勝也と伊堂寺の試合の日が近づいていた。
 まるで自分のことのように、井原は落ち着かなくなっている。
 勝也に勝って欲しくない。けれど、負けるのは悔しいのだ。そんな複雑な気持ちの中、陸上部の練習もインターハイを目指して、厳しさを増していっていた。
 1年生が出られるのは、学年別の個人種目がほとんどで、リレーなどはどうしても、卒業間近の3年生が主要メンバーになってしまう。
 けれど今年に限っては、2年や1年にも希望が持てるのだ。
 3年のメンバー二人が故障中で、リレーに出ることは困難だと見られている。3年生の他の部員は短距離よりも中距離、長距離が専門で、それなら下級生の短距離の選手から選抜されるのではないかとみられていた。
 もちろん井原も頑張るつもりだった。自信もあった。
 受験で練習期間が短かったというハンデはあったが、それをカバーできる実力があると思っている。
 2年生の今までのタイムを調べてみたが、井原がベストで走れば問題はないと思えた。1年生の中では自分が一番速い。
 リレーのメンバーは大会前に陸上部内で選考会をすることになっている。個人種目に専念するものや、その時の体調などを考慮して、ベストの四人を選ぼうというわけである。
 その選考会の日程を聞いて、井原は「そんなっ」と、八坂に食ってかかった。
「何か都合が悪いのか?」
 八坂の提示した日は、勝也と伊堂寺の勝負の日だったのだ。
「せめて、もう一日遅らせることはできないんですか?」
「バトンの練習などを考えるとベストの日だと思う。早めるならまだしも、遅らせるのは良くないな。いつもより遅いくらいなんだ。顧問がこの日にしろと言ってきてな。これ以上は一日も遅らせることはできない」
 決定事項だと、八坂は冷たかった。
 理由はわかったが、どうにかならないものかと、井原はイライラとした様子で考え始める。
「もしかして、三池の試合を見に行きたいのか? なら、井原は選考会、欠席になるぞ」
「違います。三池先輩が負けたら……こっちの選考会に出てくれないかと」
 リレーのメンバーに選ばれたい。それは勝也と一緒にという大前提があるのだ。それが叶うのは、インターハイしかない。2年という年の差が恨めしい。
 1年の差であったのならば、去年のうちに、剣道部など辞めさせたのに。
「そりゃあ、俺も三池を走らせてみたいけれど、こればっかりは本人がその気にならないとな。それに、あいつ、短距離の練習はしていないから」
「大丈夫ですよ。今だって、剣道部には入っているんだし。三池先輩の走り見たら、みんなだって、絶対納得するんだ」
 選考会に出てさえくれれば。井原はその説得をしようと、決意を固めた。

 単刀直入にお願いしてみよう。
 それが一晩考えた末に、井原が決めた手段だった。
 勝也に憧れていた。あんなにかっこよくなりたいと、ずっと思ってきた。
 だから下手な小細工が勝也に通じないことは、ちゃんと知っている。
 剣道の試合に負けたら……本当はどんな勝負にだって負けて欲しくないのだが……負けたら、陸上部の選考会に出てくださいと、真正面からぶつかってみようと決めたのだ。
 授業が終わってから、3年生の教室に向かう。急いで行ったつもりだったが、勝也のクラスは既にバラバラと帰り始めていた。
「あの、三池先輩は……」
「んー? 三池? ……ヨウ先生、三池、もう帰っちゃった?」
 井原が尋ねた先輩は、教室の中をさらっと見回して、まだ教室に残っていた担任に質問を預けた。
「一番先に飛び出したよ……あれ? 君は、陸上部の新人君」
 ドアのところにいる井原に気づいて、陽が近づいてきた。
「今日は用事があると急いでいたから、あの調子だともう学校も出たんじゃないかな?」
 あまりに年が上過ぎて気づき難いが、目の前に立たれて、優しい笑顔を向けられると、この担任がとても綺麗なのだとわかる。
「ヨウ先生、俺たちに話すのと、口調が違う。すげー優しいじゃんか」
 井原が尋ねた生徒が、からかうように不満を口にする。
「そりゃあ1年生には優しいさ。みんなもこの子みたいに可愛ければなぁ」
 陽が笑うと、さらにその生徒は苦情を重ねた。
「俺が1年の時から冷たかったですー。納得できねー。お前さ、この先生は優しそうに見えるけど、結構クールで厳しいよー。良かったな、学年担当じゃなくて」
 冗談と本気を混ぜて言う生徒の肩を陽は拳でついた。
「下級生を脅すんじゃない」
「いてー。体罰はんたーい」
 大袈裟に痛がりながら、彼は教室の中に戻っていく。同級生たちに、さらにからかわれながら。
「何か用事かな? 伝えておこうか?」
「剣道部の人には言えません!」
 井原が睨むように言ったので、陽はとても驚いたようだった。
「あ、あぁ、そうか。そう……だよな。じゃあ、君が探していたことは、明日にでも言っておくから」
 本当は今日のうちに教えてやることになるが、それは具体的には言えない。
「いいです。……あの……先生にお聞きしてもいいですか?」
「何?」
「三池先輩が剣道部に入ったきっかけです。先輩は自分の意思で入ったように言ってましたけど、最初から剣道部だったんでしょうか」
 剣道部の顧問を相手に、緊張しながら、ずっと疑問に思っていたことを訊いた。わざわざ高校の剣道部に入ったわけがわからないのだ。
 続けたいのなら、今まで通りの道場でよかったはずだ。
 冬芽のことがあるからというが、それで3年まで続くとは、思えなかった。
 昨日、この教師と歩いていたときの勝也の表情を思い出す。
 この先生なら、勝也の心のひだもわかるのではないかと思ったのだ。
「あぁ、その事なら、彼は1年の時から学級委員をしてくれていて、私の用事を頼んだときに雑談をしていたんだ。その時に剣道部のメンバーが足りなくてと愚痴をこぼしたら、経験者だから入ってもいいって言ってくれたんだ。どこの部にも入っていなかったから、渡に船で頼んだんだけれど」
「そ……そんな、簡単に……」
 聞きたがったこととはいえ、あまりに単純な理由に、身体の力が抜けてしまうように思えた。
「じゃあ、朝比奈先輩とは何も?」
 それを尋ねると、目の前の教師は苦笑した。
「個人的な理由は知らないが、きっかけといえば、それだけだと思うが……」
 井原がショックを受けているのがわかるからか、陽は気の毒そうにぽんぽんと肩を叩いた。
「君の気持ちもわからなくもないが、うちにとっても大切な戦力なんだ。君も陸上部で頑張りなさい」
 ぎゅっと唇を固く閉じて、井原はくるりと背中を向けて駆け出した。
 その背中を見送って、「勝也の奴……」と、陽は溜め息をついた。

 結局勝也を捕まえることもできず、説得もできず、陸上部の部内選考会の日になってしまった。せめてもと、選考会に出てくださいとメールだけは打ったのだが、それに対する返事はなかった。
 剣道部の試合のことは気になるが、何とか選考会を勝ち残って、勝也の起用に繋げたいと考えていた。
 準備体操をし、ストレッチをこなし、アップと続けて身体を暖める。
 部内の選考会とはいえ、緊張は高まっていた。
 走るメンバーを点呼している時、待ってくださいと割り込む声がした。
「三池先輩!」
 聞き覚えのある声に、井原は喜んで振り返った。
 そしてトラックの端に勝也の姿を見つけて、全開の笑顔になる。
「その選考会、出させてもらいたいんですけれど」
 勝也は物怖じすることもなく、堂々とメンバーの前で宣言したのだった。