再会してから、忍と二人で初めて会ったのは、休暇の初日の土曜日だった。
「前はよくこうして出かけたよね」
 忍は屈託なく笑っている。
「前は車じゃなかったけれどな」
 僕も楽しくて、笑う。忍には悟られてはいけない。これから僕のしようとしていることを。
 けれど、楽しい。忍と二人でいることが、幸せで尚更欲しくなる。忍が。
「いい車に乗ってるなー」
 僕の車を最初に見た時から気に入っているらしい。
「バイト代でやっと買ったんだ。いい車って言ったのは忍くらいだよ。ソアラなんて地味だって、散々言われた」
「地味ー!ソアラが?」
「そう」
「やっぱりみんな派手なんだろうなー」
「中にはそういう人もいるけれど、みんながそうじゃないよ。こんな地味な奴だっています」
 ふざけて言うと、忍も吹き出して笑っている。
「でも、本当はバイクに乗りたいんだ」
「危ないよ」
「マネージャーと同じこと言ってる」
「マネージャー?」
「そう、怖いおばさんだよ。怪我したらモデルを続けられないって、すごい慎重な人。バイク禁止令を出されたの。それで車を買ったんだよ」
「へー。色々あるんだね。バイクは売ったの?」
「まさか。命より大切なものだから、きちんと手入れして・・・ときどき内緒で乗ってるの」
「ばれたら怒られるよ」
「こんなこと言ったの忍だけだからな。忍が言わなければ、ばれない」
「じゃあ、言わない」
「助かります。口止め料は、何が欲しいですか?」
 こんな他愛無いやり取りが楽しくて、僕は忍をあちこち連れ回した。
「また会おうな」
 忍の家の前で、僕は少し淋しさを感じて、そう言った。
「うん、楽しかった。またいろんな所、連れてってよ」
「忍、バイクは嫌か?」
「タンデム?」
「そう」
「嫌じゃないけど、怒られない?」
「忍がばらさなけりゃね」
「じゃあ、バイクでもいいよ」
「また電話するよ」
「うん、じゃな」
 ドアを開けて忍が出ていく。僕は車をスタートさせて、煙草を取り出し、火を点ける。忍は昔から気管が弱くて煙草が駄目だった。いつも出かけた先で苦労していたのを思い出して、今日一日を我慢していたのだ。
 ゆっくりと吸って、味わい、吐き出す。
 行き交うヘッドライトに浮かび上がる、さっきまで忍が座っていた助手席。
 忍・・・愛している。
 そんなことを言われたなら、どうする?
 困るだろうね。でも、僕は言うよ。そのためにもう歯車は動きだしている。明日は彼女に会うんだよ。どうする?
 忍・・・ 忍・・・
 夜の中を車は滑っていく。僕はその中を漂っている。
 
 
 片岡恵は、またあのヒラヒラのブランドの服で現われた。多分そうなるだろうと予想していた僕は、すごくアンバランスになると思いながら、ソフトスーツを着ていた。
 彼女の優越感を刺激するように、薄いサングラスをかける。
「ショウとデートするなんて、夢みたい」
 会ってすぐにそんなことを言っている。『ショウ』じゃなくて、有名人とだろ?と思いながら、苦笑してやる。
「忍に知られたらどうなるの?」
「嫌だー。ばれないわよ。忍くんはね、きっと他に好きな人がいるのよ」
「そんなこと言っていいの?」
 内心の動揺を隠して、笑った。
 忍に他に好きな人がいる?
「いいの。きっといると思うのよ」
 そんな、誰だろう。この子が恋人でなければ、僕には知りようもないのではないだろうか? いや、そうなら、この子のことはさっさと終わらせて、忍に確かめる他ないんだ。
「どうしてそう思うの?」
「だってね。付き合ってくださいって言ってから、もう半年になるのに、何もしてこないの」
「きみから言ったの?」
「そうよ。忍くんはずっとフリーで、みんな狙ってたんだけど、わたしが最初にそう言ったの。あっさりいいよって返事してくれたんだけど、全然進展しないのよねー」
「あいつは昔から奥手だったから」
「やっぱりねー。でも、ものたりないんだ」
 恵は時々僕に視線を向けながら、そんなことを言っている。簡単だ。僕もサングラスを取って、応えてやる。
 あの時忍にしていたように、腕を組んでくる。
 忍、僕は罪悪感なんて感じないよ。きみの心に違う人がいるなら、僕はその人を突き止めるまで、追いかけるだけだ。恵とはこれで終わりだよ。
 食事の後、恵のいうままに家まで送ってやる。グズグズと車を降りずに、何かをねだるような彼女に、何をすればいいのか分かりながら、僕は忍のことをちらつかせた。
「今日のことは、忍には内緒だろ?」
 つらそうに言うことくらい簡単だ。
「わかったわ」
 彼女はそう言って、車を降りた。
「また電話してね」
 それが彼女の別れの言葉。
 僕から電話したことなど、一度もないよ。間違えないで。
 マンションに戻って、入浴を終えると、忍から電話が入った。
『将道? 僕・・・』
「忍? どうしたの?」
 何だか元気がないような気がして、心配になって聞いた。
『別れようって、言われたんだ』
 恵の行動の速さに驚いてしまう。もう、忍に言ったのか。
「どうしてか、聞いたのか?」
『他に好きな人が出来たんだって』
 なんと正直な女なんだろう。
「そんな女のことなんか忘れろよ」
『うん、でも、あんまり急だったから』
「相手のこと聞いたのか?」
『そんなこと、聞けないよ。そんな人がいるとは思わなかったんだけどな』
 ほっとする。安直な彼女のことだから正直に僕のことを言ったのかと思ってしまった。
「そんなに落ち込むなよ。またいい子がいるからさ」
『それが、あんまりショックじゃないんだなー。自分で自分が嫌になっちゃう』
「まだ実感がわかないんじゃないか? なあ、どこかパーッと気晴らしにでも行かないか」
『そうだなー。行こうかな』
「ああ、僕はいつでもいいけど? 今週一杯は休みなんだ」
『大学は?』
「大学はいつでも、休みみたいなもんだよ。法学部は4回生の方が忙しいから、今のうちに遊んでおくの」
『変な理屈』
 電話の向こうで、クスクスと笑っている。その笑顔が目に浮かんで、僕は手を伸ばしたくなる。
「そうか?」
 僕も仕方なく笑う。
『僕は水曜日があいてるんだ』
「じゃあ、水曜日に。迎えにいくよ」
『うん、待ってる』
 忍の心の中にいる人。それは誰だろう?
 恵にふられたことがさほどショックではないという。女の勘は変な所でよく当たる。きっと、誰かがいる。けれど、忍だってはっきりしていないようだ。その人物がはっきりしているなら、忍のことだ、他の女性と付き合ったりしないだろう。
 誰なのだろう?
 離れている間に、忍の心には誰かがすみついている。
 以前なら、一番近くにいたのは僕で、忍の心に触れられたのも僕だけだった。なのに、今はつかめない。馬鹿な選択をしたために、見えなくなってしまった。
 自業自得というやつだろう。
 だから、僕は再び手に入れる。今度は間違えない。けれど、再び親友という位置に甘んじないために、僕の道は始まったばかりだ。
 月曜、火曜と恵から電話があったけれど、僕は出なかった。彼女はいつも決まった時間に掛けてくるので比較的簡単に避けられる。
 忍と別れたことを報告したいのだろう。けれど僕こそ、彼女にもう会うつもりはない。
 彼女は大切なものを手放したんだ。目の前にぶらさがった、僕という珍しいものに、目が惹かれたというだけで。
 後になって悔やむだろう。その気持ちなら僕には理解できる。僕は3年間、その気持ちを持ち続けていたのだから。
 電話には出ないよ。
 
 
 水曜日、僕は愛車のRF−900を出す。一週間に一回くらいしか、今は乗れない。本当は乗らない約束だったけれど、僕にはこの愛車を手放すつもりはなかったし、たまには乗らないと、バイクが痛む。
 ヘルメットをもう一つ用意して、スタートさせる。
 エグゾーストの音が道路を疾走する。
 風をつかまえるのは、こんな時。
 忍の家の前で、僕はマシンを停めた。忍が音に気づいて出てくる。
「どこに行く?」
 ヘルメットを渡して、聞く。
「どこでもいいよ。高速はのれないんだろ? だったら、近場になるよな」
「ああ、湖なんかはどうだ?」
「いいね」
 忍を後に乗せて、エンジンをかける。
「しっかり掴まってろよ!」
 声をかけて、スタートさせる。
 このバイクのタンデムシートに人を乗せたのは初めて。誰も乗せないと決めていた。
 そのシートに忍を乗せる日がくるなんて、夢にも思わなかったこと。いや、実際に忍とタンデムする夢なら見た。けれど、その夢はいつも途中で気がついたら、忍が乗っていなくて、僕は必死で探している。そんな所で目が覚めるのだ。
 けれど、今日は背中に忍を感じている。腰に回された手が、僕を頼りにしっかりと握られている。
 バイクは国道沿いを抜けて、山道を上り始めた。いつもなら疾走していく所だが、今日は後が気になって、慎重にハンドルを握る。
 目の前に湖が姿を見せる。小さな湖だけれど、晩秋の柔らかな陽射しに、湖面がキラキラ光っている。
 レストハウスにバイクを停める。
「きれいだねー」
 忍は無邪気に、湖を見ている。
 忍の薄く栗色がかった髪が、光の反射で、金色に見える。こうしていると、半分でも日本の血が入っているとは、思いにくい。
「もったいないな」
 思わず口に出して言っていた。
「何が?」
 忍が聞きとがめる。
「髪の毛。どうして切ってしまったの?」
「うーん、どうしてかな。髪の毛を誉めてくれる人がいなくなったからかな」
「それ、僕のこと?」
「うん。将道はいつも誉めてくれてた。だから、いい気になって、先生に怒られながら、ぎりぎりまで伸ばしていたんだ」
「へえー、知らなかったな」
 忍が振り返る。逆光になって、シルエットだけが見える。手を伸ばせば届くだろう。そうすればどうなるだろう?
 今になっても、迷う僕がいる。
 忍はあまりにも僕の中で大きくなりすぎている。
「寒くないか?」
 僕が声をかけると、
「寒いね」
 近づいてくる。
「バイクだとさ、コートは駄目だろ。あわててブルゾンをひっぱりだしてきたんだ」
「そうか、悪かったな」
「ぜんぜん。スカッとする。みんなが走りたがる気持ちが、何となくわかったな」
「忍はバイク向きじゃないな」
「えー、どうして!」
「スカッとする人は、乗らない方がいい。そういう人はスピード狂のことが多いよ」
「本当か?」
 疑わしそうな目で見つめている。その目がだんだん笑いに変わっていく。二人で笑える日が訪れた、また。
 駄目だ。弱くなる。あの決心が鈍る。また親友という言葉で、流されてしまいそうになる。この笑顔を失いたくない。一生親友でいればいい。
 駄目だ。そのことなら、もう何度も繰り返した問いだったじゃないか。
 親友でいられない。親友という言葉で我慢できない。けれど、思いを打ち明けて、軽蔑の目で見られることが恐くて・・・だから、離れた。
 駄目だ。また同じ過ちを犯すのか?
 僕は自分で選んで、また岐路に立ってしまった。
 ……友情か、……愛情か。
 馬鹿だ。馬鹿だ。大馬鹿野郎だ。
 なら、最後まで馬鹿になればいい。それしかない。
「どうしたの? 将道?」
「何でもない。昼ご飯食べよう」
「うん」
 レストハウスで食べるのはちょっとな、ということで、またバイクを走らせて、峠の途中のレストランに入った。
「母さんに頼んでさ。将道の載っている雑誌を買ってきてもらったんだ」
「えー、なんていう雑誌だよ」
「名前は忘れたけれど、ファッション雑誌だったよ。ジャケット特集とかで」
「ああ、夏に撮ったやつだ」
「夏?」
「そう」
「夏に撮ってるの?」
「そうだよ。今は来年の春夏コレクションの仕事が入ってる」
「春夏!」
 一々驚いてくれるので、おかしくなってしまう。
「夏に長袖を着てあったかそうな顔をして、冬に半袖を着て涼しそうな顔をするのが僕の仕事なんです。可哀相でしょ?」
「でも、写真の将道は別人みたいで怖かったよ」
「そうか? 笑ってただろ?」
「でも、将道じゃないみたいだ」
「あれはね、僕じゃなくて、山野将っていうモデルだから」
「何だか、嫌だな。僕の知らない間に、将道が変わっていくのって」
 俯いて、頼りない声でそう言った忍。
 思わず言いかけた言葉を喉元で止める。
「変わってないよ。僕は少しも、変わってない。忍の目の前にいる将道は変わってないだろ?」
 僕が覗き込むようにして言うと、やっと顔を上げて笑いかけてくる。
「そうだね。あれは仕事の顔だよね」
「そうそう、色々注文をつけられるんだ。泣いてみろって言われて、反対に相手を泣かせたこともあるよ」
「将道らしいー」
「そうだろ?」
 二人で過ごす時間が大切で、その他のことなんて、構っていられない。
 もう引き返せない。
 もう、逃げられない。
 
 水曜日、木曜日と僕は恵からの電話を避け続けた。
 忍とは、今まで会えなかった分を取り返すように、電話をし、休み最後の土曜日に会う約束をした。
 3年の月日を埋めるんだ。何としても。
 けれど、笑顔の中に居たくて、つい挫けそうになる。このままでいいなんて思いそうになる。
 そのたびに思い出す。あの辛い日々を。
 忍は、モデルの時の僕の顔が怖いと言っていた。そりゃそうだ。忍から離れてしまって僕は失意の中にいた。何もかも楽しくなくなって、カメラを向けられて笑っていても、笑えない、嫌味な笑いしか出来なかった。
 
 
 金曜日に、僕は恵の電話に出た。
『どうして電話をくれなかったの?』
 避難するような口調に苛立ってしまう。
「僕は番号だって知らないよ」
 今までとは全く違うトーンの声で答える。
『ウソ、ちゃんと教えたわよ』
「僕はね。何人もの女の子から電話番号を押しつけられるんだ。一々覚えてなんていないよ」
『そんな女の子たちと一緒にするの?』
「どう違うって言うの?」
『わたし、忍くんと別れたのよ!』
「僕がそんなことを頼んだっけ?」
『だって忍に悪いって、あなた言ったじゃない!』
「僕が悪いんじゃないよ。きみが悪いんじゃないのって、言ってあげたんだよ」
『ひどいわ!』
「僕から頼んだわけじゃない。いつだってきみから電話を掛けてきて、きみから誘って、きみから忍と別れたんだろ? どうして僕が酷いんだい?」
 ほとんど抑揚のない言い方。自分でも酷いことを言っているのはわかっている。わかっているけれど、ここは譲れない、勝負の山場だ。
『最低ーな人ね!』
「それは褒め言葉だね。僕にとって」
 声に出さず喉元で笑ってやる。最高の屈辱だろ?
 彼女が大きな音で電話を切る。
 そう、第一段階終了だよ。後は忍の心の中の人が誰なのかを知るだけ。僕は負けない。
 負けられない。
 
 
 土曜日、約束の時間に忍の家に、今度は車で迎えにきた。
「たまには上がっていけって。母さんが」
 運転席の窓をコツコツと叩いて、忍が呼んだ。
 僕はキーを抜いて、家に上がった。
「こんにちは。ご無沙汰しています」
「ほんとに。将道くん、最近ご活躍だったのね」
「やめて下さいよ。あれはバイトですから」
「そうなの? 忍ったらね。これは将道くんじゃないみたいに怖いって、そればっかり言うのよ。カッコいいのにね」
「僕は変わっていませんよ。忍の方が変わったかな?」
「そう? 親から見たら、何にも変わっていないんですけどね」
「うーん、高校生の時より、静かになっちゃったかな?」
「大人になったって言うんだよ。そういうのを」
 忍が主張して、和やかに時が過ぎていく。
 美味しいコーヒーとケーキをご馳走になって、僕達は車を出した。
 車を出してから、忍はあまりしゃべらなくなった。
「気分でも悪いの?」
 車に酔う方ではなかったと思う。忍は首を振っている。
「どこかで一度休憩をしようか?」
 それでもまだ首を振っている。
 仕方なく、目的地である美術館まで、僕は無言で走らせた。
 美術館では、現代印象派が集められ、土曜日ということもあって、結構賑わっていた。
「忍? 何かあったのか?」
 絵画をろくに見もしないで、人の倍のスピードで通り抜け、中庭のような場所で、僕は忍が言い出すのを待てずに聞いた。
「昨日、恵から電話があったんだ」
「昨日?」
「そう。もう一度・・・付き合ってほしいって」
「それで?」
 あの後、恵は忍に電話をしたんだ。変わり身の早さに吐き気さえする。
「断ったさ。僕にはもうそんなことは考えられないから」
「それで? 僕に怒っているのは?」
 目を合わせない、忍。何かを聞いているのだろう。覚悟は出来ている。
「怒ってなんかいないよ。その・・・迷惑だっただろ? 将道」
「迷惑?」
「彼女と一回・・・会ったんだろ?」
「・・・」
「僕も悪かったんだ・・・彼女のこと・・・真剣になれなくて・・・でも、なんて言っていいのか・・・別れることも出来なくて・・・僕は・・・利用したのかもしれないよ? ・・・将道のこと・・・」
 苦しげに告白する、忍。
「忍はそんなことしないさ。忍に黙って、彼女に会ったことを忍は僕に責められなくて、そう思うんだ。僕を責めればいいよ」
 違う、こんなことを言いたいんじゃない。もっと、忍のことを考えてあげたい。忍の苦しみに、僕は謝りたい。
「どうして彼女に会ったの?」
 そうやって責めればいいんだ、忍。
「電話があったんだ。忍の彼女だから、他のファンの子みたいに邪険に出来なくて。そうしたら、会いたいって言うだろ? だから一度だけ会えば義理は果たせると思ったんだよ」
「僕のためにしたことなの?」
「違うよ。忍のためなら会ったりしない」
 どんどんずれていく会話。僕はその時大きな思い違いをしていた。忍の心の中の人に迫れる絶好のチャンスだったのに、忍に対する愛情と、罪悪感と、自分のエゴイスティックな気持ちの、ごちゃ混ぜの中で、見失っていった。僕自身さえを。
「そうだね。将道はいつも、僕からそうやって去っていくんだ」
「いつ! 僕が?」
「将道は卒業してから会おうとしなかったじゃないか! 僕を奇妙に避けて! なのに、どうしてあの時声をかけたりしたんだ! わからないよ! 構うな! 僕に構うなーっ!」
 忍の大きな声に、中庭を通り過ぎていく人たちが、立ち止まって見ていく。
「忍」
 興奮を押さえるように、忍が深呼吸を繰り返して、低い声で僕に宣告する。
「もう、電話しない。恵が言ったんだ。将道の事務所に言いつけてやるって。これ以上迷惑をかけてくれるなって、言ったら・・・もう一度付き合ってくれって言うんだ・・・」
 恐れていた宣告を受けて、僕は自分の失敗に気づいた。もう遅いけれど。
「そんなこと気にしないでいいよ・・・その・・・似たようなことはよくあるんだ。勘違いした女の子がよく電話してくる。一々取り合ったりしないから、大丈夫だよ」
「だけど、僕のせいでそんなことになるのは嫌だから・・・ここから一人で帰れるよ。楽しかった。つい懐かしくって、会ったりしたけれど、不自然だよ、こんなの」
「忍!」
「一人で帰るから。頑張ってくれよな」
 僕が捕まえようとした手は一瞬遅く、忍は駆け出していた。走れば追いつくだろう。
 だけど、追いついてどうする?
『不自然だよ、こんなの』
 忍の言葉がリフレインする。不自然・・・戻れない。一度手放したものは二度とこの手には戻らない。
 何もかも失っていくんだ・・・こうして・・・欲を見た僕が悪い。
 もう一度、親友でいれば、こんなことにはならなかったんだ。
 二度目の喪失・・・
 それは永遠の喪失・・・
 
 

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