目が覚めた時は、白いベッドの上。痛みは感じないけれど、霧がかかったような世界の中にいた。
「わかりますか?」
 白い服を着て、白いマスクをした人が聞いてくる。
 声が出せない。
 仕方なく首を縦に動かした。とたんに妙な痛みが走った。
「ああ、痛みますか? どこが痛むか、言えますか?」
「肩と・・・手と・・・足・・・」
 掠れた声が自分のものでないような気がする。
「そうですね。でも、奇跡的に折れてはいないんですよ。よほど転び方が上手だったんでしょう」  
 変な感心をして、医者は僕の目を見て、脈をとって、口の中を見て、出ていった。
 入れ代わりに母さんが入ってきた。
「将道・・・」
 泣いている。参ったな・・・
 その日は痛み止めを射ってもらって、また眠った。事故をしてから、約30時間を寝ていたらしい。
 次の日、警察が来た。事情徴収を受けて、退院後の出頭を申し渡された。
 たぶん、免許は取り消されるだろう。
 事故を目撃していた人の証言によると、僕は白い犬を避けようとしたらしい。犬は事故を免れて、僕は怪我をした。
 転んだ様子と、バイクの状態から、かなりのスピード違反をしていたことは明白で、自損だけですんだことが、せめてもの救いだった。
 午後からは、木野マネージャーが来た。きれいな花束を持ってきてくれて、部屋の中が一気に華やかになった。
「鏡は見た?」
 僕は頷いた。朝起きてすぐに鏡を見ていたから。
「その傷は?」
 僕の左頬のガーゼを見て、言う。
 僕は首を振った。
「普通の男だったら、傷が出来ただけですんだんでしょうけれどね。ショウは・・・その傷は残るらしいわ」
「すみません」
 僕は素直に謝った。今まで、いろんなことで怒られても、素直に謝れることなどなかったけれど、今は言えた。
「謝られても、困るわ。今は体を治すことを考えて。仕事は事務所の方でやり繰りできるから・・・モデルを続けるかどうかは・・・契約のことも含めて、退院したら話し合いましょう」
「はい」
 入院は1週間くらい。事故の激しさに比べて、怪我は大した事無く、2、3日は打ち身の部分が痛んだけれども、その後は退屈なものだった。
 でも退院すれば、警察にも行かなければならないし、モデルクラブとの話し合いもあるだろう。そのことが気が重い。
 入院生活も後一日を残すという日だった。ノックの音とともに現われたのは、忍だった。
「将道」
 忍は痛々しそうな目を、僕に向けた。惨めで、情けなくて、僕はその気持ちをそのまま忍にぶつけた。
「何しに来たんだよ。帰れよ」
 3人部屋の他の患者達が、わざわざ視線を外しているのがわかって、僕は忍を病院のロビーまで連れていった。
 診療時間外なので、そこはひっそりしていた。
「帰れ。帰ってくれ」
 ロビーの椅子に座って、忍を見ずに言った。
「あの後事故をしたんだろ? 将道」
「だからって、おまえに責任取れなんて言わないよ。帰れ」
 僕は忍を見れなかった。見ればきっと縋ってしまう。助けてくれと言ってしまう。
「僕が来たら、迷惑だった?」
「ああ」
「そう」
 忍が立ち上がるのがわかった。そうして僕はとり残されるんだ。
 フワリと、膝の上に柔らかな薄い栗色の髪がのっかった。
「?・・・!」
 忍が椅子に座っている僕の膝に頭を乗せたのだ。僕は狼狽えて、手を宙に泳がせていた。
「将道、あの時に言ったことは、ウソだったの?」
「あの時って?」
 喉がカラカラになって、声が擦れていく。
「口の端を怪我していたじゃないか」
「あれは・・・」
「呼んだのに、振り返ってくれなかった。呼んだのに・・・僕も好きだって言おうと思ってたのに・・・」
「え?」
 不意に忍が顔を上げて、僕を見上げた。僕は身を引いて、けれど背中が椅子にぶつかって、逃げ出せなかった。忍がいて、立ち上がれない。
「僕も将道が好きだったのに。将道が卒業して、僕を避けるようになって、どんなにつらかったか、将道にはわからないだろ? 3年ぶりに街で声をかけてもらって、僕がどれほど嬉しかったかなんて、将道は少しも考えてくれないんだ?」
 必死の目が僕に訴えてくる。ロビーの薄明るい照明で、瞳が薄蒼く濡れて見える。
「将道が恵と会ったことを聞いて、どれだけショックだったかわかる? 将道にじゃない、僕は恵に嫉妬したんだ。女っていうだけで、あんなに簡単に将道に接近できる。僕は・・・僕は・・・友人という言葉で我慢しなけりゃならなかったのに!」
 僕の膝の上に置いた手が、震えている。わかる。忍は泣きだすのを堪えている。
「恵のことは、きちんとしてきた。可哀相だけれど、言ったんだ。僕が将道のことを好きだったこと。もう僕達の顔も見たくないってさ」
 再び、忍は僕の膝に頭を乗せた。閉じた目蓋の縁が少し濡れている。
「僕が悪かったんだ。将道のこと忘れられなかったのに、彼女から言われて、付き合ってしまった。僕が悪かったんだ」
「違う! 忍が悪いんじゃない!」
 僕は自分を責める忍が堪らずに、忍の頭を抱えるように抱き締めた。
「僕が・・・あの時忍の腕にいた彼女が憎らしくて、僕は・・・奪ってやるって・・・忍を僕のものにするんだって・・・だから、彼女がふらつくように仕向けたんだ。僕だ・・・悪いのは僕だ・・・」
「僕達は、同じ想いを持っていたのに、別れていたんだ・・・」
 僕は体を起して、忍の頭を両手で包んで、僕を向かせて・・・告げた。
「帰ってくれ・・・忍」
 忍が何故という目で僕を見た。
「僕にはもう何もない。何も残っていない。もう・・・事故の処理も、しなくちゃならない。モデルも・・・この傷は残るんだ。仕事も続けられない。学校だってろくにいってなかった。順調に卒業できるとは思わない。忍のことを守るものは何もない・・・だから、ここからなら忍は引き返せる。帰ってくれ。人を踏み台にしたエゴイストの幸福の上に、忍を立たせたくない・・・」
 忍はとうとう涙を流した。そして首を激しく振った。
「一緒にいたい。もう離れたくない。将道の気持ちが僕の元にあるなら! また僕のこと放り出すの? また・・・何もないって? だからそれがなんなの? 将道はいつだって将道じゃないか! 何にも変わらないよ!」
「帰るんだ・・・忍。僕達は一緒にいてはいけない・・・お願いだから、帰ってくれ。僕は・・・こんな自分勝手な自分のまま、忍を手に入れたくない。このままだと僕はきっと忍を傷つけて、取り返しのない所に堕としめてしまう。だから・・・帰ってくれ」 
「嫌だ! 嫌だ!」
「僕は自分のまちがいに気づいた。今、忍の顔を見て、気づくことが出来た。忍から何も奪いたくない。奪い尽くして自分のものにするなんて・・・なんて、まちがった愛情だったんだろう・・・そんなの愛じゃない! 愛情じゃない・・・僕は生まれ変わりたい・・・忍のために・・・忍を好きだという気持ちは変わらない。その自信はある」
「待ってていいんだね?」
「駄目だ!」
「どうして! 変わらないんだろう?」
「忍は幸福になってほしい。僕の傍にいちゃいけない。僕は忍を圧し潰す愛情しか持てない。きっと同じ過ちを犯すんだ。だから、ここから帰って・・・忍は僕のことを忘れるんだ」
「嫌だ。嫌だーっ!」
 僕の腕を痛いほどつかんで訴えてくる。だけど僕は気づいた。忍を本当に愛するなら、ここで流されてはいけないことに。
「帰るんだ。帰ってくれ! もう、さよならしよう。いつか・・・いつかまた街で会ったら・・・よお、なんて声を掛け合おう。きっと懐かしく会える日が・・・そんな日がくるさ・・・な?」
 僕は立ち上がって、忍も立ち上がらせた。そのまま、忍の背中を出口向けて押す。
「帰ってくれ。もう、会わない・・・」
 忍が頭を振る。
「帰るんだ」
 僕は震える背中を強く押した。
 忍は泣きながら、出ていった。その背中を見送りながら、僕は不思議と穏やかだった。
 追って抱き締めたい。その気持ちは変わらない。
 けれど、あの頃のように、忍を自分のものにしたいという、馬鹿な独占欲は感じない。
 あの頃はただ自分がギスギスした気持ちで愛情を履き違えて、両刃の刃のように、自分を傷つけ、周りの者を傷つけ、大事にしなければいけないはずの忍をさえ傷つけていた。
 それじゃいけない。忍を愛する資格を持たないのに、ただ必死で愛し続けていた。そしてまちがった。
 多分、忍以外の者に愛情を持つことなど出来ないだろう。一生忍だけを愛し続けるだろう。
 それもいいじゃないか。馬鹿な男の一生もこの世の中にあってもいいさ。
 忍。
 振り返ってみると、忍の影はもうどこにも見えなかった。
 失ってしまった。永遠に。
 けれど、僕はもう自分を見失わない。
 
 
 あれから、5年が経った。
 退院してからは、予想してた通り忙しかったけれど免許の取り消しはなんとか免れた。モデルの仕事は、頬の傷が残って、辞めることになった。契約期間が残っており、違約金はそれまでの少しばかりの貯金と、車を売ったお金と、マンションを出るときの敷金の残りでなんとか払った。
 モデルを辞めて、長かった髪もバッサリ切った。生まれ代わりの儀式としてはありきたりすぎるけれど。
 大学はやはり1年間ダブってしまい、2年かかって卒業となり、司法試験も一浪の後、合格し、今は自宅から通える、弁護士の事務所で勉強中だ。
 頬の傷は大学を卒業した時に形成手術を受けたけれど、まだ薄く残っている。
 忍のことは、どうしているのかわからなかった。高校の時の友人たちとは、その後もあまり付き合いがなかったから。
 毎日が慌ただしく過ぎていき、僕はその中に自分を置くことで、胸の中の寂寥感を感じないようにしていた。
 女性との出会いや、紹介してくれようとする人がないことはなかったけれども、僕はやはりその気にはなれなかった。
 忍。
 やはり、忍の存在は大きい。他のもので埋めることは出来なかった。
 だから、僕は忍を愛し続けるだろう。それでもいい。愛するものを手にすることはなくても、この気持ちに偽りはないから。
「山口さん。法律相談の方が見えてます」
 事務の女の子が僕を呼びにきた。法律事務所では、法律相談の窓口を設けている。1時間単位で行なわれるそれは、低料金で簡単な法律に関するアドバイスをする。
 たいていが僕の仕事になる。僕のような新米弁護士は、法廷に立ったって、戸惑うばかりだし、相手弁護士や検事側との駆け引きなんて、まだまだ出来ない。
 法律相談は新米にとっては勉強になるし、すべてがそうとは限らないけれど、それが結局依頼に結びつくこともあって、馬鹿にできない仕事である。
「今日は、何?」
「著作権に関する相談ですって。金髪の美男子よ」
「おいおい、日本語だろうね?」
「大丈夫。日本語でした」
 第二応接室よ、と言われて、僕はその部屋に向かった。
 ノックをすると、ハイと聞こえる。なるほど、日本語だ。
「失礼します」
 部屋に入ると、背中を向けた相談者の肩から上が見えた。結構長身の方だ。金髪と女の子が言っていたけれど、金髪ではない。薄い栗色のようだ。
 ソファーの横を通り過ぎて、相談者の前に座って顔を上げて、僕は手に持っていた、六法と書類を手から落としてしまった。
 バサッと音をたてて落ちる本。散らばる書類。向かいに座った人は、グレーの瞳で微笑んで、茫然とする僕の代わりに、本を拾い、書類を集めてくれた。
「初めまして。今日は相談にのって頂きたくて、やってきました。作家名は、エリフ・サエキです」
 そう自己紹介して、名刺を差し出す。大手出版社と契約をしているのだろう、その社名が右肩に印刷されている。
「ああ、法律相談だと、本名の方がいいですよね。でも、本名は知ってくれているでしょう? 山口将道さん」
「忍?」
「会いたかった、将道」
「どうして」
「ずっとこの日を待っていたんだ。あの日、病院から追い出されて・・・」
「ああ、ちょっと待て。相談は、なんだ?」
「相談? 相談なんて、いつでもいいよ」
「そうか、じゃあ、待っててくれ。この後の調整をしてくるから」
 立ち上がって部屋から出ていこうとする僕の腕を忍がつかんだ。怯えたような目をしている。
「大丈夫。すぐに戻ってくる。この後の仕事を代わってもらうだけだから。ここで話したくないだけ」
 それでも縋りついてくる手を上から包んでやった。
「もう、帰れなんて言わないから。ここで待ってて。すぐに戻ってくる。今日はこのまま帰れるようにしてくるから。ああ・・・忍の都合さえ良ければ、だけど?」
 やっと手を離した忍をまた座らせて、僕は所長に久しぶりにあった友人だったことを告げて、早退したいことを申し出た。
 所長は快諾してくれた。
 部屋に戻り、忍を連れて僕は通りに出た。
 駐車場に停めた、ファミリアの助手席に忍を乗せた。
「くるま、替えたんだ」
「ソアラはあれからすぐに売ったよ。これは仕事を始めてからどうしても必要になって、中古を買ったの」
「へえ」
 車を走らせて、僕は自宅に忍を連れて帰った。
「おばさんは?」
「昼はいつもいないよ。気のあった友達たちと、いろんな所に出かけてる。今日は・・・歌舞伎とか言ってたな」
「マンションは?」
「今はずっとここで暮らしている」
「そう・・・」
 部屋に通して、僕はコーヒーを入れる。夜中に勉強する癖がついていた浪人時代から、部屋で入れられるように、セットが揃っている。
「忍、作家になっていたんだ」
 コーヒーを渡して、聞いた。
「うん、翻訳と、あと少しずつ自作もしている」
「すごいな」
「そうでもないよ。今はまだ雇われ作家だから」
「それで著作権のことで?」
 カーペットを敷いた床の上に直接座って、忍と向かい合わせに座った。
「うん。そろそろ独立したいと思って」
「じゃあ、出来るかぎり、力になるよ」
「うん・・・」
 こんなことを話したいんじゃない。二人ともそれはわかっていた。でも、戻ってはいけない。お互いに歩き始めた道は、大きく離れている。
「僕は待っていたんだ。将道に会える日を」
「忍。5年が経った。もう、二人とも変わっただろ?」
「将道は、もう・・・僕のことなんか、忘れていたんだね・・・迷惑だっただろ? ごめんな・・・」
 俯いた忍の表情がよめなくて、僕はどうしていいのかわからずに、黙ったいた。言うべき言葉が見つからない。
「迷惑はかけたくないから、帰るよ」
「迷惑じゃない。忍の力になりたいよ」
「でも、将道の気持ちは変わったんだろ? 僕にとってこの5年は何も変わらなかったのに・・・僕は5年前のまま凍った時間を過ごしていたのに・・・」
 ポトッと何かが忍の膝の上に落ちた。布に吸い取られて、黒い染みになる。
 ポトッ、ポトッと染みは広がっていく。
 涙・・・
 忍は肩を震わせて、泣いていた。
 僕は立ち上がった。立ち上がって、忍の横に膝をついて、忍の肩を抱いた。
「うっ・・・うぅ・・・」
 忍が堪えきれずに、声を洩らして泣く。
「忍・・・いいのか? 僕でいいのか?」
 泣かせたくない人なんだ。忍だけは泣かせたくない。5年前に誓った想いを僕は再会してすぐに破ってしまった。
「まさ・・み・・・ち・・」
 しゃくり上げる合間に、忍が僕を呼ぶ。
 僕は答える代わりに、忍を思いきり抱き締めた。
「会いたかった。忍に会いたかった。けれど会ってしまえば、また忍を傷つけてしまいそうで、会えなかったんだ」
 正直な気持ちを告げる。こんな日を迎えることが出来るなんて、思いもしなかった。
「僕は・・・傷・・ついたなんて・・・思って・・ない・・・傷ついたって、いうなら・・・病院で・・将道に、追い出された・・・あの時・・だけだ」
「忍」
 僕は抱き締めていた手で、忍の顔を包んで上を向かせた。色素の薄い、肌。涙に濡れた瞳。男にしては赤みの強い唇。
 その唇に、僕の唇を重ねた。忍の体が小刻みに震えている。宥めるように、口をあわせる。
 僕は舌を挿しだし、忍の舌を辿る。もう、悲しまなくていい。僕は放さないから。
 唇を離して、忍の体を抱き締めた。
「将道はあの時振り返った。僕は見たんだ。将道は振り返って僕を探した。だから、その時決めたんだ。きっとまた会える。会える日がくる。その日のために僕は待つことを決めたんだ」
「忍」
「5年間、僕はあの日のまま過ごしてきたんだ。将道と会う日のために。去年、司法試験合格者の中に将道の名前を見つけて・・・探した。探して、探して、やっと見つけた。見つけた!」
「……忍」
「もう、放さない。離れない。将道の傍にいる」
 僕は忍をただ抱き締めた。その存在を確かめるように。
 永い時の階段を上ってきた。
 けれど、それは僕達には必要な階段だっただろう。あの時、こうしていたなら、今頃・・・考えるだけでも恐ろしい。
 今、この手の中に忍がいる。確かな手応えがある。僕はもう間違えない。自信がある。
「忍、愛している。5年間、一度も忘れたことなんかなかった。もう、いいよな。忍のこと、僕のものにしてもいいよな?」
「将道」
 僕は忍をベッドに横たえた。
「髪、伸びたな」
 忍の肩まで伸びた髪を指に絡めた。
「将道に会うために、去年から伸ばし始めたんだ」
「きれいだ・・・」
 僕は忍の髪に顔を埋めた。忍の手が僕の頭を抱く。
 もどかしく忍の服を剥いで、僕は忍を抱いた。忍がこの手の中にいる。もう、悲しみに沈む日はこない。