『あの部長が三池を勧誘したんだよ。井原の見たもう一人の三年生部員と三池で、 あの可愛いのを取り合っているらしい』
 陸上部の前部長の言葉に、井原は愕然としながらも、ぎゅっと握り締めた拳を 震わせた。
「そんなくだらない理由で?」
 勝也に言われた理由などどこかに吹き飛び、伊原は今見てきたばかりの剣道部 の部長を思い出した。
 八坂は可愛いと表現したが、自分には最初から喧嘩腰で、乱暴な言葉遣いと態 度を見せられて、とてもじゃないが可愛いとは思えなかった。
「俺はさ、お前もいけると思うんだよな。お前も可愛い系って言われないか? 中学の時に三池に可愛がられていたんなら、色気を出して攻めてみればどうだ?  俺たち3年生はさ、朝比奈は伊堂寺とできてると思ってる。つまり、三池は全 然無理なんだよ」
 井原はぎゅっと眉を寄せて、視線を足元に落とした。
 確かにこの学園に来てから可愛いと言われることがあった。
 男子ばかりの学園の中で、身体が小さかったり、外見が女性っぽかったりする だけで、色々と騒がれる原因となる。
 男子校の悪しき風習だと鼻にもかけなかった伊原だが、自分の尊敬する先輩ま でもがそんな風になっているのだとは思いもしなかった。
「そのできてるって、つまり、そういうことですか?」
 聞きにくそうに問う井原に、八坂は意味ありげに頷いた。
「そういうことだと思うぞ。あの二人、家も隣同士らしいけれど、ずっとべった り一緒なんだよ。三池の割り込む隙なんてないと思うんだけれどなぁ」
「でも、三池先輩は、中学時代はちゃんと女の子と付き合ってましたよ」
 井原の勝也をかばうとも取れる発言に、八坂は面白いことを聞いたというよう に目を輝かせて、まだ子供っぽさの残る1年生を見た。
「それは初耳だなぁ。へー、そうなんだ。あいつ、滅多に自分のことは言わない し、ものすごい秘密主義なんだよな」
 何故だか嬉しそうに、ニヤニヤと笑う。
「でも、それならいいかも。とにかくお前、三池と朝比奈の間を掻き回してみろ よ。決定的に三池が振られれば、剣道部辞めるだろうし。そこへお前が慰めてや れば、陸上部に入る気になるかも」
 そこで八坂は声を潜めた。
「実はな、短距離で期待してた奴が故障しててさ、インターハイ予選、危ないん だ。補欠の選手もいまいちでな。4Kで二人の欠員が出れば、……わかるだろう?」
 悪巧みを持ちかけて、片唇を持ち上げて笑う八坂に、井原はごくりと唾を飲み 込んで、神妙に頷いた。

「三池先輩! おはようございます!」
 剣道部で騒ぎを越した翌日、さすがにもう懲りただろうと思っていた井原だっ たが、朝になるとそんなことはころりと忘れたのか、登校してきた勝也に元気良 く朝の挨拶をしてきた。
「おはよう」
 一言だけ返して、勝也はスタスタと歩き始める。目を合わせたかどうかも微妙 な素っ気のない挨拶である。
 けれど、勝也はいつでも、誰にでもそんな感じだし、中学の時から変わってい ないので、井原は全然気にしていない。
「先輩、俺、相談に乗って欲しいことがあるんですけれど」
 めげずに後ろをついてくる井原の言葉に、勝也はため息を押し隠して、歩調を 緩めることもなく、言葉を返す。
「クラブに関する事なら、俺は関係ない」
「クラブのことじゃないです」
「だったら、尚更、俺には関係ない」
「でも、先輩、生徒会長じゃないですか。それに、俺、中学の後輩なのに」
 わざとかと疑いたくなるほど大きな声で言われ、勝也はようやく足を止めて振 り返った。
 朝のまだ余裕のある時間で、それほど生徒は多くないが、それでも注目を集め てしまう。
「何の相談だ」
 うんざりするのも隠さずに勝也は聞いたが、それでも井原は嬉しそうに笑った。
「昼休みに時間をとってもらえますか? その時に話します」
「昼休みは用事がある。夜、家に電話してくれ」
「そんなこと言って、先輩は昨日の夜は家にいなかったじゃないですか。俺、何 度か電話したんですよ」
 最近は週の半分ほどしか家に戻っていない。大切な用件のある人なら、携帯電 話番号を知らせてあるし、携帯でもパソコンでもメールという手段もある。
「今夜は家に帰るから」
「だったら、携帯の番号を教えて下さい。家の人に取り次いでもらうの、緊張す るんです。昨日は最初の人、先輩と間違って喋ったら、違うって言われてびっく りしました」
 いったい何度かけたんだろうかと思ったが、自分の声と似ていたのなら長兄だ ろう。母親だって、迂闊に勝也の携帯の番号は教えなかっただろうし、少しばか りほっとする。
「わかった。昼休みだな。食堂の入り口で待ってるから」
「はいっ!」
 井原は飛び切りの笑顔で走っていった。あれで何の相談事があるのかと、襟首 を掴んで問い詰めたいくらいだ。
「慕われているんだな」
 うんざりしながらその背中を見ていた勝也は、背中から声をかけられて、びく りと身体を固まらせた。
「……先生」
 陽が苦笑いしながら立っていた。
 その表情に嫉妬や疑惑というものが無いのを見て取って、ようやく肩の力を抜 く。
「ちゃんと相談に乗ってやれよ。早い生徒だと、そろそろ五月病の頃だ」
「というわけで、昼休みは行けません」
 囁くように陽に告げると、教師の顔のままの恋人は、勝也の肩をポンポンと叩 く。
「頑張ってくれよ、先輩」
 陽は妙に楽しそうに笑った。

 そして昼休み。
 食堂の入り口では既に井原が待っていた。
「先輩!」
 遠慮も何もなく、勝也の姿を見つけてはぴょんぴょんと飛び上がるようにして 手を振ってきた。
 混み始めている食堂にいた生徒たちがぎょっとして勝也を見る。
 苦虫を噛み潰したように、勝也は井原に「静かにしろ」と言ったが、井原は全 然気にしていない。
「もう何か買ったのか?」
「俺、弁当です。席も取ってあります。ほら、あそこ」
 井原が指差した先には、なるほど席が二つ空いている。
「じゃあ、向こうで待ってろ。何か買ってからいくから」
「はいっ」
 素直で可愛いという表現がぴったりなのだろう。
 だが、勝也には遠慮の無さとか、空気を読めないという表現に繋がるような不 躾さだった。
 これなら携帯の番号を教えて、一度だけ話をして、以後は着信拒否にすれば良 かったと思ってしまう。
 サンドイッチとコーヒーを持って席に向かった勝也は、その近くに座っている 面子を見て、ますますその思いを強くした。
「なんだ、三池、まさか本当に陸上部に入るとかじゃねーだろうなー」
 隣のテーブルに座っていた冬芽が、勝也に冷たい視線を送る。
「違うよ」
 これが冬芽でなければ、視線一つで黙らせるのだが、陽の弟である相手に、そ んな真似はできなかった。
「三池先輩が陸上部に入ったら、困るんですか?」
 挑発するように、井原は冬芽に話しかけた。
「べーつーにー。欲しいなら持ってけばー? でも、三池は剣道部、やめないぜ ー。なー?」
 嫌味たっぷりに冬芽は勝也に話を振ってきた。
「あぁ」
「先輩、この人、全然可愛くないじゃないですか!」
「可愛くてたまるかって言うの! お前こそ、先輩に対する態度っていうものを しらねーのかっ!」
「冬芽、止めろ」
 がたんっと椅子を鳴らせて立ち上がった冬芽に、春がタイミングよく声をかけ る。
「先輩、その人とこの人を取り合ってるって本当ですか? この人、先輩のタイ プなんですか?」
 冬芽を挑発するためか、井原の声はかなり大きくなっていた。
 その挑発に乗ってしまったためか、元々そうなのか、冬芽の声もかなり大きく なっていた。
 食堂に居合わせた生徒の注目を浴びること甚だしい。
 成り行きを見守る生徒たちは、まんじりともせずに立ち尽くしていたので、日 頃は騒々しい食堂内も、水を打ったように静かである。
 そこへ、後輩は爆弾を落とした。
「先輩が中三の時に付き合っていたのは、もっと綺麗系の女の人でしたよね。俺、 一度だけ街で見かけましたもん。こんな外も中も子供っぽい人、先輩の趣味じゃ ないでしょう?!」
 ここで冬芽が切れてくれたら良かったのに、と勝也は後々何度も思った。
 いつもなら子供っぽいと言われたことで切れまくり、暴れまくる冬芽は、この 時は押し黙り、意味ありげに勝也を見た。
「ふーん、そうなんだー」
 冬芽の冷めたような、責めるような声と視線を背に、勝也は井原の腕を掴んで 食堂を飛び出した。