春に芽を出せ、きみの恋

 

「うりゃ     !」
 ぽかぽかと柔らかな陽射しに、どこまでも青い空が広がっている。そんな長閑な学園に似つかわしくない奇声が校庭を突き抜けていった。
 どうやらその声は校庭の南東の角、体育館の二階から発せられているようだ。
「テメー! かかってこいよ!」
 私立K学園の二階建の体育館、一階は板張の床だが、二階は畳敷きもできるようになっている道場で、月・木曜は剣道部の使用日になっていた。
 その道場で二人の少年が対峙していた。
 どうやら先程から叫んでいるのは、二人のうち、背の低い少年のようである。面を着けているため、その表情はわからないが、声から察するに、かなり頭に血が昇っているようである。
「春! やる気あんのか!」
 名前を呼ばれて、向かい合っていた背の高い少年がようやく竹刀を構えた。
「くそったれ! なんでテメーはそう嫌味なんだよ!」
 竹刀を構えなければ構えないで文句を言い、構えればまたそれが気に入らないと当たり散らす。一見気侭なように思えるが、春と呼ばれた少年の構え方を見れば、誰もが納得できるかもしれない。
「ただでさえ、でくのぼーっと背が高いのに、大上段に構えるとはいい心がけじゃねーか。この朝比奈冬芽様の剣道初段の腕をもってすればそんなの何ともねーぜっ!」
 冬芽はそう言って正面で構えた竹刀の先をユラユラと揺らせた。
「そのわりに、勝てないねー?」
 ピタリと動きを止めた春が明らかに挑発口調で言った。
 実際、百八十の長身で竹刀を振り上げられれば、小柄な冬芽でなくとも怯むだろう。
「テメー、覚悟しろー!」
 冬芽は竹刀を振りかぶって、春にかかっていった。
「あーあ、まただよー」
 二人の打ち合いを見学していた一年生の部員、久住美樹彦が溜め息をついた。ちなみに、見学しているのはもう一人、同じ一年生の村下弘章しかいない。剣道部部員はこの二人と、試合をしている二年生の朝比奈冬芽と伊堂寺春の四人だけである。それでは校外試合が出来ないので、他に助っ人部員がいる。
「どうして大上段に構えている、自分よりも二十センチも背の高い人の、面を取りにいくのかなー」
 理解できないというように、美樹彦は首を捻る。
「だって、朝比奈先輩の得意技だからだろ?」
 弘章が目を細めて美樹彦を見つめた。
「でも、無謀だよー」
 案の定、二人の目の前で冬芽は胴を取られた。冬芽は悔しくてたまらないらしく、右足で畳をダンダン踏みしめている。
「冬芽が初段なら、俺は三段ぐらい?」
 春は笑いながら面を取った。高校二年生にしては精悍な容貌が出てきた。この学園に女生徒がいたら放っておかないだろう。女生徒はいなくても、近隣の女子高生たちの熱い視線を集めているのだが……。
「だったら、ちゃんと昇段試験受けろよな」
「嫌だね。あんなもの受けるのは面倒だ」
 春は冬芽に歩み寄って、冬芽の面を外そうとした。
「自分で出来るっ!」
 冬芽はその手を跳ね除け、自分で面を取った。大きな目が勝ち気な色をたたえている。乱暴な口調とは裏腹な、黙っていればはかなげな美少年で通りそうである。
 それを知らず、声をかけてくる男たちは数知れずだが、冬芽が口を開いたとたん、逃げ出す者が多い。
「冬芽……」
 跳ね除けられた手を握り締めて春は名前を呼んだが、冬芽はそれを無視して防具を外した。
「そこっ! イチャイチャしてないで、片付けろよなっ!」
 冬芽は、道場の端で防具を外している美樹彦と、その汗を拭いてやっている弘章に向かって怒鳴った。
 完全に八つ当りである。
「僕たち、まだ何にもしてないよねー」
 美樹彦はあっけらかんと弘章を見つめた。弘章は苦笑して美樹彦の肩をポンポンと叩いた。
 冬芽が(話さなければ)はかなげな美少年なら、美樹彦は可憐な美少年である。この二人をめぐって、剣道部には邪な入部希望者が後を絶たないが、冬芽には春が、美樹彦には弘章というバックボーンがあって、厳しい入部試験をしていた。則ち、この二人に勝たなければ、入部を許さないというのである。
 春と弘章に勝てるものといえば、冬芽と美樹彦しかいないのである。
 だが、クラブ活動の締めの二人の練習試合は、最近ずっと春の連勝である。四月の頃は二人の試合成績は五分五分だった。それが六月に入ってから冬芽は勝てなくなった。つれて機嫌は一気に下降線を描いている。
 まるで今まではわざと負けてもらっていたような気がして、冬芽は悔しさが増すのだ。春が息も乱さないのが余計に忌々しい。
 冷静になって考えられないので、冬芽はどうして自分が黒星を続けているのか、その原因さえ思い当らない。それがまた負け試合に繋がるという、冬芽にとってはまさに最悪な繰り返しになっていた。
 当たり散らされる一年生の二人にとっては堪らないものであるが、冬芽は決して後を引くことをしなかったので、この二人も笑ってすませられていた。何より、冬芽の後ろで、凛々しい顔が頻りに二人にすまないと語っていたので、チームワークのために不問にしていた。
 片付けるといってもたった四人の部員ではたいしたものはなく、じきに帰宅の準備をととのえて、部長である冬芽は部室を閉めた。 部室の前で美樹彦たちと別れた。二人は楽しそうに何か話しながら歩いていく。美樹彦の笑い声が、人のいなくなった校庭にこだまする。
 それが冬芽にとっては、少しノスタルジーを感じさせる。昨年までの自分たちの姿をそこに見てしまうから。
 鍵を教員室へ返そうと春と並んで歩いていると、先に活動を終えた陸上部が校舎から出てきた。
「伊堂寺。明後日の土曜日のことだけどさー」
 春と同じクラスの陸上部員が彼を呼び止めた。
「十時に動物園入り口に決まったからな」
「ああ」
 馴々しく春の肩に手を置くクラスメイト。楽しそうに笑って答えている春。
「春」
 冬芽は刺々しい声で春を呼んだ。無性にイライラする。
 春は手を上げてわかったと合図して、歩み寄ってくる。
「どっか、行くのか?」
「うん?」
「明後日」
 冬芽は先に立って歩く広い背中を睨んで聞いた。
「クラスの奴らと動物園」
 聞いてただろと、春は振り向きもしなかった。
「ふうん……」
 冬芽は足を止めた。けれど春は気づかず、歩いていく。
 冬芽は小学校の時からずっと、春とクラスが一緒だった。腐れ縁だと嘯いていたが、春と同じクラスでいられることが内心とても嬉しかった。さすがに高校では離れるだろうと思っていたが、余程ついていたのか、一年生は同じクラスになれた。
 そうなると、もう当然のように思っていたのに、二年生のクラス替えで、別々になってしまった。
 ブツブツ文句を言っていた冬芽に、最初の頃は慰めたり宥めたりしていた春だったが、ある日突然、「俺は別になって良かったと思っている」と言いだしたのだ。
 それを聞いた冬芽は荒れ狂った。嫌味の応酬に、果ては絶好宣言までだしたが、所詮、学園生活での大半を春に頼っていた冬芽は、ウヤムヤのうちに仲直りをしてしまった。それがいずれ、余計に自分を落ち込ませることになるとは思わずに……。
「鈍感」
 冬芽は小さく呟いた。
「何か言ったか?」
 春が振り向いたときは冬芽は視線を合わせず、駆け足で春を追い越した。
「オレ、兄ちゃんと帰るから、あいつらと帰れよ」
 冬芽はそう言って、バタバタと走っていった。
「どっちが鈍感なんだよ」
 その小さな背中を見送りながら、春は溜め息をついて、冬芽を待つために校門へと行き先を変えた。冬芽の兄である数学科の教師、朝比奈陽は公私の区別を厳しく言う。冬芽もそれをわかっているはずだ。だから、今の態度は気に入らないことをアピールするための手段でしかない。これで待っていないと、冬芽の低気圧は翌日に持ち越す。それは容赦なく春の精神を痛めつける。
 
 校門で冬芽を待っていると、太陽が大きく傾いた中を、冬芽ともう一つの影がやってくるのが見えた。その影は春より、まだ背が高い。
 生徒会長の三池勝也だった。彼が剣道部の助っ人にいつも駆り出されている人物だ。
「ほら、待ってただろ?」
 春が隠れるより早く、勝也が気づいて冬芽に話しかけた。
「別に。待ってくれなんて言ってないのに」
 冬芽の機嫌はまだ治っていないらしく、春を見ようとしなかった。勝也は苦笑し、春を促して三人で並んで歩き始めた。
「三池さー、土曜日、ヒマ?」
 しばらく歩いたところで、冬芽が勝也の肘をつかんだ。
「土曜日? ちょっと、駄目だな」
 勝也はあっさり冬芽の誘いを断った。勝也がちらりと春を盗み見ると、彼は口を硬く結んで前方を睨んでいた。
「デート?」
「だったらいいんだけどね。あいにくそんな人はいない」
「嘘だろ? 三池、いつも断るとき、恋人がいるとかって、言ってるって噂だぞ」
 勝也は笑いをかみ殺して春を見た。今度は偶然なのか、目が合ってしまった。
「そう言った方が、相手があっさり引き下がるからだよ」
 冬芽を間にはさんで歩いているので、冬芽の少し赤みがかった髪の向こうに、相手の顔が見える。春はこのところやけに冬芽がなついている、三池勝也という同級生が気になってならなかった。冬芽と仲が良くなってから、氷の心といわれていた勝也の雰囲気が柔らかくなったことも気に入らない。
 接点といえば、剣道部の助っ人であるということしか思いつかなくて、なのに冬芽がなついているのが不思議だった。冬芽はこんなでいて、広く浅くという付き合いが出来ない。まして今まではずっと同じクラスだったので、冬芽の交友関係は全て把握していたのに、俄にそれが掴めなくなっていた。
 その方がいいと思っていたのに……。
「伊堂寺を誘えばいいのに」
 勝也は横目で春を見ながら、口元だけで笑った。春はムッとして、勝也を睨み返した。
 「こいつは、クラスのお友達たちと、仲良く動物園に遠足なんだよ」
 馬鹿にしきった口調に、勝也は可笑しそうに笑う。クールで通している生徒会長がこんな笑い方をするのを見たら、他の生徒たちは目をむくだろう。
「三時までなら付き合ってもいいよ」
「本当か」
「ああ」
 痛む胸を堪えながら、春は二人の約束を聞いていた。今すぐ、言えばいいのだ。
「クラスのレクリエーションなどすっぽかす」と……。けれど、それでは今までたてた計画が水の泡となってしまう。
 せっかくの……。
 もっとも、勝也という外野が登場することこそ、計画外の出来事ではあったのだが。
「じゃあな」
 冬芽が勝也に別れを告げる声で、春はわれに返った。大きな背中が角を曲がって消えるのをきつい視線で見送った。
 冬芽はすっかり機嫌が治ったのか、鼻歌を歌いながら、歩いている。
 どこへ行くんだ、どうしても行くのか、何時の間にあんなに仲良くなったんだ。聞きたい言葉は次から次へとあふれてくるのに、春は黙ったまま、冬芽の軽快なハミングを聞きながら、並んで歩いた。
「お前のクラス、仲いいよなー」
 冬芽は興味も無さそうに言う。
「別にそうでもないさ。まとめ役っていうのか? 冬芽のクラスにも、そういう奴、一人ぐらいいるだろ?」
「いねーよ」
 冬芽は肩を竦めた。
「うちはみんな無気力なの。そんなハリキリマンはいねーよ」
「だったら、冬芽がやればいいのに。お前が言えば、みんなついてくるんじゃないかな」「そんなめんどーなことは嫌だ。お前だって、知ってるだろ?」
 冬芽に指摘されて、春は黙った。知ってる。一緒になって騒ぐのは好きだが、率先してやるタイプじゃない。何でも知ってる。それがたまらなく辛かった……。
「映画でも行こうかなー」
 冬芽は呟きながら、いま流行の映画のテーマソングを口笛で吹いた。
 行くなとも言えずに、春は黙ってそれを聞いていた。


 
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