトレーが手を振り上げた時、悲鳴のような声がその行動を止めた。 アトレーは驚いてその声がした方に振り返った。 「やめて。ナオキは僕を守ってくれたんだ。ナオキがいなかったら、僕は……」 まだ震えの止まらぬ身体で、マシュウは必死に直樹に近づいた。 「悪いのは僕を狙った人でしょう? どうしてナオキを責めるの?」 マシュウの濡れた瞳に見詰められ、アトレーは喉が詰まったように喋れなくなった。 「そうです。彼がいなければ……、そう思うとぞっとします。どうぞ、アトレー、マシュウのことを心配して下さるなら、犯人を捕まえて下さい」 マシュウを援護するリリィの言葉に、アトレーはますます気まずそうに俯いた。 「すぐに捕まえてみせるさ。今、バドールたちに、探させている!」 憎々し気にアトレーが吐き捨てると、そこへニコルがバドールを引き連れてやってきた。 「取り込み中かな?」 気まずい空気を察知してか、ニコルは白けたように辺りを見回した。 「アトレー、自分の仕事に戻りなさい。きみの護衛にバドールをつける」 「えっ、でも、俺は」 アトレーは毒気を抜かれたように自分の兄を見た。 「王子が狙われたのだ。きみも危険であることには変わらない。私は、マシュウはスケープゴートでしかないと思っている。真に危険なのは、私やアトレー、きみだよ」 ニコルの言葉にアトレーは顔を顰める。理解しがたいという表情だった。 直樹は反対にその言葉を聞いて、心の中に苦い塊を覚える。 ニコルはマシュウが狙われたことなど、なんとも思っていないのだと言っている。 それより大切なのは、自分や弟の命であると……。 「兄上、しかし」 「マシュウには優秀なボディガードがついているではないか」 ニコルの目が直樹を捉える。細い目から覗くその瞳は、考えていることを読ませない冷たい色をしていた。 直樹はその視線に晒されながらも、何も気づいていない態度で、真っ直ぐに立つ。 「マシュウにももう少しボディガードを増やす方が」 アトレーはあくまでもマシュウを心配し、とても信用などできないといった視線を直樹に向ける。兄とは反対に、思っていることがすべて態度や表情に出てくる男である。 「必要ない。王宮の警護自体を強化した。むしろボディガードなど必要ないくらいにな」 ニコルは簡潔に言い置くと、バドールを残して、自分は他のSPを引き連れて館を出ていく。 「マシュウ、なるべく外には出るな。いいな。王宮の中を歩く時も、私が一緒にいよう、そうすれば……」 「アトレー」 館の出口でニコルが振り返る。 「ああ……、わかっている」 アトレーはニコルに呼ばれ、くれぐれも一人で行動はするなとマシュウに言い含め、あたふたとニコルを追いかけた。 館にはマシュウとリリィ、直樹だけが残される。 「ミスター、ありがとう。マシュウが無事なのは、あなたのお陰ですわ」 リリィに改めて礼を言われ、直樹は頭を下げる。 「私は自分の仕事をしただけですから」 直樹は言って、まだ震えるばかりのマシュウを見た。 「もう大丈夫ですよ」 「ありがとう、ナオキ」 マシュウは濡れた瞳で直樹を見上げてくる。その瞳が水色に見えて、胸の痛みが増す。 神殿の前でマシュウを狙うなど、神への冒涜に等しい。 直樹自身は王国の宗教を信じていないし、どちらかといえば無神論者である。だからといって、他人の信仰まで否定するつもりはない。 この国にとって、神聖なるものの前で神官を努める者を狙うなど、考えられないことであった。 (それだけ本気でマシュウを狙っているといえる……) 直樹の心の中に、暗い闇が広がる。 マシュウを守り、身代わりになれるのなら、それでいいと思っていたはずだった。このまま、この海に身を沈められるのなら、自分にはもったいないくらいの最期だと思っていた。ここに来た時は。 けれど、今はそんな風には考えられなくなりつつあった。 マシュウは信頼の目を直樹に向ける。その気持ちを裏切りたくない。いや、その信頼を穢したくないのだった。 マシュウの雰囲気は、直樹の心の闇に少しずつ柔らかく暖かな光を差し込んでくれる。 それを求めている自分に、直樹は気ついていた。 そんなマシュウの信頼が更に自分を危険な場所に追いやることになるとは、二人とも気がついてはいなかった。 直樹はただ、その信頼に応えたいと思い、近づいたマシュウとの心の距離に、反対に自分の成功を信じていた。 |