「はるー! 春! 春! 春!!」
次の日の二時限目が終わった時、冬芽の声が春の教室を奇襲した。
「来た、来た。春の大安売り」
クラスメイトたちがからかう中、冬芽が飛び込んできた。冬芽はこうしてよく、春のクラスに駆け込んでくるので、皆はニヤニヤしながら、その光景を見ている。
「数学の教科書、貸して!」
春の机に両手を突いて、冬芽は荒い息を整えた。
「俺のクラス、今日は数学がないぞ」
「え!?」
冬芽は大きな目を更に見開いて、春を見た。その瞳はすぐに焦りの色を浮かべる。
「どうしよー! 陽ちゃんにどやされるー!」
冬芽は大袈裟に頭を抱え込んだ。
「教科書忘れたぐらいで」
「だって、今日は研修授業とかで、他校からもいっぱい数学の先生が来るんだよー。昨日から散々言われてたのに。帰ったら、拳骨だけじゃすまないよー」
冬芽の情けない声に、春は遠巻きに見ていたクラスメイトに声をかけた。
「竹原、数学の教科書、いつも置いてただろ?」
竹原と呼ばれた少年は、あるよと言って、教室の後ろのロッカーから教科書を出してきてくれた。
「サンキュー」
春が礼を言うと、竹原はにっこり笑った。
「困ったときに助けるのがクラスメイトの努めだもんな」
「そうそう。伊堂寺が仲のいい朝比奈なら、俺たちにとってもクラスメイトと同じ」
「朝比奈。いつでも伊堂寺を貸し出してやるからな」
ワラワラと竹原と同時にやってきた級友たちが、馴れ馴れしく冬芽や春の肩に手をかけて、そんなことを口々に言った。
「いい」
冬芽が言った言葉は、皆の声に呑まれて、聞こえなかった。
「何? 冬芽」
春が聞き返したとき、冬芽は渡された教科書を春の机に叩きつけた。
「いらないっ! オレはここのクラスの人間じゃないから、いらないっつってんだよっ!」
瞬間、静まり返った教室から、冬芽は逃げ出した。
悔しくて。
まるで春が自分たちのものであるかのような振る舞いに腹が立った。
悔しくて。
涙が出そうになる。仲が良すぎるクラスに、自分は入りこめなくて、別の方がいいと春に言われたことをまざまざと思い出す。
悔しくて。
悔しくて……。
もう、どうでもよかった。
昼休み、冬芽が学食でラーメンを食べていると、春がやってきた。
「冬芽、数学の教科書、どうしたんだ?」
心配そうに尋ねてくれるが、冬芽はそれを無視した。
「冬芽」
春は根気強く冬芽の名前を呼んだ。
「三池に借りた」
冬芽は春を見もしないで答えた。代わりにずずっと音をたてて汁を飲んだ。
本当は春のクラスを飛び出したところで陽に会って、勝也に借りてこいと言われたことなど言わない。
「ほら、クラスの奴たちが呼んでる。行けば?」
「冬芽」
「三池が、何でも借りにこいって。あそこのクラス、皆優しいから好きだな」
ごちそうさまと言って、冬芽は立ち上がった。
金曜日は道場が使えないので、剣道部は校庭で基礎トレーニングをする。
春が部室で体操服に着替えていると、顧問である朝比奈陽がやってきた。冬芽を物静かにさせて、大人にしたのが、陽である。冬芽よりは背も高くて、落ち着いている。
外見上はそれなりに似ているが、性格はかなり違う。のびのびと育った冬芽が犬タイプなら、おっとりとした陽は猫タイプである。
だが、春は長いつきあいで、その内に秘めたる直情的な性格は似ていると思っていた。思い立ったら、頑固なまでに貫き通す。そうでなければ、あの冬芽の兄などしていられないだろうが。
「部長は?」
学内では公私混同はしない。陽はそれを徹底していた。二人が兄弟であることは周知の事実だが、そこに何か特別のことがあってはいけないというのが、陽のポリシーでもあった。冬芽もそれを十分承知して、節度のある態度でいる。
「まだ来ていませんけど」
「そうか。夏休みの活動予定なんだが、道場を使える期間など、取り敢えず希望を出すことになっているんだ。ここに希望を書いて、生徒会に出すように言っておいてくれないか」
「生徒会ですか?」
生徒会という言葉に、春の心の痛みが反応した。かなり堪えているなと、春は自分でも思った。
「来週の水曜までだから」
「はい」
陽は用件をすませると、すぐに出ていった。朝比奈兄弟は小学校の頃から剣道を習っていた。中学に入ると辞めてしまった陽と、今も続けている冬芽では、弟の方が腕は上で、実質的にクラブの練習メニューなどを決めているのは冬芽であった。陽が指導に顔を出すのは、周に一回程度、道場の使用日だけである。
陽と入れ代わりに、美樹彦と弘章がやってきた。
二人は何やら楽しそうに、話を続けている。冬芽が見れば、またイチャイチャするなと怒るところだろう。
春は着替えが済んだので、二人を見るともなしに見ていれば、いつものように、弘章が色々と美樹彦の世話を焼いている。このままエスカレートすれば、美樹彦は立ったままで、弘章に着替えさせてもらうんじゃないだろうかとさえ思ってしまう。
当てつけられているようで、馬鹿らしくなって春は目を逸らせた。
ふと、冬芽も美樹彦ほど素直で可愛ければなあと思って、すぐにそれを否定した。それでは、朝比奈冬芽は冬芽ではなく、冬芽の魅力は半減する。
「暑いよなー!」
ドアを乱暴に開ける音と共に、冬芽が賑やかに入ってきた。春は思考を中断して、入ってきた冬芽を見やった。カバンを机に投げ捨てるように置いて、ガタガタとロッカーを開いて、着替え始めた。仕草まで乱暴である。
「冬芽、これ。朝比奈先生が持ってきたぞ」
「何?」
春は陽がもってきたプリントを持ち上げて冬芽に差し出した。
「夏休みの体育館使用日の申請書。書いたら生徒会に提出だって」
「ふうん。めんどくさー。勝手に決めてくれりゃいいのに」
冬芽はさして興味もなさそうに、ちらっと春の手の中のプリントに目をやっただけで、さっさと着替えてしまった。
「今日はロードワークな」
「ええー!」
「久住、何か言ったかなー?」
「なーんにも言ってませーん」
頬を膨らませる美樹彦の頬をつついて、冬芽は張り切って外へ出た。
校庭での練習は、大まかに二つに分かれる。
一つは校庭の隅で、素振りや足運びなどの、剣道部らしい練習。
もう一つは、足腰を鍛えるためのロードワーク。これは柔軟体操や長距離走など、およそ剣道部には見えない練習である。
美樹彦はそのロードワークが嫌いなのだった。
四人が準備体操をしていると、どこの部にも所属していない連中が側を通っていった。
「伊堂寺」
その中の一人が春を呼んだ。春はちょっとと言って、呼んだ相手に駆け寄っていった。見れば、春のクラスメイトである。
四、五人で固まって、笑いながら喋っている。きっと明日の打ち合せをしているのであろうと思うと、冬芽は腹が立ってならなかった。
そんなのは教室ですればいいことである。何も、クラブ活動を中断してすることではない。
「行くぞ」
冬芽は唐突に言って、走り始めた。
「え? あ、先輩!」
美樹彦と弘章が慌てて後を追った。春のことが心配で、後ろを振り返ると、呆気にとられてこちらを見ている春がいた。
冬芽はかまわずに、校門を抜け出た。住宅街を走るわけにはいかないので、線路添いに少し走って、途中から高速道路の高架下を走り、幹線道路に出たところで折り返す。ちょうど五キロのミニマラソンコースである。
高架下まで来たところで、春が追いついた。当然のことながら、冬芽たちよりも苦しそうである。
春は黙って冬芽と並んだ。冬芽はそれを無視する。
いつもより早めのペースで学校に戻る。戻った時には、四人とも何も喋れないほどぐったりしていた。
「き……、きついっ」
四つんばいになってハーハーと息を吐く美樹彦に、弘章は自分も荒い息なのに、汗を拭いて背中を撫でてやっている。
「ほら、ミキ。足を投げ出した方が楽だって」
そんなことを言いながら、座らせてやっている。
冬芽はムカムカしてきて、何か言ってやろうとしたが、自分も苦しくて、嫌味の一つも言えなかった。
待ってろよと思っていると、春が立ち上がった。木にかけてあったタオルを、冬芽の分もとってくる。
自分より早く息を整える春に、イライラが余計に募ってしまう。目の前に出されたタオルを無視した。
春は溜め息をついて、冬芽の膝にそのタオルを落とした。
どうしてだか、そのタオルがひどく重く感じられて、冬芽はじっとそれを見つめた。
何をしているんだろうと思う。
今まで一度だって、こんなにギクシャクしたことはなかった。いつも傍にいて、何もかもわかりあえていたのにと思う。
春の一番近い距離にいたのは自分のはずだったのに。なのに、春の考えていることもわからずに、イライラばかりして、それを春に当たり散らして、そうすることが二人の溝を作っていく。
喧嘩をしたってその場限りのことで、相手の顔も見れなくなるなんてことは、一度もなかった。まして口を利くのにも努力を必要とするなんて。
春の周りのこと、全てに嫉妬している。
そこに、自分の場所を見つけられなくて。
どうすれば、元に戻れるだろうか。冬芽はわからずに、ただ、春が解決してくれるのを待っていた。
「こんな所でうたた寝をしていると、風邪をひくぞ」
肩を揺すられて、冬芽は目を覚ました。家に帰って、シャワーを浴びた後、疲れてしまい、ソファで居眠りをしてしまったらしい。
目を開けると、陽が覗き込んでいた。
「陽ちゃん、帰ってたんだ」
陽はネクタイを緩めて、テレビのスイッチを入れた。
陽と冬芽の両親はレストランを経営していて、二人とも帰りが遅い。夕食は母親が二人分を用意していってくれる。
ニュースを見ていると、電話が鳴った。
「冬芽、出て」
「うん」
冬芽はノロノロと電話に出た。
「朝比奈です」
『三池だけど。冬芽?』
「あ、うん」
勝也の声が、電話だと意外に低く聞こえるので、冬芽はドキッとした。
『明日、十時頃迎えにいくのでいいか?』
そういえば、出かける約束をしておきながら、打ち合せをしていなかったのを思い出した。それほど強く出かけたいとは思わなかったというのも、原因なのだが。
「わざわざ迎えにきてくれなくても、駅でいいよ」
『行くよ。十時な』
「うん」
冬芽にとっては、その方が、楽であったので、異論はなかった。
『陽先生、帰ってる?』
「帰ってるよ。ちょっと待って」
冬芽は電話口を手で押さえて、陽を呼んだ。
「陽ちゃん、三池から」
「ん? ああ」
陽は冬芽から電話を受け取ると、保留ボタンを押して、自分の部屋に行ってしまった。
陽は勝也から電話があると、いつも自室で話し込んだ。結構長時間にわたるその電話の内容が何であるのか冬芽は知らなかったが、どうも普通の先生と生徒の関係ではないような気がする。
学校ではそんな態度は一切見せない二人であるが、勝也が家に来たり、電話があったりして、冬芽も自然と勝也と仲がよくなった。
誰にでも結構冷たい態度の生徒会長が、自分にだけは親切にしてくれるのも、ちょっと優越感を抱かせる。
「冬芽、明日勝也と出かけるんだって?」
電話を終えた陽が二階から下りてきた。
「陽ちゃん、もしかして三池と何か約束があったりした?」
「違う、僕じゃないよ」
冬芽は兄の淋しそうな顔を見て、漠然とだが、申し訳ないような気持ちになった。
「オレ、別にそんなに行きたいってわけじゃないから、陽ちゃんと代わろうか?」
陽は弟の頭をポンポンと軽く手を置いて、微笑んだ。
「いいよ。行っといで。春に構ってもらえなくて、拗ねてるんだろ」
「な! 違うぞ! ぜんっぜん、違うっ!」
むきになって否定する冬芽がおかしくて、陽はしばらく冬芽をからかって遊んだ。
「どうせ冬芽が悪いんだろ? 早く謝っちゃえよ」
「どうしてオレが悪いって決めつけるのさ」
「そりゃ……」
いつものことだからと言いかけて、陽は黙った。これ以上からかうと、冬芽は意地になって、春と仲直りしないといいだすかもしれない。
「謝らなくても、ちゃんと話ししろよ」
「陽ちゃんが悪いんだ」
「はあ?」
突然原因を自分に振られて、陽はポカンと口をあけた。
「だって、同じクラスにしてくれないから……」
陽はまじまじと目の前で口を尖らせる、まだ子供っぽさの残る弟を見つめた。
これで勝也と同じ年だろうかと、つい疑ってしまう。
陽は、春の冬芽に対する気持ちを薄々感づいていたが、冬芽まで同じ気持ちに傾いているとは思ってもみなかった。それなら、もう自分が口をはさむ問題ではないと思った。
「クラス編成に口をはさめるほど、僕は偉くないの。クラスが別になったくらいでいつまでもそんな態度でいると、春をクラスの奴らにとられちゃうぞ」
もうとられちゃったんだよ。冬芽は心の中で毒づいた。そう言えない代わりに、ソファのクッションを陽に投げつけた。それから先は、冬芽を子供だと言えない、兄弟喧嘩が始まったのである。
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