時 の 階 段 
 
 
 
 
「雨が降るかもしれない」
 そう思って空を見上げて、急ごうと思い、視線を戻した時、その人が目についた。
 溢れる人ごみの中から、その姿が見え隠れしている。近づいてくる。まだ僕には気づいていない。
 昔長かった髪をショートにして、なでつけた様にしている。一見しただけではわからない。普通の付き合いしかしていなければ、きっとそのまますれ違っていただろう。
 けれど、僕にはわかる。あんなにも恋がれた人だから。普通の付き合いに我慢できなくて、けれど思いを打ち明けられなくて、離れていくしかないと諦めた、僕の親友と呼ばれた男。冴木、忍。
 人の波に背中を押されながら、けれど足を止めた僕に、追い越していく人たちが非難の目を向けていく。
 もう少しですれ違う。心臓が早鐘のように打つ。ドクドクと全身の血が集まるように。そして全身に散っていくように。
 人と人の中から、彼の姿が出てくる。そして気がついた。彼の腕に手を回して微笑んでいる、髪の長い女性に。
 忍も笑っている。楽しそうに。当時僕が受けていた笑顔をその女が受けている。
 止めろ! 止めてくれ!
 僕は決めた。一度はかなわないと捨てた夢をもう一度見ようと。あの笑顔を追いかけてみようと。
 もう失う不安に怯えることはない。既に一度は失ってしまったのだから。 
 
 
「忍? 忍だろ?」
 僕はさも今気がついたとばかりに声をかけた。忍の右腕をグッとつかむ。そこに集まった、全身の神経。
 忍は一瞬怯えたように僕を見て、すぐに今度は驚きに目を見開いている。母親がノルウェー人のハーフという忍の瞳は、虹彩の色が薄く、グレーがかって見える。
「将道なの? 山口将道?」
 忍が僕の名前を呼んでいる。僕は忍より頭半分高い位置から、精一杯の笑顔を送る。
「そう! 久しぶり。高校卒業以来だから、3年ぶりだよな」
「うん。将道、変わったねー」
 忍が僕の全身を見ている。面白い動物を見るような目で。その子供のような目が幼く見えて、変わっていない忍に嬉しくなってしまった。
 たしかに僕は変わっていただろう。忍とは反対に髪を伸ばし、バサバサに流している。それを今は後ろで結んでいる。
 服だって、アルバイトでモデルをしているので、自分でも街中を歩く格好ではないと思いながら、歩いていたのだ。
「恋人?」
 僕は、友人の恋人を興味深そうに見るような目で、その女を見た。
 同い年くらいに見えるが、着ている服は流行のなんとかいうブランドで、服のどこにもフリルをくっつけなければ気が済まないというような、それでいて色はくすんでいて、スカートの裾からは白いレースがのぞいている。大学の友人が彼女にねだられて、一桁違うんだぜ、とぼやいていた服だ。
「あ、うん。片岡恵さん」
「こんにちは」
 彼女が挨拶する。僕も挨拶を返した。
「あの、モデルの山野将さんですよね?」
「ええ、そうですけど?」
 どうやら、ファッション雑誌がご愛読のようだ。
「えー、将道、モデルしているの?」
 反対に忍はご愛読ではないようで、驚いている。
「久しぶりだし、片岡さんさえよければ、一緒にコーヒーでもどう?」
 彼女は簡単にOKして、僕達は近くにあった喫茶店に入った。
「今は何しているの?」
 忍が運ばれてきたコーヒーに口をつけて聞いてくる。
「今は大学生。光栄大学の法学部だよ」
「すごーい。ショウって、経歴がほとんど出てなくて、プロだと思っていたけれど、頭良かったんですねー」
 彼女が小さめの目をクリクリさせて聞いてくる。結構ミーハーかもしれない。
「よく僕のこと知ってましたね」
 仕方なく、彼女にもサービス用の笑顔を向けた。
「今人気急上昇中のモデルですもん。友達たちと、いつもカッコいいって噂してたんですよ」
「ありがとう」
 僕はカメラに送る目線を向ける。マネージャーが僕に叩き込んだ目つきだ。いつもは嫌々していたその目線をこんな所で活用することになるとは思わなかった。
 彼女は少し俯きかげんで、探るように僕を見ている。
「サインしてください」
 彼女はそう言って、ハンカチを差し出した。
 そう、その調子だよ。僕の網に引っ掛かってきて。きみが忍の手を取るのは我慢できないよ。
 このハンカチにも服と同じブランドのロゴが入っている。
「いいの?」
 僕は忍に聞いていた。今までは僕は彼女に対して、ライバル心を抱いていたけれど、それは僕の気持ちだけで、こんな展開になっては忍の気持ちが心配になってきた。
「え? いいよ。してあげてよ」
 僕は彼女の出したボールペンで、滑って仕方ないハンカチに、ショウ・ヤマノのサインをした。
「これで友達に自慢できるわ。忍くんったら全然教えてくれないんだもの。山野将が友達だなんて」
「知らなかったんだよ。将道がモデルをしているなんて」
「忍は今何をしているんだ?」
「僕は中央外語学院大学に行ってるよ」
「そう・・・」
 色々なことを聞こうと思った時、僕の携帯が鳴った。
「ごめん、ちょっと」
 事務所からの電話にでると、他のモデルが急病になったとかで、呼び出しがかかった。
「ごめん、仕事が入った」
 僕は名刺の裏に、去年から一人暮らしをしているマンションの電話番号と携帯の番号を書いて、忍に渡した。
 横から片岡恵が興味深そうに見ている。忍はそんな様子を気にしていないようで、僕から名刺を受け取った。
「良かったら、電話して」
 忍が両親と暮らしていることを確かめて、電話番号は覚えているから僕も電話すると告げて、喫茶店を出た。
 忍。やっぱり諦めるなんて出来ない。僕は奪ってみせる。きみから全てのものを。そしてきみを僕だけのものにする。
 許して、忍。
 出口で二人の様子を窺うと、彼女が僕の名刺を見ていた。引っ掛かってくるだろう。そうすれば、崩してみせる。もう二度と失敗はしない。
 手に入れてみせる。忍。
 
 
 その夜、帰ってくると、留守番電話に片岡恵からの電話が入っていた。
 こんなにも順調にいくものだろうか。マネージャー、感謝するよ。
『もしもし、今日忍くんと一緒にいた、片岡恵です。サインありがとうございました。ご迷惑でなければ、また電話します』
 迷惑じゃない。こうなることを望んでいたよ。
 僕は緊張する心を抑えながら、忍の家の電話番号を押す。
 5回目のコールで、聞き覚えのある、忍の母親の声がした。
『もしもし、冴木です』
「山口です。ご無沙汰しております」
『まあ、山口くん? 本当に久しぶりね』
「忍くん、おられますか?」
『はい、ちょっと待ってくださいね』
 オルゴールのメロディーが流れて、けれどすぐに忍に代わった。
『もしもし、将道?』
「今日は偶然で嬉しかった」
『僕も』
「帰ってきたらさあ、忍の彼女から電話があったんだよ。サインありがとうって。電話番号さ、他の女の子に教えないように言っといてくれないかな。マネージャーに怒られるんだよ」
『あ、ごめん。めぐ・・・彼女が、見せて、見せてって言うもんだから。でも、番号とか控えてなかったから、まさか覚えてたなんて思わなかったんだ、ごめんな』
「いいよ。忍のせいじゃないし。忍の彼女だけだったら、いいんだけれど、こういうのって、不特定多数の女の子に知られると、まずいんだ」
『そうだよね。ごめん』
 忍の声がだんだん小さくなっていくのがわかって、心配になってきて、僕は空白の3年間のあれこれを話して、忍のことも聞いて・・・是非また会おうと約束した。
 次の日も、留守中に片岡恵からの電話はあった。
 僕は3日目、またかかってくるだろうと、前の二回と同じ時間を家にいるようにした。
 電話が鳴る。ほぼ同じ時間。彼女は結構巧い手を使っていると思う。
『もしもし、片岡恵です』
「ああ、こんばんは。この前はせっかくのデートの邪魔をしてすみませんでした」
『いいえ、とても楽しかったです。それと、この番号は誰にも言いませんから、安心してください』
「ああ、すみません。つい、慎重になってしまって」
『わかります。でも・・・またこうして電話してもいいですか?』
「忍さえいいって言うなら、僕はかまいませんよ。きれいな女性から電話が掛かってくるのは、嬉しいですから」
 僕はなるべく甘い声を出す努力をして、話す。モデル仲間から聞いた電話の話し方は、その時は軽い奴だと思っていたけれど、聞いておくものだと、感心してしまう。
『あら、ショウは・・・あの、ショウって呼んでもいいです? いつも雑誌を見て、そんな呼び方をしているんです』
「ええ、構いません」
『ショウはいつも綺麗なモデルさんたちに囲まれているでしょう? そんな人たちから見れば、わたしなんて・・・』
「彼女たちは、仕事上の付き合いだけですから。それに化粧でいくら飾っても、中身はね・・・」
 僕は計算された、忍び笑いを洩らす。女性を優位に立たせるために、女心を利用させてもらう。
『そんなこと言ってもいいんですかあ』
 彼女も計算された、可愛らしい声で笑っている。
 お互いに騙し合っている。けれど、より騙しているのは僕だろう。彼女には忍から離れてもらわなくてはならない。
 そのために僕は囮を差し出す。僕自身という、囮を・・・
「いいんですよ。彼女たちは苦手でね。仕事でもなければ、お世辞さえ言いたくないくらいです」
『よければ、一度会ってくれません?』
「忍と三人で?」
『あら・・・いいえ、二人で・・・』
「いいんですか? そんなこと」
『忍くんには内緒で・・・』
「僕にも内緒にしろと?」
『ごめんなさい。変なこと言ってしまって』
 彼女が電話を切ろうとする雰囲気が伝わってきて、僕はそれをあわてて止めるふうを演じて、急いで声をかける。
「いいですよ。僕から言いたかったんです。忍には内緒で会ってくださいと・・・」
『本当ですか?』
「冗談では言えないでしょう?」
『はい』
 だけど、僕は今仕事が詰まっていて、しばらくは余裕がなくて残念だと、とても悔しがっているフリをして、きっと会いましょうと念を押す様にして、電話を切った。
 疲れた。
 これは裏切りになるだろうか?
 誰に対する裏切りだ?
 忍に対してだ。けれど僕は後ろめたさなんか感じない。忍を手に入れるため。そのためなら、何人の人を傷つけても構わない。
 恵に対しての裏切り? それこそ何も感じない。電話を掛けてきたのは、女の方。会いたいと言ったのも、女の方。
 僕がしたことは、喫茶店で視線を送っただけ。電話で甘い声を出しただけ。演技とも気づかないで、大切にすべき忍を裏切っているのは、彼女だ。僕じゃない。
 忍。今度こそ、諦めない。きみだけはこの手に残してみせる。
 
 
「この頃、色っぽくなったわね」
 マネージャーの木野さんが、僕を見て、しみじみと言った。
「そう?」
 さして気のない返事をすると、背中から声をかけてくる。
「恋をするのもいいけれど、あまり派手な恋はしないでね」
「そんなものはしていませんよ」
「まあ、そういうことにしておきましょう。しばらくは春夏のコレクションで忙しくなるから、覚悟をしておいてね」
「わかりました」
 木野マネージャーは、腕は確かで、自分も以前はモデルで売り出していた。
 トップモデルと呼ばれる少し前に、足を痛めて、表舞台からは下がったけれど、後輩を育てることに対しても、トップの腕前を見せた。
 ここの事務所のモデル達は、僕も含めて、彼女には頭が上がらない。
「それが済んだら、少し休みがほしいんですけど」
 僕が木野マネージャーの機嫌を伺いながら申し出ると、案の定チラッとこっちを見て言った。
「テストはまだ先でしょう?」
「そうですけれど、少しやりたいことがあるんですよ」
「バイクは駄目よ」
 僕の唯一の趣味はバイクである。けれど、怪我をすれば、即モデル生命が終わることは彼女が痛い程知っているので、いつでも釘をさしてくる。
「わかってます」
「そうね、しばらく休みを取っていないから・・・一週間くらいなら、OKよ。でも、その後はまた頑張るのよ」
「はい」
 今は晩秋だけれど、これからファッション業界は春夏のコレクションで忙しくなる。
 僕はショーの後、一週間の休みをもらった。
 
 
 忍とはあれから何度か電話をしていた。僕から掛けたり、忍から掛かってきたり、以前のような付き合いが再開される。
 親友と呼ばれる・・・・・けれど、僕は同じ道を歩むつもりはない。親友という言葉に甘んじて、けれどそれだけで我慢できなくなって、なのに思いを打ち明けることなど出来なくて、そのジレンマの中で、僕は大切なものから離れることを選んだ。 そして、後悔した。
 同じ離れてしまうなら、なぜ一度は夢見たものを追いかけようとしなかったのだろう。遠くから親友と呼ばれることで、そしていつかは懐かしく、肩を叩き合って、昔を懐かしめるなんて・・・どうして思ったりしたんだろう。
 馬鹿だ。馬鹿だった。親友で我慢できなくて、離れたのに、いつか親友で懐かしく会えることを選んだなんて。
 今度こそ、間違えない。


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