Text −3−



 こっそり二人がカリヨンに戻ると、青い顔をしたアトレーが右往左往していた。
「どこへ行っていたんだ!」
 アトレーはマシュウと直樹を見つけると、飛びつくように走り寄ってきたかと思うと、怒りで顔を真っ赤にして、直樹に向かって怒鳴りたてた。
「どこかは言えません」
「何だと!」
 今の今まで無視していながら、ここぞとばかりに責めてくる姿に、直樹は内心でうんざりしながらも、それを表に出さないように注意する。ポーカーフェイスは得意だ。
「王子の身は何があってもお守りいたしますから」
「信用できるものか、お前みたいな、外国人を」
 敵愾心も露わに胸元を掴む一国の王子の姿に、直樹は心の芯まで冷えていくように、冷静になっていった。
「クライアントに信用していただくだけでかまいませんが」
「何だと! 俺を誰だと思っている!」
 マシュウは今まで優しく、自分の世話を焼いてくれた従兄弟が、表情も険しく、自分を守ると約束してくれた直樹に掴みかかる姿を、震える両手を握り合わせて、怯えたように見詰めている。
 直樹が冷ややかにアトレーを見ることで、尚更相手は怒りを滾らせているようだった。
「いい加減にしないか、アトレー」
 直樹が仕方なく謝ろうかと口を開きかけた時、三人の間に割って入る声があった。凛とした強い響きに、直樹でさえ、一瞬その空気に飲まれた。
「…………ニコル」
 アトレーは直樹の胸元を掴んだまま、茫然と声の主を見た。皇太子である兄の名前を呼び、慌てて直樹から手を離した。
「過ぎたことを責めても仕方あるまい。マシュウは無事だったんだ。そのことをまず喜びなさい。マシュウは今のお前を怖がっているぞ」
 アトレーははっとしてマシュウを見た。今まで怒りにまかせて、その存在さえ忘れていたのだろう。マシュウが恐る恐る自分たちを見ていることを知ると、アトレーは憎々し気に直樹を睨んだ。
「いくら自信があるといっても、子どもの我が侭で城を抜け出す手助けをするのは、きみの領分を越えているのではないだろうか」
 ニコルは直樹に視線を移すと、静かに諭すように話しかけてきた。
「申し訳ありませんでした」
 直樹は深く頭を下げる。
 この国に来てはじめて見た皇太子は、噂通り、厳しい性格をしているようだった。だが、間違ったことを言っているのではなく、直樹の非は言い訳のしようもなかった。
 ニコルはアトレーに似た顔だちをしているが、滲み出る厳しさは、その容貌にもよく現われていた。
 きつい眉と瞳。大き目の口と鼻は、見る者を圧倒する。何より、弟とは比べ物にならない貫禄を備えている。
「以後、十分気をつけるように」
「はい」
 直樹を見詰めるニコルの瞳が、鋭い光を帯びている。まるで、よく切れるナイフのように。視線だけで直樹の皮膚を切るように感じられて、背筋に冷たい汗が流れる。
 不信や嫌悪とも違う、苛烈なニコルの瞳の色に、直樹は何故自分がそんな風に見詰められるのか理解できなかった。
 マシュウを案じてのことかと思ったが、それにしては、アトレーとまるで違う態度に、心配とも違う意志を感じる。
「アトレー、行くぞ。きみは、仕事の途中だっただろう」
「……すぐに戻る」
 不満そうに答える弟を残し、ニコルは館を出て行く。
 すらりと伸びた背筋の皇太子を、怖気づくように直樹たちは見送る。カリヨンの玄関のところで、バドールがニコルに付き従う。
 そこで直樹はようやく、バドールが皇太子のSPであることを知った。
「いいか、今度勝手にマシュウを連れ出すようなことをしてみろ、すぐに首にしてやるからな」
 まるで子どもの喧嘩の言い分だなと思いながらも、直樹はアトレーの言葉に見かけ上は神妙に頷いた。
「マシュウ、この男を信用してはいけない。海に行きたくなったのなら、今までのように俺に言えばいい。ちゃんとしてやるから。いいね?」
 マシュウに話しかける時は、これでもかというくらい優しい猫撫で声で話すアトレーに、直樹は白けた思いで、聞こえないふりを押し通す。
 ボディガードはあくまで飾りに過ぎない。
 主人の会話を聞いたり、それを覚えていたりしてはいけない。
「……はい」
 マシュウが悲しそうにだが頷くと、それで満足したのか、アトレーは突然ご機嫌な表情になると、自分は忙しいのだと言って、館を駆ける勢いで出ていった。
 直樹は思わずほっと、長く詰めていた息を吐き出す。
「ごめんなさい」
「王子?」
 突然マシュウに謝られて、直樹は慌てた。何故マシュウが謝る必要などあるのだろうと、直樹はマシュウとの距離を歩み寄って詰める。マシュウはもう、直樹に怯えて逃げたりしなかった。
「僕が……、お願いしたから」
 直樹はマシュウの言葉に、表情を和らげる。
「王子が悪いのではありません。私がきちんとお話しをしなかったのがいけませんでした」
「ナオキ?」
「今度からは、見つからない方法を考えます」
 直樹の言葉に、マシュウは驚きに目を丸くした。
「私と出かけるのは、嫌ですか?」
 マシュウは急いで頭を横に激しく振る。黄金の髪が、ふわりと光に舞う。
「でも……」
 俯く小さな肩とうなじに、柔らかな金色の髪がかぶさる。
「今までは見つからずに出かけられていたのでしょう?」
「……うん」
 細い首が縦に揺れ、くるりと上を向く。
「アトレー兄様は、決まった時間に来るし、お母様が宮殿にいる間は、来ないんだ」
 マシュウの観察が詳しい様子に、直樹は内心瞠目する。
 追い詰められ、怯えてばかりいる子どもではないと知って、直樹はますますこの命を大切に思った。
「これからは私も気をつけましょう」
「ほんとにいいの?」
 期待に輝く瞳は、いつもより青味を増して直樹に向けられる。
「ですが、しばらくはおとなしくしていましょう。相手を油断させるためにもね」
 直樹が微笑みながら言うと、マシュウは愛らしい顔に満面の笑みを浮かべて、約束だよと、直樹にしか聞こえないように囁いた。
 小さな秘密を持ち合うことで、直樹とマシュウの心の距離は、少し近づき、それは二人の実際の距離にも比例した。
 それを快く思わない相手がいると知りながら、直樹はまだマシュウの身の周りに迫る危険を甘く見ていた。まさか、王宮内で、実際にマシュウの命を狙う者などいるはずがないと。




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