井原を人目の少ない中庭まで引っ張って行き、勝也はその腕を突き放した。
「いい加減にしろよ」
 低く冷たい声色に井原はヒヤッとしたものを背中に感じる。
「もう一度だけ、はっきり言っておく。俺が剣道部に入ったのは、俺の意思だ。 剣道部を辞めるつもりはない。今後何があっても、他のクラブに入るつもりはな い」
「でもっ」
 それでも何かを言おうと口を開きかけた井原を視線だけで黙らせた。
「それだけだ」
 勝也は怒りを消そうともせずに、井原に背中を向けた。井原はこの前のように、 諦めないという言葉を遠ざかる背中にぶつけることはできなかった。
 しばらくその場所から動くこともできずにいた。じわりじわりと恐怖に似た感 情が井原の足が動こうとするのを止めているように感じる。
 以前から、三池という先輩は冷たい気配を漂わせていた。親しい友人はいるよ うだったが、同級生たちを一段離れたところからみているようなところがあった。
 陸上部の先輩たちでさえ、勝也のことは別格に考えているような感じだった。
 後輩たちはそんな勝也に近寄りがたいと思い、遠巻きに見ているだけだった。
 井原も最初は勝也のことを苦手に感じていた。無口だし、あまり笑うこともな いし、時には教師たちより大人に見えもした。
 苦手だけれど、勝也を嫌いだったわけではない。
 最初は走るフォームの美しさに憧れた。中学の頃から、皆より頭一つは大きい 彼の、長い手足が力強く動く様は、とても綺麗だった。
 たまに自己記録を更新すると、白い歯を見せて笑った。その笑い方も、同級生 たちのような子供じみた仕草ではなく、本当に嬉しさを噛みしめるような爽やか な笑顔だった。
 一年生と三年生では接点は少ない。ようやくクラブに慣れた頃に三年生は受験 のために引退する。
 その短い期間に、井原は自分の目標は勝也であると決めた。
 勝也の記録に追いつき、一緒のトラックで走る。
 勝也がクラブを去った後もクラブに打ち込み、勉強に励んだ。
 そしてようやくこの高校に入れたのだ。入学式の壇上に勝也の姿を見つけたと きは、本当に感動した。これでもう一度一緒に走れることができるのだと思った。
 入学早々、陸上部に入部届けを持って走った。
 しかし、待っていた先輩の中に勝也はいなかった。
 呆然とする井原に、前キャプテンの八坂は、三池なら剣道部だぞと教えてくれ た。
 そう言われても信じられるわけなどなかった。
 翌日、信じられないまま向かった剣道場で勝也の姿を見ても、まだ井原には信 じられない気持ちの方が強い。
「こんな……諦められるわけ……ない」
 ぎゅっと拳を握り締める。
「だいたい、陸上部は何をしてたんだ」
 全国レベルではないものの、県大会では勝也の名前はよく知られていた。八坂 だって、競技会ではよく会っていたと言っていた。それなのに勧誘できなかった のか。
 そう思ったところで、昨日の八坂の言葉を思い出した。
「あんな奴、どこが可愛いっていうんだよ」
 確かにテレビに出ているアイドルだって負けるくらいの愛らしい容姿かもしれ ない。同じ男だから、それを可愛いとは表現しがたいが、綺麗だと言われるのを 理解はできる。
 けれどそれと反比例するような、あの口の悪さ。新入生にも竹刀を振り回す、 乱暴な態度。
「あれで可愛いって?」
 きっと勝也は騙されている。井原は唇を固く引き結んだ。

 急いで戻った食堂に冬芽の姿は既になく、勝也は冬芽のクラスへと顔を出した。
 食堂で、廊下で、そして冬芽のクラスで、視線が自分に集まっているのは、気 のせいではないだろう。とんだ疫病神に付きまとわれたものだと勝也は眉間の皺 を深くする。
 その不快指数の高い表情が功を奏しているのか、直接勝也に声をかけてくる者 はいない。
「朝比奈、いる?」
 冬芽の教室で近くにいた生徒に話しかけると、あからさまに興味津々の表情で 冬芽の名前を呼んだ。
「なんだよ」
 愛らしい顔に「怒ってます」と書いたような表情で、冬芽はドアのところまで やってきた。
 勝也が身を引いて廊下に出ると、冬芽も廊下に出てくる。
「伊堂寺は?」
 冬芽の隣に春の姿が見えないので、勝也は確かめるように聞いた。
「春は次の授業の準備で、ヨウ先生に呼び出されたの」
 陽のことは生徒たち皆が『ヨウ先生』と呼ぶ。勝也も学校ではそう呼んでいる し、冬芽も兄とはいえきちんと公私を分けている。
「何? ヨウちゃんに内緒にしてくれって頼みにきたのかよ? 俺が黙ってても、 すぐに広まってると思うけどな」
 兄のことを指す時には『ヨウちゃん』と呼ぶ。
「てめーらっ! 何覗いてんだよっ! なんもねーよ!!!」
 教室から廊下を窺うクラスメイトに気がついて、冬芽はドアの端を蹴って驚か した。生徒たちがひゃっと顔を引っ込める。
 それを苦笑して見てから、勝也はおもむろに冬芽を片手で引き寄せて耳元で囁 いた。
「あの噂を取り消すつもりはないから」
 どんっと勝也の胸にぶつかった冬芽は、突然のことに驚いて身体を固くした。
 ひゃーとか、うおーとか、叫ぶ声が聞こえるのは、決して空耳ではないだろう。
 身長差があるので目の前に勝也の制服のポケットがあった。勝也の右手が自分 の頭をすっぽりと包むように抱いている。
 勝也の言葉の意味を聞こうと顔を上げた時、勝也は冬芽の頭を抱いた自分の手 の先にチュッと、派手な音をたててキスをした。
 それまではざわざわと騒がしかった廊下も教室も静まり返った。
 勝也は自分の指先にキスしたのだが、他から見れば冬芽の頭にキスをしたよう に見えたのではなかったか。
「俺、やっぱりお前のこと、諦めないから」
 最初の台詞は誰にも聞こえないように囁いたのに、今度の台詞はギャラリーに も聞こえるように大きな声だった。
 息を呑んで見つめる同級生たちに動じる様子もなく、勝也は冬芽を離して、平 然として歩き去った。
 取り残された冬芽は、これから大騒ぎになるだろうクラスメイトをどう静かに させればいいのか、それを聞くだろう春にどのように説明すればいいのだろうと、 青くなる。
 そんないつもの冬芽らしくない様子に、クラスメイトたちはひそひそと憶測を 混ぜて話し始めたのだった。