陸上部の練習に参加を始めてから三日目。高校受験のために引退してからほとんど運動をしていなかったことと、高校のクラブの練習のハードさに、井原の身体は悲鳴をあげていた。
 ほとんど全身が筋肉痛という状態で、歩く姿勢さえヨロヨロとしたものになりそうだった。
 特に太腿とふくらはぎの痛みはすさまじく、階段から下りるのが一番痛みが激しい。これを乗り越えれば、短距離の選手として理想的な脚になる。それを目標に耐えるしかなかった。
 可能な限り、階段の上り下りは避けたいところだったが、ノートを数学の教師に届けなければ、点数を引かれてしまう。
 昨日の練習もハードで、家に帰ると夕食を食べてすぐに眠ってしまった。数学の課題があると思いながらも、少しだけのつもりでベッドに横になったらもう朝だったのだ。
 登校してから、休み時間を利用しながら、必死で仕上げた。昼休み中に届けなければ減点になってしまう。
 三階から二階へと階段を下りている途中で溜め息をつき、イタタと身体を伸ばす。
 とても高校生のとる姿勢ではなかったが、それも仕方ないと自分を励ました。
 二階に降りて一番奥が数学科の教員室だった。
 まだ校舎の全体図は覚えていないのだが、その場所だけは朝、しっかり確かめてきた。
 ようやく二階へ辿りつき、廊下を曲がると、教員室が並ぶその廊下はしんと静まり返っていた。
 どこにいても学生の元気な声で賑やかな学校の昼休みという光景の中で、ここだけは別の場所であるように感じられた。
 教員室をノックすると、ガラリと扉が開いた。どの教師が出てくるかと心配だったが、幸運なことに井原の担当の教師が出てきてくれて、ノートを直接手渡すことができた。
「今度からはちゃんとやってくるように」
「はい、すみませんでした」
 軽い注意を受けて、自分の教室へと引き返す。早く戻らないと、お弁当を食いはぐれてしまいそうだった。
 階段を上るのは、下りる時ほど苦痛ではなかったが、それでもどうしてもゆっくりになる。
 そのゆっくりの足さえ止まった。下から声が聞こえたのだ。声に聞き覚えがあった。
 ひょいと階段の手すりから身を乗り出して、下を覗き込んだ。
 どうやら、一階から二階へと上ってくるようで、まだ姿は見えない。
「だから、メールは苦手なんだって言ってるだろ」
「メールだと余計に教師口調になってるよ」
「教師なんだから」
「俺は学級通信を読んでいる気分になる」
「学級通信! 懐かしい響きだな」
 楽しそうな会話の一方の声を知っている。
 やがて、階段を上ってきた二人の姿が視界へと入ってきた。
 中学生の時から大人っぽいと思っていた上級生は、自分が追いつく間もなく、ますます差を広げるように大人びていた。
 背丈はさらに高くなり、容姿も精悍さを増していた。
 今や学校の憧れの先輩として、一番名前をあげられる人だった。
 必死で追いかけてこの高校へと入ってきた。新入生の中では自分が彼に一番近い、そう思ってきたが、距離感は日毎に開いていくばかりに感じられた。
 勝也の隣に立って歩いているのは、確か勝也の担任教師だったと思い出す。
 担任教師で、剣道部の顧問。まだ教師になったばかりだと思えるくらいの若さで、教師にしておくにはもったないほど綺麗な人だった。
 二人で楽しそうに話しながら、廊下を曲がっていく。井原は慌てて階段をおりて、角から廊下をそっとのぞき見た。
「今度からメールのタイトルは学級通信にしようかな」
「サブジェクトなんて、打てるの?」
「お前、今、バカにしたな?」
 教師が勝也の頭をコツンと軽く叩いた。
 勝也は大袈裟に痛がって、教師に覆い被さるようにふざけあっている。
 そしてすぐに、二人で数学科の教員室へと入っていった。
 井原は信じられない光景を見たように、呆然と廊下に立ち竦んでいた。
 いつも冷めていて、二歳の年の差がとてつもなく大きいと感じさせていた先輩。あんな風にふざけあったり、じゃれあったりすることのなかった人。同級生たちが騒ぐのも、離れた場所から見ているだけで、常にクールでいた人。
 笑顔でさえ、作っているように思えていた。
 それがあんな風に全開で笑っているなんて……。井原はわけがわからないと首を傾げる。
 担任で顧問なら親しいのは当たり前だろうが、あそこまで勝也が打ち解けるなんて、不思議で仕方ない。
 教室に戻って剣道部の顧問を知っているかと何人かに尋ねたが、まだ自分たちの身の回りのことで精一杯の一年生たちは皆、一様に首を横に振る。
 それでクラブのときにストレッチの相手をしてもらいながら、八坂に尋ねた。
「あぁ、ヨウ先生だろう? 数学の先生だ。三池は三年間、担任に当たってる」
「ヨウ先生?」
「みんなそう呼んでる。朝比奈ヨウ」
「朝比奈? あの先輩と同じ苗字だ」
「あぁ、朝比奈冬芽。似たような美人だし、剣道もやってるし、親戚かもな」
 一方は大人で物静かなタイプ、一方は口を開ければ罵詈雑言のオンパレードのまさしく子供。だが、同じように真面目に並べてみれば、確かに二人共に綺麗で、似ている……。
「だから三池先輩はその先生と仲良くしてるとか?」
 ぐっと背中を伸ばすと、身体は痛みを訴えながらも、とても気持ちよかった。イタ気持ちいいというやつである。
「さー。そんなことしても、あんま意味ないように思うけどな。俺ならそんなことをしている時間があるなら、朝比奈の方に自己アピールする。ま、それが一番手こずる相手だけどさ、朝比奈は」
「そうなんですか?」
「そうなんだよ。はちゃめちゃに見えて、あいつ強いしさ、相手に容赦もしねーし。男子校だからか、それなりに可愛い系はその手の誘いも多いけれど、あの性格と強さで、尽く撥ね退けてるってよ。しかもべったり伊堂寺がいるから、手段を選ばない相手でも近づけない」
 いわれてみれば井原が冬芽を見かけるときも、いつも伊堂寺が一緒にいる。
「二人が付き合ってるってことは……っていうか、三池先輩の入る余地なんてないんじゃ?」
「これが三池じゃなければ、噂にもならなかっただろうな。三池が割り込み宣言したのなら、もしかしたらって、誰もが思う」
 八坂の説明にも説得力はあった。
 けれど、伊原は昼休みに見た勝也の笑顔が忘れられなかった。