休み明けの仕事は、雑誌のページから始まった。ファッション特集。どれほど美しいものを着たって、人間の心なんて、醜いんだ。その醜さを隠す服なんて、あるわけない。
「ショウ! 目線、こっち! 笑って!」
 カメラマンのイライラした声がスタジオ中に響きわたる。
「ショウ! 肩を上げて! 立ち位置が違う!」
 着せ替え人形の僕が叱られている。
 うるさい。聞こえやしない。
「休憩!」
 進まない撮影に、イライラの限度を越したのか、カメラマンが休憩を取った。
「ショウ。どうしたの? 1週間じゃ、休暇は足りなかったの?」
 木野マネージャーが飛んでくる。
「すいません」
「プライベートを仕事に持ち込むのはよくないことはわかっているでしょう?」
「すいません」
 言葉だけで謝る僕に、マネージャーはため息をついて、他のモデルの様子を見にいった。
 ポンと肩を叩かれて、座っていた位置から見上げると、僕とは比較的仲のいい、カメラマンの小山さんが立っていた。
「どうしたんだ?」
「小山さんこそ、今日は助手なの?」
「通りかかったら、ショウって名前の安売りをしてたから覗いてみた」
「煙草、持ってない?」
「ああ、やめたんだ」
「そう」
「元気ないじゃないか」
「そうでもない。休み惚けかな?」
 僕は空元気を見せて立ち上がる。小山さんの頭の位置と僕の頭の位置が入れ替わる。
「カメラから覗いていると、モデルたちの視線ってさ、結構その人の体調とか、内面の様子とか、わかっちゃうんだ。隠すのに苦労するだろ?」
 何を言われているのか、見当をつきかねて見下ろすと、小山さんがモデルの一人を目で追っている。その視線を追うと、さっきまで小山さんが別のスタジオで撮っていたモデルだろう。長い金髪が揺れている。木野マネージャーと話をしているようだ。
「まあ、頑張れよ。早く終わらせて、休めばいいよ」
 小山さんはそう言って、そのモデルと一緒に出ていった。
 けれど、それからも撮影は順調には進まなかった。僕は硬い表情を崩せず、結局そのままのスチールで、写真は載ることになるだろう。
 プロ失格・・・といわれても、僕はプロ意識さえ、端から持ち合わせていない。何となくやってきただけだ。
 最低。辞め時かもしれない。勉強だってこれから忙しくなる。
 そうやって逃げていくんだ。高校を卒業する時に、逃げ出してから、僕はずっと逃げっぱなし・・・もっと平凡に生きていけばいいんだ。
 きっと楽だよ。楽しいことなんか何一つ持てないだろうけど、楽だよ。
 
 
「ショウ、事務所に電話があったのよ。片岡恵ってっ子、知ってる?」
 忍と二度目の別れをして、10日もたった頃、木野マネージャーが、事務所に顔を出した僕を捕まえて、いきなり切り出した。
「知ってるっていう程度には、知ってるけど?」
 いったい何を言ってきたんだろう?
「どういう付き合いだったの?」
「どういうって、友達の恋人で、一回会ったきりだよ」
「どうしてあんなに恨まれているわけ?」
 木野さんはあんまり気にした様子もなく、書類を片付けながら聞いてくる。
「恨まれている?」
 そりゃ恨まれているだろうけど、どうして今頃なんだろう?
「そうよ。玩ばれて、捨てられたって、泣いて言うのよ。心当たりがあるの?」
「別に、そんなんじゃないよ。一回会ったきりで、手も出していないよ」
「でもね、ショウが荒れだした頃と、彼女が捨てられたって言う頃と、時期が合うのよ」
 鋭い。何気ない調子で尋ねられていたものだから、彼女の言葉に巧みに誘導されていたことに、気づかなかった。
 木野さんは恵のことなど気にしていないのだった。僕の言ったことも信じている。けれど僕が荒れていることは見逃せないんだと、迫っている。
 いつのまにか書類を置いて、僕を見据えている。
「学校には行ってるの?」
 蛇に睨まれた蛙のように、射竦められて、力なく首を振った。学校も殆ど出ていない。家から出る気がしなかった。
「ご両親に連絡するわよ」
「あ・・・」
 言葉が続かない。何を、どう、弁解すればいいのか思いつかない。
 木野さんが大きなため息をついた。
「全く。色っぽくなって、ちょっとはモデルとしての自覚が出たのかと喜んでいたら、これだもの。いい? 今回限りよ。これ以上は見逃せないからね。何かあれば、一人暮らしもキャンセル。大学にもきちんと行くこと。今投げ出すのは、許せないわ」
「わかりました」
 悔しい。このままじゃ駄目なのはわかっていた。自分でもどうしようもなくなっていたんだ。けれど、それを恵のことに引っ掛けられて言われるなんて、最低だ。
 その日は撮影ではなくて、CMのリハーサルだった。短い時間に詰め込む色々な内容を確認していく。上の空で聞いている僕。さっき注意されたばかりだったけれど、のっていかない。
 夜、恵から電話が掛かってきた。
『どう? 怒られたでしょう?』
「何が? 変な女に引っ掛かったわねって、同情してもらえたよ」
 僕は八つ当りする場所を見つけた子供のように、苛立ちをぶつけていた。
『ひどいわ!』
「何が! 自分のしたことだって、酷いじゃないか!」
『わたしはありのままを言っただけよ』
「ふざけるなよ! 玩ばれて、捨てられたことが、ありのままか? 忍と宜しくやってるんだろ? 感謝してもらいたいね!」
『忍くんとは別れたって言ったでしょう!』
「ふん、脅迫まがいの事をして、よりを戻したろうが」
『わたしに何か恨みがあるの?』
「自分で考えろよ」
『忍くんとは上手くいかなかったわよ、結局ね。そんなものにいつまでもしがみついて、無駄にしたくないわ』
「それで僕に腹癒せをしたのか? 大概にしろよ。この番号変えるからな! もう通じない。二度と声も聞かせるな!」
 どっちが腹癒せか、これじゃわからない。どんどん自分が堕ちていく。もう嫌だ。何もかも失っても、忍だけはこの手にするつもりだったのに・・・すべてを失って、忍も失った・・・もう駄目だ・・・
 
 
 大学には行くようにした。仕事も無難にこなしている。けれど、脱け殻の僕が、中身のない生活をしているだけだ。
 その日の撮影は、小山さんと、いつも小山さんを指名する、僕と同じ事務所の聖夜との雑誌のグラビア撮影だった。
 聖夜は一時笑わないモデルとして有名だったが、どうしたわけか、小山さんを指名してから、笑った写真も時々撮られるようになっていた。
 謎のモデルとして売り出しているが、同じ事務所の人たちは、男だっていうことは知っている。長い金髪はウイッグで、中身はきれいな男。
 聖夜が男性モデルと絡みを撮ることなんて珍しい。並んで立つと、大抵の男とは頭が同じ位置にくるから。180センチの僕も、やはり同じ所に目の位置がくる。
「いい? 聖夜は座って、ショウは立って、聖夜はショウの腰に片手を回して」
 小山さんが指示を出す。そうして、言われるままにしている。
 以前一緒に仕事をした時はつんつんしてやりにくかったのに、今日はどうしたことか、姫のご機嫌はとてもいいらしい。
「ショウ、聖夜を見て。軽く目を閉じて」
 小山さんの声に聖夜は笑顔を返している。ゆったりと笑うその顔が、失った人との笑顔にだぶって見えて・・・
「聖夜。今日は笑顔はいいの! 悲しそうな顔をするんだよ!」
 苦笑して、小山さんがカメラから目を外して言っている。聖夜はますます笑っている。
 そういうことか、と納得してしまった。
 楽しそうに笑う聖夜に、小山さんはますます困っている様子で、ブツブツ言っている。
「ごめんね。ショウ」
 聖夜がふと僕を見上げて言った。
 何がごめんなのだろう? 何が! 僕にか?
「からかうと面白いんだよ。あの人」
 それはあんただけだろう? いいのかよ、そんな格好をさせられて、なぜ怒らないんだ? プロ意識というやつか? やめてくれ。
「もっとからかってやろうか?」
 僕は自分で意識する前にそう言ってしまっていた。悲しくなるほど低い声で。
 そして僕は聖夜の顎をつかむなり、性急なキスをした。
 がむしゃらに唇を押しつけてやる。
 パシッと頬が痛む。聖夜が僕の頬を平手で打ちつけた。
「くっ・・・」
 右手で左の頬を押さえた時、襟首をぐっと捕まれた。横から引っ張られて、今度は右の頬を拳で殴られた。
 右の口の端がピリッと痛む。切れたみたいだ。
「崇志!」
 聖夜の声が聞こえた。
 痛みに顔を歪ませて見上げると、小山さんがなおも殴りかかろうとしていた。
「何をしているの! 貴方たち」
 木野マネージャーの声が三人の間に切り込んできた。小山さんは拳を握り締めたまま震わせている。
「謝らないから」
 睨んで言われた。
 木野さんが僕の肩をつかんで、振り返させる。
「駄目ね。今日の撮影は中止よ。2、3日は使えないわ。小山さん、あんまりよ」
「けど!」
「悪いのは僕だから・・・」
 力なく立ち上がって、フラフラとスタジオを出た。
「ショウ! 待ちなさい!」
 木野さんが呼ぶ声が聞こえたけれど、僕は通りに飛び出した。
 何もしたくない。もう、何もしたくない!
 夜の通りは人の渦だった。口の端を切って薄く血を滲ませていても、誰も気にしない。こんなに人がいるけれど、僕は独りぼっちなのだった。
 人とぶつかろうが、僕は気にせず、真っすぐに歩いていた。肩が当たっていく。けれど僕は一人だ。
「気をつけろ!」
 怒鳴り声が耳を素通りしていく。僕が悪いのか? 僕のせいだけなのか? 皆悪いんじゃないか! 僕だけじゃない!
 わかってくれない忍が悪い! 忍を捨てておきながら、僕のせいにする恵が悪い! 人の前で仕事中にからかいあっている小山と聖夜が悪い! 僕にプロ意識を押しつけるマネージャーが悪い!
 そして・・・僕が一番悪い・・・
 望んではいけないものを望んだのだから。今あるものだけで十分のはずだったのに、それ以上を望んだのだから。
「将道! 怪我したの!」
 グイッと腕を掴まれた。視線をめぐらせると、忍が目を見開いて立っている。
「しの・・ぶ?」
「どうしたの?」
 立ち止まる二人が人の中に飲まれていく。忍の背中に誰かがあたって、2、3歩よろけている。腕の中に、倒れかけた忍を抱きとめた。
「ごめん・・・」
 忍が手を支えに離れようとするのを僕は力一杯抱き締めた。
「将道?」
 狼狽えて普段より高い声で呼びかける忍。
 夢なのだろうか?
 いや、忍が僕の名前を呼んでいる。呼んでいて、なのに僕の腕の中から逃げようともがいている。
「好きなんだ。愛しているんだ、忍。おまえだけが」
 忍が体を堅くするのがわかった。
 これで終り。
 すべて、終り。
 明日からはまた脱け殻の僕が生きていくだけ。
 僕は忍を突き放して、歩き始めた。
「将道!」
 僕を呼ぶ声に振り返る。忍の薄い栗色の髪が、人の間から見え隠れしている。
「好きだ、忍! こんな馬鹿のことなんか、早く忘れてくれ!」
 僕の叫び声は、人の波に呑まれていった。もう薄い栗色の髪も見えない。見えなくなってしまった。
 僕は走った。忍の蔑む瞳が追いかけてくるような気がして、逃げるように走った。
「まさみちー!」
 遠くで忍の呼ぶ声が聞こえた気がしたけれど、振り向けなかった。
 
 
 マンションに帰りついて、僕は着替えた。トレーナーとジーンズ、革のジャンバー。ヘルメットを持って、バイクを出す。
 エンジンをかけて、3度空吹きをする。そしてその勢いのまま道路に飛びだした。
 マフラーを唸らせて、エンジンが叫ぶ。狂った僕の心のような、闇を裂く叫び声のように。
 タコメーターが、異様な回転を知らせている。
 スピードメーターはレッドゾーンに揺れている。
 バイクは真っすぐに走っていく。ただ真っすぐに。曲がりきって、間違えた道を進む僕を嘲笑うように、真っすぐに走っていく。
 忍! 叫ぶ声はエンジン音が消してくれる。
 忍、流す涙は風が払ってくれる。
 僕は一人だ。一人っきりだ。もうなにもない。
 すっきりしていいじゃないか。そうさ、なにもなければ、失う恐怖に怯えなくていい。
 忍!
 叫んだその時、目の前を白いものが横切った。
 力一杯両手を絞ってブレーキを引く。ハンドルをとっさに左に切って、白いものを避けた。スピードに耐え切れず、車体が滑って、僕は投げ出された。
 死ぬんだ。そう、命の終り。こんな楽な終り方があったなんて、ラッキーかも。神様がくれた僕の幸福。
 左の目の下がピリリと痛んだが、これがこの世との別れの痛みなんだろうと思った。
 真っ暗な果てに取り込まれた。
 
 

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