「待って下さい。その選考会、出させてもらいたいんですけれど」
「三池先輩!」
 聞き覚えのある声に、井原は喜んで振り返る。そこに勝也の姿を認めて、喜びに顔が輝く。
 勝也が選考会に出てくれるというのも嬉しかったが、今の時間にここにいるという事実も嬉しかったのだ。今、ここにいるということは、勝也は剣道部での伊堂寺との試合を放棄してきたということになる。
 何より、勝也は剣道着を着ていなかった。体操服でもない、制服姿だが、選考会に出られるとわかったら着替えてくれると信じていた。
「三池先輩、出てくれるんですね?!」
 井原は喜び勇んで勝也の元へと駆け寄った。そこでようやく、勝也の側に二人の生徒がいることに気がついた。二人には見覚えがなかったが、そのユニフォームを見て、井原は笑顔を消した。
 勝也は綺麗に井原を無視して、そのまま顧問と八坂の方へと歩いていく。
 その場に残された井原は、二人の先輩に黙ったまま見つめられて、決まり悪げに視線を外した。
「二人とも医者からの許可は取れました」
 勝也はそう言って、制服のポケットから茶色の事務封筒を取り出し、顧問へと手渡した。表書きには高校の名前、陸上部の顧問の名前が流麗な文字で書かれている。
 しっかりと封印されたその封筒を開け、顧問は中の書類を取り出した。
 診断書と書かれた用紙が2枚。一枚一枚に生徒の名前が記されており、昨日までの日付で治療が必要な旨が書かれており、そのあとに本日付で運動に関しての許可も明記されていた。
「よし。じゃあ近藤と有田、二人ともアップしろ。選考会は二人の準備ができる30分後に始める」
 顧問に呼ばれた二人は、同じ3年生たちに歓迎されながら、仲間の輪に入り、柔軟体操を始めた。
「ま、待って下さい。三池先輩は……選考会に出てくれるんじゃないんですか?」
 井原は顧問と話している勝也を縋るように見つめた。
「俺は陸上部員じゃない」
「でも、もう、剣道部員じゃないんですよね」
 そう叫んだ井原に勝也ははじめて視線を移した。
 冷たい刺すような視線が、井原に突き刺さる。
「俺は1年生の時からずっと剣道部員だ」
「でも、今日は、試合をするはずだったんでしょう! それを放棄してきたんでしょう! 負けたら剣道部を辞めるって!」
 井原の自棄になったような突っかかりに、勝也は冷笑を返した。
「俺が自分から試合をするなんて、一度も言ってないが?」
「え……」
 何を言われたのかわからないように、井原は不安な目つきで勝也の冷たい眼差しを見返した。
「勘違いをするのは勝手だが、俺は純粋に剣道がやりたくて剣道部に入っている。部員の誰も関係ない」
「で、でも。朝比奈先輩に告白したって……」
 くっと勝也は笑う。
「男が男に? 本気のわけがないだろう?」
「……でも」
 井原は泣き出しそうになった。
「インターハイに俺と一緒に出られるというお前のあまりの自信が俺には不思議で仕方なかった。、ちょっと調べてみたら、近藤と有田が故障していた。その代わりに、すぐにも自分が出られると思い込んでいるとわかった。お前にわかるか? 3年の陸上部員が、そのためにどれだけの練習をこなしてきたか。お前は自分のことしか考えていない。大きな目標を前に、故障して苦しんでいる人間がいることがわからないお前が、俺にはどうしようもない子供に見えた」
 だけど、俺だって、頑張ってきたんだ……。
 その言葉は出てこなかった。誰の上にも、同じ2年という月日が流れているという当たり前の事を、考えることができなかった。
「俺は言ったよな? 自分自身の努力をしろと。俺はお前にちゃんと忠告をした。彼らは努力した。辛い治療とリハビリをこなし、その間にできるトレーニングをして筋力の低下を防いだ。自分のベストで大会に出るために。そんな彼らに、井原は正々堂々と勝負できるのか?」
 勝也は井原から近藤たちに視線を流した。近藤と有田は柔軟を終えて、緩やかにトラックを流して走っている。しなやかな足の筋肉が、力強く大地を蹴っていく。
「ずっと……あの人たちのトレーニングに付き合っていたんですか?」
 俺にはメールの返事さえくれなかったのに……。
「医者とスポーツトレーナーを紹介しただけだ。高校の最後の大会に出たいと思う気持ちを、俺は応援したいと思った。そこからの努力は彼らのものだ。俺は何もしていない」
 自分に向けられる冷たい視線と、彼らに向けられる優しい視線。
 そのどちらも勝也のものに間違いはないのに。井原は今、勝也を一番遠くに感じていた。
「……先輩は、……走らないんですか?」
「彼らの走りを見て、それでも俺に走れと言えるのか? 風は彼らの背中を押している」
 勝也はそれだけを言うと、くるりと背中を向けた。
「結果を……見ていかないんですか!?」
「結果が全てじゃない。だけど、あいつらの努力を知っている。だから、信じられるんだ。お前は、自分を信じられるか?」
 勝也はやはり冷たい視線だけを残して、校舎へと去っていく。
 入り口付近で勝也を待つ人影が見えた。それは冬芽かと思ったが、すぐに違うとわかった。そう、あの教師のほうだ。
 教師は何かを告げて、勝也は頭に手をやった。気まずそうに頭を掻くその背中を、教師がぽんぽんと叩く。そして二人の影は校舎の中へと消えていった。

「あの一年生、結局どうなったんだ?」
 火照ったままの身体にシーツを巻きつけて、横でうつ伏せになっている勝也の肩をつついた。
「さぁ……」
「さぁって、本当に冷たい奴だなぁ」
「俺は努力もせずにものを欲しがる奴は嫌いなだけ。望めば得られると思っている態度も見てられなかったな」
「だったら、ちゃんとそう説明してやればいいだろう?」
「抱き合った後に教師的発言は無し」
 勝也は笑いながら仰向けになり、腕を伸ばして陽を抱き寄せた。
「あいつは説明してもわかんないよ。自分の気持ちだけで突っ走ってたから」
 だから単なる噂で、勝也の想い人が冬芽などと思い込めるのである。
「冬芽を利用したことは怒ってるんだからな」
 額に寄せられた勝也の顎をぐいっと押しのける。
「いてて……。利用なんてしてないって。向こうが勘違いしてるから、面白いなぁと思って」
 あのまま突っ走って陽の元へ井原が乗り込むことが怖かった。生徒同士なら単なる遊びの延長で済む話も、教師が相手となると問題は一気に深刻になる事を勝也は知っている。
 陽を守るためなら、他のどんなことも眉一つ動かさずに利用できる。けれどそんな自分を知られたくない。
 勝也は笑って陽を抱きしめた。
 胸の小さな飾りに伸びようとする手を陽は掴んで押し止める。
「もう疲れたって」
「俺はまだ……」
 口接けてなし崩しにしようとする勝也に、陽はトドメを刺す。
「お前さ、中学の時、年上の美人と付き合ってたんだって? 秋良さん一筋じゃなかったんだな」
 勝也はぎくりと身体を硬くして、「ヨウ〜〜〜〜〜」と情けない声を出して愛する人を抱きしめた。

おわり