直樹がここに来てすぐにわかったことは、童話のような親子の家は、決して二人の城ではなくて、牢獄であるということだった。 リリィとマシュウの館は、平らなその形から「カリヨン」と呼ばれている。 マシュウは十六才だが、その年のわりに幼く見えた。 そしてその外見のせいで、王室の中でも疎まれ、蔑まれているような扱いを受けていた。 「二人の家」とリリィが言ったように、リリィに夫はなく、マシュウを私生児として産んだ。 ただの私生児としてならマシュウの存在を隠すこともできたのだろうし、ましてや、王の妹妃である、彼女との結婚を望まぬ男などいないだろう。 兄であるギルは妹を大切にしていたし、彼女が望むのなら、それなりの待遇を相手に与え、結婚させることも簡単なはずだった。 だが、彼女が産んだ子は、この国の男性が相手ではないことは、一目でわかった。 マシュウの金色の髪、青い瞳は、隠せない。 そして彼女は、頑としてマシュウの父親が誰であるのかを語ろうとはしなかった。 異国の旅人との間にできた子供だと、噂は噂を呼んだ。 リリィの想いは真剣だったが、周りは彼女をふしだらな女と見るようになり、リリィはその父親について、何も語ろうとはしなくなった。 例え異国でも嫁に出してやるという兄王の言葉も、彼女の口を開かせることはできなかった。 色々な憶測の中で、リリィはマシュウを守るために、口を閉ざすことを選んだ。 異国の髪と瞳の色を持つマシュウは王室の奥深くに隠され、王家の禁忌として扱われるようになった。 ギルにしてみれば、それはマシュウを守りたいためにしたことだが、周りの者はそうはとらなかった。 国の官僚たちはマシュウを厭い、国の恥と遠巻きに眺めるだけで、無視に近い態度をとっている。 物心つくようになってからもマシュウは、自分の意志で宮殿の奥に篭るようになっていった。 それらの事情を知っても、直樹は自分の態度をそんな人たちのように変えることはなかった。 直樹に託されたのは、この小さな命だとわかってからは、まだ生々しい心の傷を一時でも忘れることさえできた。 事実、マシュウが十六才を向かえ、国の大事な祭祀に関わるように王の命令を受けたその日から、危険な目に遭うことが多くなったという。 宮殿から出ることのないマシュウだから、直接命を狙われるようなことはなかった。王宮の中で直接マシュウを狙えば、犯人は逃げられなくなるから。 そのかわり、原因不明の事故に遭遇することが多くなった。 物が落ちてきたり、突き飛ばされたり……。 そして、宮殿で働く人たちは、そんなマシュウを助けようとはしない。気づかぬ振りさえしていた。 これはあきらかにおかしい、このままではマシュウの命が危ぶまれると懸念され、ボディガードを雇うことになった。 ギルは自分の国の人間に、異国の血の混じったマシュウを守らせることに、一抹の不安を抱いた。周りのものの目を見ればそう思うのも当然だろう。 そこで親交のある某国のさる人物に、優秀な人材を派遣してくれるように依頼したのだった。 そしで直樹が選ばれた。 その人物が何故直樹を選んだのか、直樹は薄々わかっていた。 東洋系の人間が望ましい、ダイビングが得意であることなどの制約はあったようだが、そんな人材なら、直樹の所属する団体にはいくらでもいる。 直樹はその時、自分の仕事に限界を感じ、職を離れようとしていたし、それをその人物も十分わかっているはずだった。 それでも尚、彼が直樹を選んだのは、彼の気持ちの中に直樹に対する謝罪が含まれていたのだと思う。 断ることは簡単だった。 直樹はその時、辞表を手にしていたのだから。 けれど、結局のところ、直樹はボディガードを引き受けた。その人物が直樹に強く勧めたというわけでもないのに。 何かを護りたいと、心の中に最後に残った小さな意志。それが直樹をここへ向かわせたのかもしれない。 ごく、普通の仕事だと考えていた。もし何かがあれば、この身を投げ出せば、全てを終わらせられるとさえ思っていたくらいで。だが、それがいかに安易な考えであるか、直樹も認めないわけにはいかなくなった。 直樹がマシュウのボディガードとなって、第一に困ったのは、最初に心配していた宮殿の差別的な態度ではなかった。 およそ使用人たちは、マシュウと、それに関わる人を無視するような態度を隠そうともしなかった。それはむしろ、直樹には都合のいいことではあった。 直樹が本当に困ったのは、自分の守るべき小さな人物だった。それはマシュウの性格によるところが大きい。 よほど人見知りが強いのか、マシュウは二週間が過ぎても、直樹に打ち解けるということはなかった。 特に打ち解けて、親密に話をする必要性もないが、傍に近づいただけでびくびくされては困る。 相手を守ることのできるギリギリの距離というものは存在する。一瞬の判断で、自分の身体を投げ出せる位置にいなければ、ボディガードの意味はないのだ。 ボディガードの役割は、暗殺者を捕まえることではない。暗殺者から身を挺して、要人を守ることである。 マシュウが相手だと、その位置に立つことがままならないのである。 (多分、人間不信なのだ。相手が怖いのだ) 直樹はマシュウを観察してそう思った。彼は直樹だけではなく、誰に対しても、びくびくと必要以上に話しかけることはなく、距離をとろうとしている。 気を許しているのは、母親であるリリィと、アトレーくらいなものであった。 アトレーは一日に一度は、カリヨンを訪れ、何か必要なものはないかなどと、世話を焼いていく。 そしてアトレーは見事に直樹を無視した。まるでボディガードなど、いないかのように。それは直樹にとってはありがたいことなので、不平を言うつもりもなかった。 マシュウは時折、直樹を伺うように見て、直樹が自分を見詰めていることを察すると、はっとして視線を逸らす。 話しかけても返事はなかなか返して貰えず、傍に寄れば、まるで直樹が暗殺者のようにびくびくする。子ども相手のボディガードがはじめての直樹は、本国にマニュアルを送れと、クレームをつけたくなっていた。 このままではどうしようもないと、直樹も焦れ始めていた。 そうしたある日、マシュウはおどおどと直樹に話しかけてきた。 「…………」 最初はまた直樹を怖い者のように盗み見ているだけなのだと思った。それがそわそわと足を動かし、腰を浮かして立とうとしたり、思い直して座ったりしている。 今までにもマシュウは直樹の目を盗んで、何度か抜け出そうとしている。直樹からすれば、マシュウが外の景色を見て浮ついていれば、注意信号だとわかるので、マシュウに逃げられる失敗は犯さずに済んでいたが。 マシュウは何故直樹から逃げ出すことができないのか、不思議で仕方ないようだが、直樹に見つかると素直に戻ってくれるので、さして問題にはしていなかった。 また逃げ出そうとしているのだろうかと、直樹が何と言って止めようか迷っていると、マシュウはごくんと唾を飲み込んで、話しかけてきたのだ。 彼の方から話しかけてくるのは、非常に珍しいことだったので、直樹はなるべくマシュウが怖がらないように、優しい態度を心がけた。 マシュウの身長は直樹の肩くらいまでしかないので、どうしてもマシュウはかなり顎を反らせて見上げなくてはならなくなる。 直樹はこの機会を逃さぬように、少し膝を曲げて、柔らかい表情を作る。 「あの……、海に行きたいのだけど……」 マシュウの声は声変わりしたばかりだと聞いたが、それでも高めで、柔らかく響いてくる。もっと長く話して欲しいと思うほど、心地好い声だった。 「潜られますか?」 直樹の問いに、マシュウは首を横に振った。 「……見に行きたいだけ……」 「では、車の用意をいたしますので」 「あのっ……」 車の手配をしようと携帯電話を取り出した直樹を、マシュウは慌てて止めた。 「……? 何か」 マシュウは直樹を止めたものの、何かを言いかけては口篭もる。そんなことを三度も繰り返しただろうか。 直樹はああと気がついて、口を綻ばせた。 「黙って抜け出したいのですね?」 直樹の言葉に、マシュウは驚いて顔を上げた。青い瞳が大きく見開かれている。 「違うのですか?」 マシュウのピンク色の唇は、何かを言いたそうに、薄く開いている。 直樹が訊くと、マシュウは急いで首を振った。 「…………いいの?」 青く澄んだ瞳に真っ直ぐに見詰められ、直樹は淡く微笑んだ。 「かまいませんよ。今までお引き止めしたのは、王子が一人で抜け出そうとなさったからです。私が一緒でしたら、王子が今まで行かれていたようなところは大丈夫でしょう」 マシュウの青い瞳を見ながら、直樹は懐かしさを感じていた。その直樹の気持ちの懐かしさが、マシュウには今までのきつさが和らいだと感じられたのだろう。マシュウも穏やかな表情になっていく。 「誰にも見つけられず、逃げ出せる道を、王子はご存知なのでしょう?」 海に行きたいと言い、黙って抜け出したいと言えるほどなのなら、きっとその道も知っているのだろうと推理して尋ねると、やはりマシュウは頷いた。 「本当に見に行かれるだけですね? 向こうに着いてから、突然潜るとは言われませんね?」 直樹の確認に、マシュウはまた一つ頷いた。そして縋るような視線を投げかけてくる。 どうしても海に行きたいと、その目は語っていた。 「では、私を案内して下さい」 直樹が言うと、マシュウははじめて見るような明るい笑顔を直樹に見せた。 「こっちだよ」 明るい声に、マシュウが本当に海が好きなのだと知る。 マシュウのあとに続き、直樹はリリィの館の裏から、森を抜けた。城を囲んだ塀は高く、乗り越えられるだろうかと思っていると、マシュウは塀伝いに南に歩き、崩れかけた門に辿りついた。 「鍵がかかっていますね」 「うん……、これ」 マシュウはポケットから小さな鍵を取り出した。 「これは……、どうされたのですか?」 直樹は訝しそうにその鍵を見た。マシュウは今までにも、この門を抜けて海に出ていたのだろう、使い込まれた跡がある。そして門にも。 「お母様に貰った」 直樹が難しそうな顔をしていると、マシュウは不安そうにそんな直樹を見上げる。今更、駄目だと言われたらどうしようと、その表情がありありと語っている。 直樹はここでマシュウの信頼を少しでも得たいと思った。これはそのいい機会だろうという計算も働く。 マシュウの命を狙っている者は城の中にいる。この今は使われていない秘密の出入り口はかえって安全だろうとも思える。 直樹はマシュウから鍵を受け取り、門を開けた。 ギシギシという音のあと、門は思っていたよりも軽く、外に向かって開く。 直樹はまず自分が外に出て、左右を見渡した。 そこは城の周囲とは思えぬほど寂れた通りだった。舗装のされていない道路の向こうには、むき出しの岩場が広がり、その先には青い海が白い波飛沫を上げている。 直樹は城と、城の周囲の地図を思い浮かべ、自分たちのいる道路が、王宮の私有地となっていて、立ち入り禁止区域であることを頭の中で確認する。 道路はぐるりと城を取り囲んでいるのだろうが、右にも左にも、見渡す限り人の姿はなかった。管理用の小屋のようなものもない。 「あの……」 「よろしいですよ。どうぞ」 直樹はマシュウを出してやると、その門を今度は外側からしっかり鍵をかけた。 「鍵は私がお預かりします。よろしいですか?」 直樹の問い、というよりは確認に、マシュウは黙って直樹を見上げてくる。 「また、海に行きたくなったら、開けてくれる?」 「王子が私から離れたり、危険なことをなさらなければね」 直樹が請け負うと、マシュウはホッとしたように、ようやく微笑んだ。 「潜りたくなったら?」 「今日は駄目ですよ」 マシュウの案内で歩きやすい岩場を選びながら、二人は波の打ち寄せる場所まで辿りついた。 城の外に出たためだろうか、それとも海に来たからだろうか、マシュウはよく話しかけてきた。 「今日は……、潜らない……」 とても残念そうに言うマシュウに、直樹は笑みを深くする。 「潜りたい時は出る前に言って下さい。私も潜る用意をしなくてはなりませんから」 さりげなく辺りに怪しい人影がないか、視線を放ちながら、直樹はマシュウの斜めうしろに立つ。 「潜るのに、用意するものなんてあるの?」 不思議そうに尋ねるマシュウに、直樹は笑った。 マシュウは海が好きで、潜るのが得意だと、事前の調査で得た資料に書かれていた。潜るといっても、マシュウのは素潜りだ。 だが、常人では信じられないほどの時間と深さに潜るので、誰もついていくことができないらしい。 直樹自身、海に潜るのは得意だが、書かれていたマシュウの平均的な時間と深さへ、素潜りでついていける自信はなかった。 「ええ、ダイビングスーツと、エアタンクがないと、王子についていけません」 直樹が正直に言うと、マシュウはふーんと気の毒そうな顔をした。マシュウにとっては、海に潜るのは普通の生活と同じことで、道具を用いなければいけないのは、とても不便なことのように思えたのだろう。 「え…と、ス、スギ?」 マシュウがはじめて直樹の名前を呼ぼうとしているのを感じとり、直樹は「杉山です」と助け舟を出した。 「スギアマ?」 「杉山。スギヤマ、です」 「スギャーマ」 どうも濁音のあとが言いにくそうだと気がついて、直樹は呼び方を変えてやる。 「直樹はどうですか? 発音しやすいと思いますが」 「ナオキ」 「はい、何でしょう」 「ナオキは海が好き?」 海と同じ色の瞳に見詰められて、直樹は微笑んで首を上下に動かした。 「ええ、好きです」 直樹の返事に、マシュウは嬉しそうに笑った。白い肌は輝き、金色の髪に太陽が光の輪を作る。 白いブラウスがふわりと風に舞い、マシュウの背中にまるで羽根が生えたように見えた。 天使のような神々しい姿に、直樹は目を細めて見詰める。マシュウがまるで自分を裁く神の使いだと思えた。 すべてに悔い、裁いてもらうために、直樹はこの天使の元へ遣わされた。許してもらおうとは思わない。ただ、その裁きが欲しい。 「王子は私が怖いですか?」 直樹は思わず直裁にそう尋ねてしまった。 マシュウは一瞬驚いた顔をして、すぐに頬に朱を掃き、俯いた。 「……ごめんなさい」 その言葉がすべてを物語っていた。直樹は苦笑を隠さず、マシュウの前に片膝をついた。 「今も私が怖いですか?」 直樹の重ねての問いに、マシュウは黙ったまま首を振り、否定する。 「今は……、怖くない」 マシュウの青い瞳がちらりと直樹を見る。下から見上げる形になると、マシュウの瞳が水色に見えることに、直樹は気がついた。 「よかったです」 笑顔で直樹が言うと、マシュウは首を傾げる。 「王子が私を怖がっていらっしゃると、私は王子を守りにくいのですよ」 直樹のこの言葉の意味にマシュウは気づいていないように見えた。ただ一緒にいる時間が長いために、怖がられるのは困るというように捕らえたのかもしれない。 「ナオキは、優しい」 マシュウが今感じている直樹を教えてもらい、直樹は笑顔で頷いた。 「あなたを守ります。何があっても」 マシュウは自分が危険な立場にいることを自覚しているようには見えなかった。だからこそ、危険なこともあるし、反対に強張らずに生活することもできたのだろう。 マシュウの身の周りには、確実に危険が迫っていた。そして、こののち、その危険はマシュウに自覚できるほど、増えていくのだった。 |