井原は不満いっぱいの目つきで勝也を見た。
 勝也は剣道の胴着を着て袴をはいている。手には竹刀。
 紛れもなく、見間違えようもない剣道部員として正しい外見である。
 勝也は興奮して暴れようとする冬芽を春に任せて、まだ言い足りない風の井原 を連れて体育館の外へと連れ出した。
 体育館の2階は剣道場と柔道場で、1階では平面を二つに分けて、バレー部と バスケット部が活動をしていた。
 ボールの弾む音と威勢のいい掛け声を背中に、勝也と井原は体育館脇の水飲み 場を通り抜け、人影の少ない花壇へとやってきた。
「三池先輩……」
 冷たい表情のままの勝也に、井原は怖々と声をかけた。
「つまらないことをしている場合じゃないだろう。さっさと陸上部に入れ」
 突き放すような勝也の台詞と言い方に、井原は泣き出しそうに顔を歪める。
「先輩、どうして陸上部じゃないんですか?」
「そんなの、俺がどの部に入ろうが、俺の勝手だろう」
 相手を見ようともしない勝也に、井原は縋るような視線を送る。しかしそれは 気づいてもらえることもなく、拒絶に遭う。
「俺、先輩はここに来ても、陸上部に入ってるって、何の疑いもしませんでした」
「県大会、インターハイ、高校陸連の記録会。個人の記録でもインターネットで 検索すればいくらでも出てくるだろう。その中に俺の名前は一度として出てこな かったはずだ。陸上を続けていた井原なら、そんな記録を見ないはずがないと思 うけれど?」
 隙間もない理論に、井原は悔しそうに唇を噛む。
「この高校に来るためには、クラブの後、寝る間も惜しんで勉強しなくちゃなら なかった。先輩と一緒にいるためには、死に物狂いで勉強しないと駄目だったし、 先輩と一緒に走るためにはクラブを辞めるわけにもいかなかった。その他の余裕 なんて……なかったです」
「けれど、それは井原のミスだ」
 簡単にミスの一言で片づけられて、井原はぎゅっと両手を拳に握り締めた。
「先輩、もう走らないんですか?」
「走らない。だからと言って、剣道部に入るなんて言うなよ? 経験もなくやる 気もない足手まといになるような奴は要らない」
 取り付くしまもない勝也に、井原は項垂れた。
「どうして剣道部なんですか?」
「だから、それは個人の勝手だろう。剣道は中学の頃から続けていた。中学に剣 道部がなかったから、陸上部に入っただけだ」
 それでも納得できないのか、井原はその場に踏み止まっている。
「八坂……陸上部の前部長が井原の入部を待っている。早く行け」
 勝也は命令するように言うと、自分はさっさと井原に背中を向けた。
「俺、諦めませんから! 先輩が、陸上部に入ってくれるまで、諦めませんから」
 背中に突き刺さる叫び声を、勝也は綺麗に無視をした。
 遠ざかる紺色の胴着袴姿を井原は見えなくなるまで睨み続けた。
 ランニングとゼッケン、ランニングパンツから伸びた理想的な筋肉のついた陸 上選手の脚。太腿とふくらはぎが隠れた袴など、似合うはずがない。
 井原は涙が滲む目で勝也を見つめ続けていた。

 道場に戻っても、ブリザードは勢力を衰えさせてはいなかった。
 しかもそのブリザードをまともに受けているのが、冬芽の恋人である春ではな く、兄の陽であることに気づいて、勝也は急いで中へと割って入った。
「三池、てめー、ちゃんと話をつけてきたんだろうなっ!」
「冬芽、神聖な道場でなんていう口の利き方だ」
「うっせーよ、悪いのは三池じゃん、こいつに怒ってくれよ」
 俄かに兄弟喧嘩の様相になってくる。
「先生、冬芽、話はつけてきたから。練習の邪魔をして悪かった」
 それでも心配そうな陽に、勝也は目線で大丈夫だと告げる。
「あの野郎、今度きやがったら、問答無用で竹刀の露にしてやるっ!」
 時代劇がかった台詞で、冬芽は竹刀を振り回す。
「冬芽、いい加減にしないかっ。ここは道場なんだ。作法を守れない野蛮な者は、 顧問として退場を言い渡すぞ。それに、何度も言ってるだろう。竹刀は喧嘩の道 具じゃない。相手を傷つけるために使ったら、以後の部活動を禁止するからな」
 こればかりは譲らないと、陽のきつい口調に、冬芽は不満な様子を残したまま むっと押し黙る。
「三池、君も座りなさい。道場内に相応しくない立ち居振る舞いの反省を求める」
 腕を組んだ陽に、勝也や冬芽たちは、並んで正座をした。
「黙想!」
 陽の掛け声に、目を閉じて精神統一を行なう。
 それまでの荒れ始めていた空気がピシッと引き締まった。
 水を打ったような静けさの中、勝也は先ほど背中にぶつけられた井原の声を思 い返していた。
「諦めませんから」
 何を諦めないというのだろう。俺を陸上部に戻すことか?
 ……くだらない。
 勝也は心の中で吐き捨てた。
「三池、精神集中!」
「はいっ」
 剣道のことに関しては人一倍厳しい陽が、勝也の肩を叩いた。
 勝也は今度こそと、無我の境地へと気持ちを集中させていった。

「井原、陸上部に入る気になったか?」
 とぼとぼとグランド脇を歩いていた井原を八坂が呼び止めた。
「……えっと……」
 昨日の今日では八坂のことを覚えていないのか、井原は戸惑ったように八坂を 見た。
「俺は八坂。陸上部の3年生で、前キャプテンだ。今日は陸上部に見学に来ない のか?」
「八坂先輩は……三池先輩のこと、知ってますか?」
 昨日の騒ぎで、井原が三池勝也の信奉者だということは、陸上部のみんなに知 れ渡っていた。一日経った今では、学園のみんなが知っていることになっている かもしれない。
「知ってるよ。生徒会長だしな」
「あの人が、中学時代に陸上をしていたことは?」
「知ってる。競技会では、いつも顔を合わせていたからな」
「……だったらご存じですか? 三池先輩が、陸上部に入らなかった理由」
 急きこむように聞かれ、八坂はうーんと唸った。
「俺にはそっちの理由はわからないけどな、剣道部に入った理由は知ってる」
「剣道部に入った理由って?」
 八坂は思わせぶりに二、三度頷いてからおもむろに口を開いた。
「剣道部の三年生部長知ってるか? かなり可愛い感じの」
「今、会ってきました」
 八坂は満足そうにうんうんと首を縦に振る。
「三池よりちょっと低めだけれど背の高い男は剣道部にいたか?」
「いたように思います」
 その可愛い部長を止めていた人だろうかと首を傾げる。
「剣道部は今、ちょうど五人なんだよ。三池が出たら、団体戦に出られない」
 それが?と井原は眉を寄せる。
「あの部長が三池を勧誘したんだよ。井原の見たもう一人の三年生部員と三池で、 あの可愛いのを取り合っているらしい。剣道部を辞めたら、三池は即脱落だろう?  だから辞めないんだと、俺は思うんだ」
 一時学園を駆け巡った噂は、それまでどおり、冬芽の傍に春が居続けることで、 いつの間にか勝也が振られたことで決着がついていた。
 それでも勝也が剣道部を辞めないのは、未練がたっぷりあるからだろうとか、 春と冬芽が分かれるのを待っているからだとか、形を変えて囁かれている。
「そんな理由……だったんですか?」
 井原はまた沸き起こる「何故」に拳を震わせていた。