天使がやってきた


 FTOが高速入口の手前の赤信号に引っ掛かって止まった時、何気なく首を振った歩道にその男はいた。
 何かを大事そうに抱えて不安そうにウロウロしている。白い布に包んだそれを少し揺すると、困り果てたような顔をして、キョロキョロと辺りを見回す。
 後続車からのクラクションの音で、信号が青に変わったことを知らされる。
 そう、早く行かなくては、きっと、今夜こそ、許してもらえない。久美子は『これが最後だからね』と、何度も電話で繰り返して言っていた。
 再度クラクションで催促されて、俺はFTOを路肩に寄せた。
 嫌いなんだ、子供は。特に泣くことしかできない赤ん坊なんて、大嫌いなんだ。
 けれど、皮肉なことに、俺は小児科の医者だったりする。そして、忌避したいものの正体は、こんな暗闇の中でも、それを嗅ぎ分けてしまうのだ。俺は小児科医としてのプライド、違うな、単なる義務感で車を止まらせてしまった。
「おい!」
 助手席のドアを開けて、身体を伸び上がらせて声をかけるが、その男は気づかずに、まだおくるみに包んだ赤ん坊を揺すっている。か弱い泣き声は、俺の予想が外れていないことを知らせる。
「おい! そこの赤ん坊を抱いているお前! お前だよ!」
 赤ん坊と言われてようやく分かったのか、その男が驚いた目で俺の方を振り向いた。思っていたよりずいぶん若い。
「乗れよ。そのガキ、熱出してんだろ」
 自棄くそになって、俺は叫んだ。
「え……、でも」
 か細い、殆ど聞き取れない声が、男の躊躇を表わしていた。
「こんな所じゃ、なかなかタクシーは捕まらないぜ。それに、こんな時間じゃ診てくれる病院も見つからないと思うけどな」
 彼は困ったように左右を見渡して、それから泣いている子を見つめた。そして頼りなさそうな目を俺に向けた。
「どこか、病院をご存じなんですか?」
 その目は俺を疑っているのではなかった。ただ、自分の置かれた情況を、まだよく把握していないといった感じだ。
「あぁ、知ってるから、乗れよ」
 赤ん坊の泣き声がその時大きくなった。それで決心がついたのか、男は俺の車に乗ってきた。
 心配気な表情は、室内灯ででもわかるくらい、顔色が悪い。
「すいません」
 俺は黙って車を発進させ、高速の入口をやり過ごし、次の交差点でUターンした。車の振動が心地よいのか、赤ん坊の泣き声は小さくなり、しはらく走っていると眠り始めた。
 男は黙って身体を縮こませるように座っている。腕の中に赤ん坊をかばうみたいに抱きながら。
 表通りを一本入ってしばらく走ると、住宅街の真ん中に『逢坂小児科』という看板が見えてくる。俺はその隣の二階建の家の前に車を止めて、リモコンでガレージのシャッターを開けた。
「そこで少し待ってろ」
 顎で小児科の玄関をさすと、男は黙って降りた。俺は車をガレージに入れて、キーケースから一本を出し、小児科の玄関を開けた。
「先生だったんですか?」
 彼は俺の後に続いて入りながら、待合室を見回している。
「ほら、入れよ」
 診察室の引きドアを開けてやると、ペコンと頭だけでお辞儀をして入ってきた。
「そこに下ろしてやれ」
 診察台にしているベッドを指差してとにかく赤ん坊を寝かせさせた。彼は小さくため息をついていたが、おくるみを解くと、心配そうな顔を子供に近づけた。
「これで熱を測って」
 電子体温計を渡すと、ベビー服のホックを外して、慎重に脇に挟んでいる。
 俺は新しいカルテを一枚出して、それに日付を書き加えた。
「保険証は?」
 彼は俺の顔をじっと見ている。
「健康保険証。社会保険とか、国民健康保険とか、持ってるだろう? それともかかりつけの病院があって、今夜は持ってないのか?」
 道で拾ったときには、行くあてもなくて、呆然としているように見えたのだが……。
「あ……、どこにあるのかわからなくて……」
 ……ったく……。 
 きっと見た目どおり、女房の尻に敷かれているタイプなのだろう。そういえば、こいつの女房って、どうしたんだろう。
 こんな頼りない奴に、病気の赤ん坊を任せるなんて、ちょっと信じられないことではあった。
「じゃあ、明日また持ってきてくれ。今日のところは自由診療扱いになるから、全額払ってもらうぞ」
「あの……、お金も忘れました……」
 一応、恐縮しまくりの声ではあるが、あっけらかんと言うのが、かえって憎らしくもある。
 それでどうやってタクシーに乗るつもりだったんだろう。
「じゃあ、明日持ってきてくれればいいよ。名前は?」
「かたおかしずま、です」
 チラッと見た時は女の子に見えたけれど、男だったのか……。
「どんな字?」
 保険証さえあれば、こんなことを訊かずに済むのにと思いながら、手間取る作業に、多少いらついてもいた。
「片方の片に、岡山の岡、静かに、植物の麻です」
「生年月日は?」
 言われた字を書き込み、カルテの空欄を埋めながら、次の項目を訊いた。
「昭和五×年、三月三日です」
「昭和ー? その子はどう見ても、平成生まれに見えるけれどな」
 目の前に寝ている赤ん坊が、十五歳を越えているはずがないのは、一目瞭然だ。
「あ! あんじゅのことですか。平成×年です」
「あんじゅー? ちょっと待て、その子の名前、静麻じゃないのか?」
 噛み合わない会話に、それでなくても人より短い俺の神経が切れかかる。
「静麻は僕です」
 思わず黙り込んだところに、ピピッ、ピピッと体温計の音がした。
「何度だ?」
「あっ、ああ、えっと、どうしましょう。38度7分もあります」
 数値を見て、初めて子供の熱の高さを知ったのか、片岡静麻と名乗った父親は、おろおろとして、一層顔色を青くした。
「慌てるほど高くないよ。それより、その子の名前、あんじゅって言うのか?」
「はい」
 やっぱり女の子だったんだ。
「どんな字?」
「ひらがなです」
 俺は静麻と書いた名前を二重線で消して、『あんじゅ』と書き直した。
「生年月日は?」
 どうして同じ質問を二回ずつしなくてはならないのだろうと、イライラが募ってくる。これを近ごろのチャラチャラした母親にやられたら、俺は完全に怒鳴っていただろう。
 実際、何を勘違いしているのか、子供の病気より、俺の機嫌伺いをしたり、自己アピールしたりする母親がいたりするのである。
「平成×年、十二月二四日生まれです」
 クリスマス・イブが誕生日で、あんじゅねえ。粋狂な親もいたもんだ。可愛い名前は赤ん坊だから似合うんで、ばばぁになったらどうするんだろう。
 住所や電話は明日保険証を持ってきてもらって書くことにして、カルテの診察欄に今日の日付、《H×.3.3》をスタンプして、体温を書いた。
 そうか、今日はこのとぼけた父親の誕生日か。
 しかも二十歳。たしかに父親になるには若すぎるだろうが、世間一般で言えば、もう立派な大人である。もう少し、らしくなってもらいたいものだ。
 赤ん坊の胸に聴診器をあてて呼吸音を聞く。いつも子どもを見ていると名前負けしていると思う奴ばかりだが、俺は初めてこの子に 『あんじゅ』という名前以外相応しいと思う名前を見つけられなかった。白いベビー服がその純真さを顕わしているようにも思えた。テレビのCMにも十分通じる可愛さだ。
 寝ているあんじゅの診察をすませると、静麻は不安一杯の顔で俺を覗き込んでくる。
「どうなんでしょう、先生?」
 まるで癌を宣告されるような患者のように、怯えた目で見つめられて、俺は脱力感を覚える。
「風邪だろ? 二、三日で治るさ」
 だから、殊更軽く、風邪だと言ってやった。
「そんな、こんなに熱があるんですよ? 変な病気じゃないでしょうか? 風邪っていうことはないでしょう。麻疹なんかじゃないでしょうね? 夕方ひどく泣いていたんですよ、腸重積とかだったらどうしましょう。まさか川崎病とかも……」
 次々出てくる重篤な病気に、こっちの方が目眩をしそうだ……。
 大学にいた頃でも、俺はその中で麻疹しか見たことがないぞ。
「あのなあ、八度七分なら、普通だぞ。もっと高い熱を出す子もいるさ。夕方泣いていたのは、熱が出始めで赤ん坊といえどもしんどかったんだよ。お前が言ったような病気なら、もっと他の症状が出てくるさ」
「でも、そういえば、突発性発疹症もまだやってませんし、今水疱瘡が流行ってるって聞いたし……。そうだ、それでなくても、肺炎とか」
 それでも心配は拭いきれないのか、片岡は次々と病名をあげる。父親でここまで詳しいのは珍しい方だ。
「いいか。今この子に必要なのは、前世紀の遺物である、育児書じゃない。どの世界を探したって、この子にピッタリの育児書なんて、この世にはないんだ。育児書にはさも世間一般のことが書いてあるが、あれは古代の平均的数値にすぎない。いいか、この子は風邪だ。悪戯に心配な病気の辞典である育児書は、帰ったらすぐに捨てろ」
 宣教師よろしく、俺は多少オーバーに、育児書神話を砕いてやった。
「薬を出すから、一日三回服ませろよ。母親によーく言っとけ」
 どうせなら二人で来ればいいものをと思いながら、俺は立ち上がった。
「あ、母親は田舎で父親と二人で暮らしていまして」
 父親はお前じゃないのかと言いかけて、はっと気がついた。
「あー? 誰がお前の母親のことを言ったさ! このガキの母親のことだよ。てめーの女房のことだ!」
 MAXとまではいかないが、俺の怒りのボルテージは一気に大きく跳ね上がった。
「あんじゅはガキなんかじゃありません! それから奈々ちゃんは、僕にあんじゅのことをお願いねって、そう言って出ていったから」
 出ていった? 今、出ていったとか言ったか、こいつ?
 それって、もしかして……。
「いつ?」
 訊いてしまえば……。
「へ?」
「そのなんとかちゃんはいつ出ていったんだ」
 これ以上関わることになるのは、得策じゃないんだ。訊いてしまえば、何かよくないことになりそうな気がする。
 なのに、俺はやっぱり、訊いてしまうんだ。
「奈々ちゃんですか? 一月ですよ」
 俺がこんなに苦悩しているのに、当の本人は屈託なく、さらりと言ってくれた。失踪、二ヵ月。
「もう二ヵ月にもなるじゃないか。どこにいったんだ?」
「さあ……?」
 俺は頭を抱えたくなるのを我慢して、関わるんじゃなかったと、今更ながら後悔した。だって、こいつさえ拾わなきゃ、今頃は久美子と………。
「あー!!」
 叫んだ俺に、あんじゅが身体をビクッと震わせた。それを静麻が慌てて抱き上げる。
 抱いたあんじゅのお尻をトントンと叩いているのを目の端で捕らえて、俺は急いで電話をとった。久美子の家のダイアルを押す。
 三回目の呼び出し音で、フックの外れる音がする。
「もしもしっ!」
『どなたかしら』
 冷たーい声が響いてきた。一瞬、電話口から、ブリザードが吹き込んできたのかと思った。
「俺、俺。僚!」
『これが最後だからって言ってあったはずよ』
 抑揚のない声に、俺は自分の失敗を悟った。
 急患だ、時間外診療だ、大学からの呼び出しだと、今まで何度約束を反古にしたか。それでも、仕事だからと言い訳を繰り返してきた罰だ、これは。
「道で行き倒れを拾っちまったんだ」
 それでも、彼女の所へ行こうとしていたのだけは、わかってほしかった。
『わたしよりその行き倒れが大切なのね。そのお方とお幸せに』
 その最後の足掻きも、冷えた彼女の耳には届かなかった。
「ちょっと、久美子!」
『さよなら。もう電話してこないで。顔も見たくない。じゃあね』
「久美子! 久美子! 話を聞けよ!」
 俺は何とかもう一度だけでも約束を取りつけようと、必死で叫んでいた。けれど、電話は無常な機械音を出しているだけだった。
「あの……、すいません。僕からその久美子さんにお詫びしましょうか?」
 背後から不意に声を掛けられて、ビクッと振り向くと、静麻があんじゅを抱いたまま立ち、俺を哀れみの目で見ている。
 電話の途中で夢中になり、こいつがいるのを忘れていた。とんでもないところを見られてしまった羞恥に、バツが悪くなった。
「いいよ、もう。………薬を出すから、それを持ってトットと帰りな」
「でも……」
 それでも静麻は、自責の念にかられているのか、もじもじと立ち尽くしている。
「俺のことはいいよ。また後で謝るからさ。俺は悪いことをしたわけじゃなし」
 それは絶望的な言い訳だった。久美子は今日、約束を守れないなら、もう終りなのだと、俺に宣言していたから。いつも話をまともに聞いてやらなかったから、あいつも限界だったに違いなかった。そして俺は久美子の最後の願いすら聞いてやれなかった。
「それより、お前だ、お前。その子の母親が二ヵ月も帰ってこないのはどういうことだ? どこに行ったかはわかるんだろ?」
 自分の病院なのに、妙に居心地が悪くて、俺は話題を静麻に振ってやった。
「わかりませんよ。奈々ちゃんはちょっと出かけてくるねって言って、そのまま……」
「もしかして……、家出っていうわけじゃ……」
 まさか、こんな小さな子を残して、家出するだろうか? そんな疑問を隠すため、俺は頬を引きつらせて笑った。
「そうじゃありませんよ。後でお友達の人がきて、奈々ちゃんは幸せだから、気にしなくていいからって」
「?????」
 言葉の通じない奴だと思っていたが、やはり言っていることがよく理解できない。
 俺のせいじゃない。俺は口は乱暴だが、正常な日本語を話すし、理解力も、普通にはあると思う。
 やっぱり元凶はこいつだと思う。
「それでね、僕はあんじゅを育てているんです。奈々ちゃんが幸せになるには、あんじゅがいない方がいいからって」
 頭がムズムズする痒みに襲われる。ううー、思いっきり掻いたら気もちいいだろうなー。
「その友達っていうのは、男なんじゃあ?」
「そうですよ。ご存じなんですか?」
「知るわけねーだろ! いいか、お前はその奈々ちゃんに、体よくガキを押しつけられたんだよ! そのガキだって、本当にお前の子か分かったもんじゃねーぞ!」
「あんじゅはガキじゃありませんったら!」
 俺は思いっきりよく頭を掻き毟った。けれど痛いだけでちっとも気持ち良くならない。
「ガキだよ、ガキ。可愛いなんて思っているのは、お前だけなの! 薬持って早く帰れ!」
 俺は腹立ち紛れに薬棚をガチャンと開けて、中から乳児用の抗生物質を出した。
「おい! その子の体重はいくらだ?」
 ちゃんと聞かないと、またあいつの体重を聞かされる羽目になるもんな。65キロとか言ったら今度こそぶん殴ってやろうか……。
 いつまでたっても返事がないので受け付けの窓から頭を出すと、あんじゅをソファーに寝かせて、静麻は床に蹲っていた。
「何やってんだ? おい!」
 返事をしないので不安になって、受付を出ると、静麻はハアハアと荒い息をしている。
「どうした!」
「大丈夫です。ちょっと貧血を起こしたみたいで……。あんじゅは……」
「ガキは大丈夫。それよりお前、熱があるんじゃないのか?」
 手を持って起こしてやろうとすると、貧血特有の冷たさに驚いてしまう。顔色は白に近く、うっすらと額に汗を滲ませていて、こんな場合だというのに、妙に綺麗だと思ってしまった。
 けれど、脈は早くて、身体は確かに熱く、額に手をやると熱の高さがわかる。心配のしすぎで顔色が悪いと思っていたが、病気だったのだ。
「僕は大丈夫ですから、あんじゅを……」
「ガキは大丈夫だって言ってるだろ! 俺は医者だぞ、それよりお前だ!」
 俺の声に静麻は無理な笑みを作って、そしてコテッと、さも気持ちよさそうに眠ってしまった。
 意識をなくしたと言った方が、正解か…?
 それから俺は静麻を自分が借りている隣の家まで運んで、二階の自分のベッドに寝かせた。
 すぐにとって返し、今度はあんじゅの体重を測り、薬を作ってスプーンで飲ませ、やはり家に連れて戻り、一階の客間に布団を敷いて寝かせてやった。
 静麻に注射をして、俺が眠ったのは日付もとっくに変わった頃だった。やっかいなものを拾ってしまった。後悔する暇もなく、俺はリビングのソファでウトウトと眠りに就いた。


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