「先生! この赤ちゃん、どうしたんですか?!」
 翌朝、突然の大声で叩き起こされた。目を擦りながら起き上がると、そこにはあんじゅを抱いた、通いの家政婦の奈美絵さんが怒ったような顔をして立っていた。
「あー?」
 頭が完全に起きない状態で、説明しようと口を開きかけると、彼女は猛然と俺に言葉で攻撃を始めた。五十を過ぎてはいても、小さい頃から世話になっている俺としては、逆らう術を知らない。彼女は俺の両親の代から世話になっている女性だ。
「今朝来てみれば、こんな可愛い赤ちゃんが奥のお部屋で泣いているじゃありませんか。一体いつおつくりになったんです?」
「俺が産んだわけじゃないよ」
「当たり前です。けれど、先生の遺伝子を半分は受け継いでいるんじゃありませんか?」
「違うって、昨日の晩、道で拾ったんだよ」
「本当ですか?」
 日頃の行いがあまりにいいもんで、どうもココっていう時の信用が低いらしい。
「本当だよ。で、熱が出ていたから、診察して薬を飲ませて寝かせといたんだ」
「まあ! それじゃまだ警察には届けていないんですか?」
「警察? どうして警察に届けるんだよ」
「やっぱり、先生のお子さんなんですね」
「だから、どうしてそうなるんだよ」
「赤ちゃんを拾ったら、警察に届けるのか普通でしょう?」
「あー! 忘れてた。その子の父親だ!」
「先生でしょ?」
「違う! 違う! 本当に俺じゃない証拠の、その子の父親が俺のベッドで眠っているんだ。昨日一緒に拾ったんだって」
「え?」
「親子揃って熱出してやがんの。倒れたもんだから、注射を打って寝かしたんだ。奈美絵さん、悪いんだけど、その子のおむつ替えて、ミルク飲ませてやって。医院の方に試供品とかがごっそりあるから。その子、2ヵ月なんだ」
「分かりました。やっておきます」
 玄関を出て医院の方へ行く奈美絵さんを見送って、俺は自分の部屋を覗いた。静麻はまだぐっすりと眠っている。
 そっと額に手を置くと、まだ熱があるのが分かる。どちらかというと、赤ん坊より、こっちの方が風邪は酷いように思った。
「もう一本打っといた方がいいかな……」
 俺が誰に言うともなく呟いた時、静麻はうっすら目を開けた。不思議そうな顔で二三度キョロキョロした後、ガバッと飛び起きた。 
「そんな急に起きるとまた貧血を起こすぞ。どうせ血圧も低いんだろ?」
 俺の声に飛び上がらんばかりに驚いて、彼は僕の顔をじっと見た。
「昨夜のこと、覚えているか?」
「……あ! あんじゅは? あんじゅは!」
 頼りなく見えても、さすがは親といったところか、静麻はあんじゅがここにいないことを知ると、真っ青になって探そうと立ち上がった。けれど、熱の下がり切らない身体は、フラフラとすぐにカーペットにへたり込む結果を生んだ。
「大丈夫。今おむつを替えて、ミルクを飲ませてもらってるから。それが終ったら連れてきてやる。それよりお前だよ。まだ熱があるんだ、もう少し寝とけ」
 俺は静麻の腕を取って立たせ、もう一度ベッドに寝かせてやった。つかんだ腕は一人の子持ちとは思えないほど、細かった。
 そういえば、こいつはずいぶん若い。昨日20才になったはずだ。すると俺より10才若いことになる。
「診察するから、シャツを脱げよ」
「でも、先生は小児科の先生でしょう?」
「ああ。だけど、大人も風邪ぐらいなら見れるよ」
 俺は昨日の晩から置きっぱなしの聴診器を取り出して、静麻の診察をした。呼吸の音はきれいで、肺炎などの心配がないとわかって、とりあえずは安心した。
「待ってろ。朝ご飯の用意をしてもらってくるから。それから点滴もしとく。後で持ってくるから、それまでもう少し寝てろ」
「あの……、あんじゅは……」
「大丈夫だって言ってるだろ。通いの家政婦さんが見てくれてる。子どもを四人も育てたベテランだから、お前よりはうまいと俺は思うよ」
 それで少しは安心したのか、諦めたのかもしれないが、静麻は横になった。
 俺が朝食を摂っていると、奈美絵さんがあんじゅを連れて戻ってきた。
「可愛いですわねー。こんなにぷくぷくで。熱も測っておきましたよ。七度ちょうどでした」
「なら、平熱かもな。悪いんだけどさ、病人用の食事を作ってくれないかな」
「いいですよ。さー、パパのお食事を作りましゅよー。お利口にしててくだちゃいねー」
 後の言葉はもちろんあんじゅに向けられたものだ。
「俺はその赤ちゃん言葉はどうも好きになれないな。子どもだってきちんとした人間だぜ。どうしてそんな言い方をするかな。もっと子どもの人格を大切にしなきゃな……」
「あー、ハイハイ。そんな事を言うから先生は母親たちから嫌われるんですよ。まったく、何人泣かせて帰らせたら気が済むんですかしら。その内、逢坂小児科は患者さんが来なくなっちゃいますよ」
「願ったり、叶ったりだね。俺は好きで小児科の医者になったわけじゃない。爺さんとのつまらない賭けに負けて、この病院を継がされだんだ。見てろ、俺の代でぶっ潰してやる」
「そんな事言ってていいんですか? お母さまを泣かせる結果になりますよ」
 爺さんとは俺の母親の父親、つまり母方の祖父のことで、この逢坂小児科の先代の医者だ。自分は女の子しか作れなかったくせに、孫の俺が医者になったのをいいことに、いかさまスレスレの賭けに俺を乗せて、まんまんとこの病院を継がせてしまった。
 だから俺の名前は逢坂ではなくて、柏木という。柏木僚。
「俺が泣くのはいいわけ?」
「まったく、どうしてこんな先生が子どもに人気があるんでしょうねェ」
 奈美絵さんはつくづく分からないという調子で、作ったお粥を俺に渡した。
「あ、持って行っといて。俺は点滴の用意をするから」
「そんなに悪いんですか?」
「まー、他に子どもを見る奴がいないらしいから、早く治さなきゃと思うところもあるしな。頼むな」
「はい」
 あんじゅはその間、おとなしく寝ていた。一人にしておいて怪我でもされちゃ責任問題なので俺は左手にあんじゅを抱いて医院に点滴を取りにいった。
 
 
「きゃー、僚先生。いつのまに赤ちゃんを……」
 午前診療の看護婦の山口さんが来ていて、俺の抱いているあんじゅを見るなり甲高い声を上げた。
 まったく……。どうして発想がすぐにそこにいくんだか……。
「俺の子じゃないって。ちょっと抱いてて」
 点滴のバッグを冷蔵庫から出し、注射の用意と、アルコール綿などを用意して、補助棒を持つと、あんじゅを抱けなくなった。
「山口さん、ちょっと、ついてきて」
「はーい。さあ、行きまちょうねぇ」
 ………。
「あ、先生に赤ちゃん言葉は禁物でしたね」
 わかっているんなら止めろよ。
 
 
 部屋に戻ると、静麻は俺のパジャマに着替えて、お粥を食べていた。
「あんじゅ」
 静麻は食事の手を止めてあんじゅを抱き締めた。
 俺は山口さんを帰して、点滴の用意をし、静麻からあんじゅを取り上げようとした。
「僕はもう大丈夫ですから」
「そんな事を言ってる場合じゃないだろ。こんな身体でお前を、誰も診るものもいないところへ帰せる訳もなし、かといって、適切な処置もしないでいつまでもここに置いておくほど、俺はお人好しじゃないんだ」
「僚さん! そんな言い方!」
 どんな言い方をしたって、意味が通じるなら、それでいいじゃないかと思うのだが、奈美絵さんはいつまでたっても、俺の教育にも情熱を燃やしているらしい。この医院を継いでからは『先生』と呼んでいるが、教育的立場に立つと、昔からの呼び方が出てきて困ってしまう。
「ハイハイ。俺の言い方が悪かったです」
 渋る静麻からあんじゅを取り上げ、奈美絵さんに渡して、俺は静麻に注射をした。点滴の滴が落ちるのを確かめ、静麻にコードレスの電話を渡してやった。
「何か?」
「会社や保育園に電話しなくちゃならないだろ?」
「会社?」
「仕事しているんだろ?」
「あ……、僕は大学生で……、今は休学中ですけど……」
「子どもを育てるために大学を休んでいるのか?」
「はい」
「じゃあ、連絡を取る必要のあるところはないんだな」
「はい……。あ! でも、僕の母親に電話します。こっちにきてもらいます。それなら、あんじゅを連れて帰っても、いいですよね?」
「好きにしな。俺は診察があるから、お前の母親が来るまではあんじゅはこの奈美絵さんに見てもらえ。お前は大人しく寝とけよ」 
「すいません」
 仔犬のような頼りない目が、俺を見た。俺は奈美絵さんに後を頼んで、医院へと向かった。拾ってきた仔犬が、連れていかれるような気持ちになったのは何故だろう……。
 
 
「今日の僚先生の毒舌、絶好調。どうしちゃったのかしら」
 医院には二人の看護婦と、一人の薬剤師がいる。三人とも女性で、老若取り合せて、いる。その三人がヒソヒソと、俺に聞こえる内緒話をしている。
「さっきね、可愛い赤ちゃんと、その可愛いパパを見たのよ、私。早く家に戻りたいんじゃないのかなー」
 ………。
 山口、どうせ噂するんなら、もう少し真実を話せよ。どうして戻りたいなんて思うんだよ……。
 まだまだ寒いこの季節に、患者は後を絶たない。奈美絵さんが愚痴るように、俺は馬鹿な母親には容赦なく酷いことを言ったりする。それなのに、立地条件がいいのか、先代の爺さんがよほど良かったのか、患者はなかなかこの病院を見捨ててくれない。いっそ、経営状態が悪ければ、俺もさっさと大学病院に戻れるというのに……。
 本日三十何人目かの子どもを診察している時に、隣から内線電話が入った。
『先生。点滴が終りますよ』
「山口さん。隣行って、点滴回収してきて、それとそこにある薬持っていって、飲むように言ってきて」
「はーい」
 山口さんは嬉々として薬を手に出ていった。何がそんなに嬉しいんだか……。
 けれど山口さんはすぐに戻ってきた。
「先生、大変。すぐに戻ってください」
 点滴が良くなかったのかと、俺は一瞬青くなった。そして、静麻にアレルギーがあるか確かめるのを忘れたと気付いて、身体が震えてくる。
 ちくしょー! そんな初歩的なミスを侵すなんて!
 色々な処置法を考えながら階段を駆け上がると、静麻はあんじゅを抱いて、「帰る、帰らせて下さい」と騒いでいた。
「何やってんだー!」
 俺は身体の中から沸き上がる安堵感と、それに比例するだけの怒りでつい大きな声を出していた。静麻と奈美絵さんの動きがピタリと止まる。
 一瞬の隙間を破ったのは、あんじゅの泣き声だった。
 それで我に戻った二人は、今度はあんじゅの取り合いを始めた。
「いい加減にしろ!」
 俺は二人からあんじゅを取り上げた。すると不思議とあんじゅは泣くのを止める。
「一体……、一体何をしているんだ。え? お前、もうおふくろさんが来てくれたのか? そんな熱のある身体で帰せるか。え? お前だったら、追い帰せるのか!」
「でも、でも! 父親が足の骨を折って入院してるって。だから帰らなきゃ。見舞いに行かなきゃ」
「馬鹿野郎! そんな身体で行くってか。田舎はどこなんだ」
「北海道です」
「冗談じゃない。そんな身体で行ってみろ。お前は間違いなく道中で野垂れ死ぬね。足の骨折で入院? 足の十本や二十本折れたって、死にゃーしないね。けどお前が今出掛ければその保障はできない」
「僕は大丈夫です」
「ああそうかよ。なら止めないけれど、あんじゅは置いていけ」
「そんな! あんじゅは僕の子です」
「熱が下がったばかりのガキを連れて、この寒空に出掛ける馬鹿には、てめえの子でも俺は絶対返さない。いいか。出掛けるなら勝手に行け。診察代もいらない。でもあんじゅは連れて行くことは許さない!」
 俺はそのままあんじゅを連れて医院に戻った。後十人ほどの患者が残っている。それらを放り出すことはできない。
 
 
「わー。可愛い!」
 爺さんの時から勤めている薬剤師の平川さんがあんじゅを見るなり歓喜の声を上げる。
「先生、連れてきちゃってどうするんですか?」
 山口さんの疑問はもっともで、俺も実は途方に暮れている。けれど、奈美絵さんが静麻を落ち着かせれば、きっと連れにきてくれると思って、俺はベビーベッドにあんじゅを降ろして、そのベッドを部屋の隅に移動させた。
「先生、名前は?」
 看護婦になってまだ日の浅い、いちばん若い西田さんがあんじゅを覗き込んでいる。
「あんじゅ」
「は?」
「あ、ん、じゅ」
「あんじゅちゃんでしゅかー。賢くしててくだしゃいねー」
 ………。
 俺の無言の視線に気付いたのか、西田さんはあわてて口を閉じて、仕事に戻った。
 あんじゅはベッドの中で、おとなしく寝ている。ガキの方が父親より、ずっと賢い。
 時折り目をやると、必ず俺と目が合う。
「僚先生。先生がお父さんで、あの人がお母さんみたいですね」
 山口さんがとんでもないことを言って、俺は危うく聴診器を壊すところだった。
 
 
 午前中の診察が終った時、奈美絵さんがあんじゅを迎えにきた。
「落ち着いたか?」
「ええ。今は薬が効いているのか、眠ってますよ」
「まったく人騒がせだよな」
「仕方ないですよ。あれも一種の育児疲れじゃないでしょうか。そこに自分の病気と親の怪我でしょう? 片岡さんでなくても参りますよ」
「そんなもんかね」
「そうです。後で謝っておいてください」
 家に戻ると、奈美絵さんは俺に謝罪を要求した。
「何で! 俺が?」
「そうですよ。あれはちょっと酷かったですよ。先生をまったく知らない人なんですから、堪えます」
「俺は悪くないぞ」
「そうですね。私も悪くないと思います。けれど、片岡さんにとってはやはり大切なご両親のことです。それをあんなふうに引き止められれば傷つきます。あれほどお子さんを大切にする人なんですよ。いかに大切に育てられたか察しがつくじゃありませんか」
「大切に育てられて、ガキを押しつけられるようじゃ、それが良かったのか、悪かったのか……」
「僚さん!」
「わかってる。後で謝っとく」
 奈美絵さんに逆らえるわけもなく、それを承知して、俺はようやく昼食にありつけた。
 あんじゅは奈美絵さんにミルクを飲ませてもらっている。
「男手一つで、大変なんでしょうねえ」
「手は二本ある」
「僚さん!」
 どうも今日は奈美絵さんにジョークは通じないらしいとわかって、俺は静かに食事に専念した。
「あいつ、食べたのか?」
「はい。少しですけど」
「そうか」
 ふとあんじゅを見ると、俺を見てニコッと笑った。うーん……、もしかして可愛いかもしれない。子どもができるなら、やっぱり女の子だな。
「先生。先生もそろそろ欲しくなったんじゃありませんか?」
 思っていることをずばり当てられて、少々赤面してしまい、焦ってくる。
「俺はガキなんて嫌いなの。知ってるだろ?」
「でも、お孫さんを早く見せてあげてくださいよ。もう三十なんですからね」
 失恋したてですとはとても言えずに、適当に言葉を濁して逃げ出すことにした。午後の診察の時間まで、読書をしようと思ったが、部屋を占領されていることを思い出す。
「あんじゅ、遊ぼうか」
 声をかけた先には、お利口にお昼寝をしている姿があった。
「先生、買物に行ってきますから、あんじゅちゃんを頼みますね」
「んー」
 生返事を返すと、奈美絵さんは出掛けていった。頼むと言われても、スヤスヤと寝ている子どもに、何もすることはなくて、ソファに座って本を読むことにした。
 しばらくしたところで、突然電話が鳴った。あんじゅを起こしては大変だと急いで電話を取り上げる。
「はい、柏木です」
『もしもし』
 それは昨日、言い訳を聞いてくれなかった彼女だった。
「久美子?」
『そうだけど』
「昨日は悪かった。本当に悪かった。もう一度チャンスをくれるなら、今度こそ絶対、守るから。な? 許してくれよ」
『本当かしら?』
 そういいながらも、彼女は俺が謝ったからか、声に柔かみが出てきた。
「本当、本当。絶対」
 なんとか宥めて、次に会う約束にこぎつけようとしたとき……。
 ふんぎゃー! ふんぎゃー!
『僚? 何? なんなの?』
「あ……、患者だよ、患者」
『うそ! 私は家の方に電話したわ!』
「だから、ちょっとした訳があって、ここにいるんだけど……」
『そんなこと言って。最近ずっと何やかやと会えないと思ったら、子どもを作ってたのね! そういうわけだったのね! さよなら!』
 ガチャンという大きな音と、ツーツーという無機質な音。赤ん坊の泣き声。呆然と受話器を握り締めている俺。
「あんじゅー……。お前……」
 泣きたい気分であんじゅを睨むと、とたんにあんじゅは泣き止んで、今のことはケロッと忘れたのか、ニチャッと笑った。
 これで本当に終わりだよな……。
「あのー」
 声をかけられて振り向くと、そこに静麻が立っていた。
「なんだよ!」
 子どもの仇は親でとってやる!
「あんじゅの泣き声が聞こえて……」
「目が覚めただけだよ!」
「そうですか」
 静麻が仕方なく二階に上がろうとしている背中に向かって、俺は謝った。
「さっきは……、悪かったな」
「………いいえ。僕もちょっと……、無理なことを言いました」
 二人きりの空間が重くて、俺は仕方なくソファにまた座り直した。
「お前さ……」
「先生……」
 二人の声が同時に上がって、どちらも黙り込んだ。
「何だよ」
「いえ、先生の方からどうぞ」
「いいよ、俺は。別にたいした話じゃないから」
「あの……、僕もそんなにたいしたことじゃないんです。ですから、先生の方からどうぞ」
 静麻が俯いてしまったので、俺は言いかけた言葉を口にした。
「大学で何を勉強していたんだ?」
「いろいろですけど」
「………。何学科なんだ?」
「あ! ああ。哲学科です」
 俺は思わずソファからずり落ちてしまった。哲学ー? この日常会話にも不自由しているこいつが?
「どこの大学?」
「光栄大学です」
 後輩かよ……。
「それで、復学はどうするつもりなんだ?」
「わかりません」
「どうして子どもを預けてでも行かないんだ?」
「学生だと預かってくれなかったんです。それに、あんじゅを育てるのは僕の役目ですから」
「じゃあ、生活はどうしているんだ? 休学しているといっても授業料のいくらかは治めなくちゃならないだろ? それに子どもと二人の生活費も」
「アルバイトをしていますから」
「どうやって?」
「え?」
「子どもを預けていないんだろ? それでどうやってアルバイトに行ってるんだ」
 俯いたまま答えようとしない静麻に、余計な詮索をしてしまったとわかって、俺は慌てて付け加えた。
「いや……、嫌なことは答えなくていいからさ」
「そんな事はないんですけれど、自宅でできる仕事なんです。ですから、あんじゅの寝ている時にやってしまうんです」
「ふうん。ま、いいけどな。じゃあ、大学はどうするんだ? このまま辞めちまうのか?」
 それにも静麻は答えなかった。それでわかってしまう。本当は辞めたくないのだと。  
「俺が口出すことじゃないんだけどな」
 多少気まずくなって、俺は黙り込んだ。ふと感じた視線に顔を上げると、静麻は真っすぐに俺を見ていた。
「何だ?」
「昨日の電話の人……」
「あぁ、別にいいよ。どうせ別れ話をしに行くようなものだったんだから」
「でも……」
「いいって! もうどうしようもなかったんだよ。お前のせいじゃないから、安心しろ」
 俺はその話はしたくないと、視線を本に戻しかけて、忘れかけていたことを聞いた。
「お前、アレルギーとかないか?」
「はい。ありませんけど」
「じゃあいいや。そこの薬飲んどけよ」
「はい」
 やけに素直に返事をして、静麻は薬を飲んでいた。あんじゅはまだ起きないし、奈美絵さんも帰ってこない。
「飲んだら、寝ろよ」
「いいんですか? 僕なんか置いてくださって」
「帰って倒れているんじゃないかと心配するより、よほどいいよ。気にしないで風邪を治してから帰れ」
「すいません……」
 小さな声がして、静麻は二階へと上がっていった。
 あの年で、一人で子どもを育てることがどんなことか、想像して可哀相になってしまった。どんな仕事をしているのか知らないが、あんじゅが寝ている時間など、たかがしれている。だから体調を崩して、風邪くらいで倒れてしまうんだ。
 熱に潤んだような瞳に見つめられて、心臓を早くしてしまったことに、我ながら動揺する。
 たしかに男にしては線の細い、もったいないような美人顔だけれど、男だよなぁと思って、自分の理性が哀しくなる。あと二日はとても帰せないと思い、その二日間、自分の野獣が目覚めないことを祈るだけである。
 失恋したてで、情けなくなってるかも……。
 俺は大きな溜め息をついた。
 
 
 
 静麻は次の日には熱が下がって、起きられるようになった。奈美絵さんには無理を言って、一晩泊まってもらっていた。
「一度家に帰って、保険証とお金を取ってきたいんですけれど」
 静麻の申し出に、俺は何も言わずに首を縦に振った。若い分回復力はいいらしく、顔色も随分良くなっている。
 あんじゅは相変わらず奈美絵さんが世話をしている。
 
 だが、午前中の診察を終えても、静麻は帰ってこなかった。
 
 

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