朝比奈冬芽をかけて、三池勝也が伊堂寺春と勝負する。
 それを聞かされた井原はむっとしたまま陸上部へと足を向けた。
「井原、入部する気になってくれたか?」
 八坂が駆け寄ってくるのに、井原はハイと力なく頷いて、ずっと以前から持ち続けている入部届けを差し出した。
「そうか、良かった。お前、今日から参加するか? 大歓迎だぞ」
 八坂に言われて、伊原はグランドを見渡した。グランドの西の端を利用して、陸上部が練習をしているのが目に見えた。
「八坂先輩、三池先輩が勝つと思いますか?」
 当然耳に入っているだろう噂について、井原は尋ねてみた。勝也が剣道をしていたことは知っているが、実際にそれを見たことはなかった。そして伊堂寺という先輩については、何も知らないに等しい。
「三池は勝てねーだろう。あのクラブの3年生の強さを比べたら、朝比奈、伊堂寺、三池っていうあいうえお順になるって言われてるからな」
「あの小さい人が一番強いんですか?!」
 一番予想していなかった答えに、井原は目を丸くして驚いた。
「小さいって言うなよ。お前、たいがい悪態ついてるんだから、今度朝比奈を見たら回れ右して逃げろよ。あいつは顔に似合わず、怒ったらものすげーんだから」
 それについては異議はない。
 一年生の間でも、そろそろ三年生の有名な先輩たちのことは色々と騒がれ始めていた。
 勝也はクールな生徒会長として最初から人気があった。そして次に人気があるのか、不思議なことにあの朝比奈という剣道部の主将である。黙っていれば可憐な花、怒らせれば大地を揺るがす雷(いかずち)。その激雷を止められるのが幼馴染の伊堂寺一人だけというのである。
 ならば勝也に勝ち目はないだろう。
「それでも三池先輩は、あの人がいいんだ」
 自分はそういった目で勝也を見たことはないし、勝也が例え男を好きだと言っても今の尊敬の気持ちに揺るぎはないと思っていたのだが、いざそれを突きつけられると、大きく心が騒いだ。
「どっちにしろ、三池は勝てねーだろう。あいつが負けたら剣道部を辞めるんだろう? そうしたら俺も勧誘にいくし、お前も頑張ってこっちの練習しろよ」
 ぽんと肩を叩かれて励まされるが、井原はまだぼんやりと勝也のことを考えていた。
 本当に、彼は、あの人が好きなんだろうか……。

「もういい加減にしろよ」
 イライラとひっきりなしに携帯で電話をかけ続ける冬芽に、春はやんわりと辞めるように、ボタンを隠すように手を置いた。
「煩いなっ。お前とは絶交したんだよっ!」
 小学生かと突っ込みたくなるが、今の冬芽にそれを言えば、火に油を注ぐようなものなので、はあと息を吐いて無言でやり過ごす。
 もちろん、そんな春の態度もお気に召すわけがない。
「どうして三池は出ねーんだよっ!」
「俺に訊かれても」
 わからないと春は首を横に振る。大体、絶交しているんじゃないのかと、もちろんこれも口にはしない。
「ちくしょー!」
 冬芽のイライラはおさまらない。ずっと勝也に電話をかけ続けているが、いっこうに繋がらないのである。
「俺のこと好きなんだろう? だったら出ろよ!」
 まったく無茶な理論であるが、それも無言で聞き流す。
「何してやがんだよっ!」
「秘密の特訓なんじゃないか? ほら、あいつは元々家の近くの道場に行ってたんだし」
 しらっと答える春に、とうとう冬芽の怒りの矛先は、目の前の人物に向けられる。
「何で賭けなんかするんだよっ!」
「俺は負けない」
「勝つとか負けるとかじゃねーだろっ! だいたい、あいつはヨウちゃ…!!」
 陽の名前を出しかけた冬芽の口を春が慌てて押さえる。
「何すんだよっ!」
「これは、俺と三池の問題だから。いいな。ヨウ兄ちゃんには何も言うな」
 久しぶりに春が陽のことを「ヨウ兄ちゃん」と呼んだ。高校生になってからは、必要以上に気を配り、家でも「ヨウ先生」と言っていた春が、そう呼んだことで、冬芽は胸の中にジリジリと焦燥感が溢れてくる。
 自分は春を好きだし、春も自分を好きでいてくれる。それはわかっているつもりだ。だからこそ、春に対してもこんな風に思うがままに我が侭を言えるのである。
 けれど、兄のことももちろん好きだった。忙しい母親に代わって年の離れた弟の面倒をみてくれた陽。母親より好きかと聞かれたら、迷わずに大きく頷ける。春より好きかと聞かれたら……迷いながらも、うんと頷いてしまいそうである。
 その兄は三池勝也という、自分と同じ年の男を好きなのだ。きっと陽は、勝也と冬芽のどちらを好きと訊いたら、勝也というのではないかという心配をしていた。だから、冬芽は勝也が嫌いだった。
 あんな頼りなくて、人騒がせな一年生に言われるまでもなく、自分は勝也が嫌いなのだ。春がいなくても、勝也など大っ嫌いと胸を張って言える。
 言えるのに、誰も聞いてくれない。
 そして、もしも、もしも、勝也が春に勝ってしまったりしたら……、心配なのは自分のこれからではなく、陽が傷つかないかということなのだ。
「三池の馬鹿野郎。ぜってーゆるさねー」
 ポツリとこぼすと、春の手が優しく髪を撫でてくれた。

 家の中は静かだった。
 これは嵐が吹き荒れた後か? と恐る恐る足を踏み入れると、リビングの中央に冬芽が仁王立ちに立っていた。
「な、何してるんだ?」
 もしかしたらこれから最大級の竜巻か? とびくっとなるが、冬芽はつんと上を向いて泣き出しそうな声で言った。
「俺、三池のこと、大っ嫌いだから!」
 その宣言に陽はハハハと苦笑してしまった。
「何笑ってんだよ、ヨウちゃんは!」
「ありがとうな、冬芽」
 陽は冬芽に歩み寄り、その小さなふわふわの頭を撫でようと手を伸ばした。
「俺は子供じゃねーっての!」
 パシンとその手をはたかれる。
「春は勝つよ。そんで、春が万が一負けたとしても、その次は俺が三池に勝負を申し込むから! 俺はぜってー負けねー! あいつのこと、再起不能にしてやるっ!」
 ぐっと拳を握り締めて宣言する。
 それが弟の精一杯の思いやりだとわかって、陽は嬉しくなる。
「ヨウちゃん、笑ってる場合? もっと怒れよ! あんな奴、あんな奴! ヨウちゃんの方から捨てちゃえ!」
「そうだな。勝也が本気で春君と勝負したら、その時にはさよならだな」
 陽の言葉に冬芽はあれれと首を傾げる。
「え? 勝負するんだろう?」
「だから、本気で、だよ」
 つまり、三池は本気じゃないんだろうか……。
 ますますわからなくなって、冬芽は愛らしい顔を、難しい物理の公式を目にしたときのように歪めたのだった。

 会いたい人には偶然にでも会えなくて、会いたくない人にはばったりと会ってしまうのが、何とかの法則のようで。
 井原は登校したばかりの学校で、冬芽と顔を合わせてしまった。
 途端にむっとする綺麗な顔に、先輩なのに大人気ないと、自分もむっとしてしまう。
「おい、後輩から挨拶するもんだろう」
「おはようございます!」
 冬芽の挑発に易々と乗ってしまう。
「おはよう」
「ちゃんと勝ってくださいよねっ」
 じろりと冬芽と一緒に登校してきた春までもついでに睨む。
「なんか、あいつに励まされるって、変だよな」
 ずんずんと不機嫌に去っていった後輩を見送りながら、春は苦笑して冬芽に話しかける。
「俺、お前とはゼッコウチュウ」
 一緒に登校しながら絶交中だという冬芽に、春はクスクスと笑う。
 ますますむっとして冬芽は自分の教室へ鞄を置き、勝也の教室へと出向いた。
 昨日からずっとかけ続けている電話に、勝也は出ようともしない。かけ直してくることもない。
 そしてどうしても一目見て、文句を言わずにはいられない。
 けれど教室に勝也の姿は見えなかった。
 確かに登校しているはずなのに、その日から冬芽は勝也を捕まえられなくなっていったのだった。