カタンと机の上に置かれた黒く光る塊を見て、杉山直樹は唇をほんの僅か、見た目にはわからない程度に引き結んだ。 (これを受けとっては駄目だ) 心の中で、今も疼く傷が訴える。 けれど直樹は机の上の『それ』に手を伸ばした。 (…………、すまない……、俺は……) 目の前の人物に悟られないように、直樹は密かに詫びの言葉を、身中に落とす。 目を閉じて懐に入れた。 背筋を伸ばすと、凛とした空気が直樹を包む。 「頼むよ」 柔和な顔つきと、優雅な物腰。だが、その中で紺碧の瞳は、依頼の言葉とは反対に厳しい光を放っている。 空軍の軍服の衿に光る階級章と胸の勲章が威圧感を放つ。 その階級に相応しくない若さは、彼の身分の高さと反比例している。母親譲りの黒髪が、司令官のコンプレックスであり、それ故に同じ黒髪の直樹に目をかけてくれた。 「はい」 直樹は深く九〇度の礼をして、回れ右をする。 司令官が自分を引き止めてくれたのは、この仕事があったからではないだろう。彼自身の後ろめたさによるものだ。 直樹も彼から離れたかった。これが最後の仕事になると、直樹も覚悟を決めていた。 再びこの部屋に戻ることはないだろうと、それはわかっていた。 元より、戻るつもりも、直樹にはなかった。 飛行機のタラップに足をかけると、湿った空気が直樹の胸元を駆け抜けていった。 風に潮の薫りが混じっている。それは不快なものではなかった。むしろ彼にとっては、郷愁を断ち切るに相応しい、一歩になるだろうと予感させてくれる。 「お疲れ様でした」 スチュワーデスは離陸した時からこっそり目をつけていた乗客との別れを、にこやかな笑顔で見送る。 二十代後半で日本人には珍しいほどの長身。端整な顔つきはモデルか俳優かと思うほどで、身体つきも細いのだが、何かスポーツで鍛えているとわかるほど引きしまっているのは、上品なサマースーツの上からでもわかった。 スチュワーデスの秋波には気づかぬふりで、直樹は階段を下りる。 一歩毎に戻れない自分を感じ、そしてそれは思っていたよりも簡単で、直樹は重い枷を外すように、身が軽くなるのを実感してもいた。 だが、それは僅かな感傷に過ぎなかった。 空港のターミナルに入ると、直樹は三人の人間に囲まれた。 「杉山直樹さん、ですね」 東洋系の顔だちだが、日本人と違うのは、誰もが皆、日に焼けた褐色の肌をしていることだろう。 隙のない身のこなしに、三人がただものでないことは直樹にもよくわかった。 「そうです」 迎えに来た三人にも、直樹の所作に鋭い何かを感じたのだろう。空港の彼らの周りにだけ、緊張が漲る。 「こちらです。どうぞ」 三人の中央、一番背も高く、浅黒い肌と、立派な髭を持つ男がリーダーなのだろう。百八十を越える直樹の身長よりもまだ、男は背が高かった。 彼以外の者は、ぎょろりと目を動かすだけで、口を開こうともしない。もちろん、自己紹介などするつもりもないのだろう。 男が先に立って歩き始め、直樹は仕方なくそのあとをついて行く。すると、残りの二人が直樹の両脇を固めるように歩く。 (これではまるで犯罪者だな) 直樹は皮肉気に唇を歪めると、髭の男のあとに黙ったまま続いた。 今更戻れることなど、直樹にはできないのだから。 空港のターミナルビルに横付けされた黒塗りの車に、直樹たちは乗りこんだ。 空港だけを見ていた時はわからなかったが、車が街の中を走り始めると、異国にやって来たのだと、そう思わずにはいられなくなる。 空港は近代的で、日本のそれとたいして変わりはなく、アジア系でも日本人に近い容貌を持つこの国の人々が溢れている中にいると、飛行機を下りる時に感じたノスタルジーさえも忘れそうになっていた。 空港とその周りに立ち並ぶホテルやオフィスビルの建物の一群を抜けると、街の中は空港の近代化が嘘のように、時代にとり残された光景が広がっていた。 貧しさを隠しきれない家々の軒先が並び、荒地が寒々しい地肌を晒している。申し訳程度の畑には、薄い緑の細い茎が伸びているが、豊かな実りは得られそうには見えなかった。 海に囲まれたこの小さな島国は、塩の影響が強いせいか、畑の作物が育ち難いと、聞いたことがあるのを直樹は思い出す。 家々を押しのけるように貫く道路だけは舗装が行き届き、中央の白い線が眩しいほどで、余計に両脇の家や耕地をみすぼらしく見せている。 けれど、直樹は長閑で牧歌的な風景を見ても、特に感慨はわかなかった。 (これでいいんだ、俺は) 何もかも諦めてここに来たのだから。何もかも捨ててここに来たのだから。 苦い笑みも、押し寄せるような後悔も今は遠かった。 日本からほぼ垂直の南に位置し、赤道に近いアジアの南端の、地図にも載らない小さな島国であるカルナダリア王国。 今直樹はその王国にやってきていた。 人口が僅か一万に満たないこの国は、貧しいながらも『海』という資源に恵まれていた。 良質の真珠と、治安の良さ、何よりも澄んだ海が、観光客を運んできてくれる。 カルナダリア王国は、文字通り、王によって統治されている。現王はギルという人物で、穏やかな人柄で慕われているという。 王の人柄同様、穏やかな人々の暮らし。そう思ってみれば、貧しいからといって、悲観的には見えない。町で見かける人々の顔にも、幸せな表情が浮かんでいる。 (俺だけ……、ということか) 直樹は唇を歪めるようにして自嘲の笑みを隠し、目蓋を閉じて、平和な風景を遮断した。 やがて三十分も走っただろうか。いつの間にか周りは草原ばかりが目に映るようになっていたが、立派過ぎる道路の正面に、白く大きな建物が見えてきた。 そこだけは緑が一段と濃く、白い建物を守るように生い茂っている。 球形の屋根と、青いガラス、建物の外観がわかるようになってくると、それが『宮殿』であると見て取れた。 道路の正面には高い金属性の門が見えてくる。両脇には武装した兵士が立っていた。 車がゆっくり門の前に止まると、両脇の兵士は背筋を伸ばし、硬直するように敬礼をした。 門が静かに開き、再び車は滑り出す。 背後で門の閉まる音がした。 (もう、戻れない……) 直樹は目を閉じる。 (戻るつもりもないが……) 振り切るものは既にこの手に残っていない。 直樹が目を開けると、車は宮殿の右翼の扉に横付けされたところだった。 出迎える人の影はなかった。つまり、この三人とはまだ離れられないということだ。 直樹は特に失望することもなく、そんなものだろうと諦め、彼らに続いて車を下りた。 宮殿の奥深く、何度も廊下を曲がって直樹が通されたのは、おそらく、王室の私室に近い部分だろうと思われた。 兵士の姿は見えず、使用人さえも行き合わず、静か過ぎる廊下の奥、突き当たりの部屋に直樹は通された。 直樹が入ると、男たちは入ってきた向かいのドアをノックした。 すると、ドアは向こうから押し開けられ、二人の人物が入ってきた。 一人は三十代半ばの美しい女性。もう一人は彼女よりいくらか若い男性。身なりからして、王族の誰かであることは間違いがなかった。 「彼が杉山直樹です」 自分が紹介され、直樹は深く一礼する。 「話は伺っています。よろしくお願いいたしますね」 「はい」 直樹は顔を上げ、真っ直ぐにその美しい女性を見た。 「では、案内いたします。バドールたちは下がってよろしいわ」 「お待ち下さい。リリィ」 彼女、リリィの呼び方で、直樹を迎えここまで案内したのが、バドールという名前であることはわかった。 「何でしょう、アトレー」 直樹はカルナダリアに来る前に、この国に関して得られるだけの知識を頭の中に詰め込んできていた。その知識を頭の中で紐解く。 リリィというのは現王の妹で、アトレーというのは王の次男だ。 リリィは腰を越す長く美しい黒髪に黒い瞳で、痩身に纏った薄い黄色のドレスがよく似合っていた。 アトレーは直樹よりも小柄で、緩い巻き毛はやはり黒髪で、黒い瞳をしている。仕立てのいいスーツを着ていた。 「バドールたちを下がらせるのは……」 そこまで言って、アトレーは言葉を濁す。きっと直樹の素性を信用していないのだろう。 バドールたちを下がらせたあと、直樹が何か危険な真似をした場合の心配をしていることがよくわかった。 そんなアトレーの心配を、リリィは軽やかな笑い声と共に押し流した。 「彼はきちんとした身分証明書を持っていましたでしょう? その彼を信用しないということは、その身分証明書を発行した国を信用しないということだわ。そうではなくて?」 リリィの指摘に、アトレーはむっつりと黙りこんだ。俯き加減で悔しそうに、直樹を横目で睨む。そんな幼い仕草に、直樹は不思議な気がした。 アトレーには兄、つまりこの国の皇太子がいるのだが、その兄であるニコルは、対外的にも既に父王の政務を手伝っており、王の人柄とは反対に厳しいことで有名だった。 その弟にしては……、というのがアトレーに対する正直な第一印象であった。 直樹はアトレーの視線に気づかないふりで通し、リリィに促され、彼女たちが入ってきたドアを潜った。 職業柄、こうしたごたごたには、悲しいことに慣れてしまっている。 ドアの向こうは廊下か別の部屋に続くと思っていたのだが、それは驚いたことに中庭のバルコニーに続いていた。 中庭の真ん中を突っ切るように進むと、小さな建物が木々の間に見えた。 「こちらが私たち親子二人の家ですわ」 まるで小さな森の中に立つ、童話の中に出てくるような可愛らしい家だった。三角や球形の屋根ではなく、平たい箱のような造りで、白い宮殿と同じように外壁は白く、窓はステンドグラスが嵌め込まれている。 日本で言えば、喫茶店か、小さなペンションのようで、若い女性が喜びそうな家だった。 彼女は微笑み、数段ある石段を昇り、ドアを開けた。 「どうぞ、入って下さい」 そこは小さなホールになっていた。二階まで吹き抜けで、大きめの天窓があり、明るいサンルームのようでもあった。 ホールの両脇に階段があり、それぞれ、一つずつしか扉は見えない。見た限りでは、二階は二つの居住区に分かれているようだった。 「マシュウ、マシュウ?」 リリィはホールの中央に立ち、息子を呼んだ。 「マシュウ、いるのでしょう?」 カタンと音が鳴り、ホール正面右側の扉が開いた。 そこから小さな影が一つ、覗く。 その姿を認め、直樹は瞬間、息を飲んだ。 冷静でいるつもりが、ほんの一瞬、動揺を押し隠せなかった。 彼のことは事前に聞かされていた。写真こそ見ていなかったが、知っているはずだった。 マシュウと呼ばれた少年は、およそこの国の誰とも違う容貌を持っていた。 リリィも、ニコルも、バドールたちも、いや空港で行き合わせた人たちも、みんな直樹と変わらぬ、東洋系の顔だちをしていた。 黒い髪と黒い瞳。直樹と彼らが違うとすれば、日に焼けた肌を持つか持たないかという程度の差でしかなかった。 だが……。マシュウの肌は透き通るように白く、そして髪は金の光りを弾く、太陽の色をしていた。何より違うのは、海のような青い瞳。 それが光の加減なのか、直樹を見下ろしている今は、水色に見えた。 「驚かれたかしら。あれが息子のマシュウですわ。あなたに守っていただきたいのは、あの子の命です」 リリィはその美しい顔で微笑み、いい天気ですねというのと変わらぬ口調で、物騒なことをさらりと言った。 直樹は王宮の隠された王子、マシュウのボディガードとして、遥か海の彼方から雇われたのだった。 |