奏のマンションはホテルから歩いて通える場所にあった。5階建ての独身者用の1DKばかりが並ぶマンションで、半分近くがまだ帰宅していないらしく、通りから見える窓の明かりはほとんどが消えている。
 独身者ばかりだからか、この時間でもひっそりとしていた。
「狭いところですけど、どうぞ」
 客用のスリッパはないのだと恥ずかしそうに言われて、奏のスリッパを差し出されたが、皓介は裸足でいいからとそれを奏に返した。
 小さなキッチンと、小さなテーブル。いかにも一人暮らし用のそれらが、とても寒々しく寂しく感じられた。
 皓介の家は、今でこそ各自が勝手気侭な生活を送っているが、テーブルは五人全員が並べる広いものだった。
 一人暮らしに憧れたこともあるし、実際に一人暮らしをしている友人のマンションに寝泊りをしたこともあるが、どうも皓介は一人きりのテーブルというものに慣れなかった。
 テーブルはその人の生活すべてを見ていて、受け止めている。
 そんなことを思う。
 家を出たなら、誰かと座れるテーブルを置きたい。そんなことを感じていた皓介には、このテーブルはとても寂しく感じられる。
「すみません、椅子も……一つしかなくて」
「奏さん、このテーブル、本当はもう一つ椅子があったよね?」
 テーブルだけという売り方もされることはあるが、テーブルと椅子がセットのものなら、椅子が一脚だけというのは考えられなかった。このテーブルの大きさでも、もう一脚ついていたはずだ。
「友人が食卓用の椅子が壊れたと言ったので、うちでは使わないので譲りました。お客さんを呼ぶようなこともあまりなかったので」
「恋人ができたら……とか思わなかった?」
「そんな人ができたら、その時に考えようかと。こんな狭い部屋に呼べるとも思ってなかったですし」
 恋人を呼ぶのに狭さは関係ない。けれど、椅子がないのは困るだろう。
「だったら、俺のために、椅子を置いてって頼んでもいい? ううん、俺が自分用の椅子をここに置いてもいい?」
「…………え?」
 奏は意味がわからなかったのだろう、もう一度言って欲しそうに皓介を見た。
「俺が奏さんの恋人に立候補したい」
 奏の前に立つ。自分は奏を見下ろす形になり、奏は顎を精一杯上げて皓介を見ている。
「僕は……男ですよ」
「うん、俺も男だけどね。奏さんのこと、好きだなって自覚している。……奏さん、仕事を離れると、自分のこと、僕っていうんだ。なんか、新鮮だな。私って言ってたのも、ストイックな感じがして素敵だったけど」
「皓介君……、からかうのは止めてください」
 奏は皓介から逃げるように背中を向けた。そのまま離れようとするので、皓介は慌てて奏を抱きとめた。
「からかってなんかいない。かなり必死で告白したんだけど」
「出会って、……まだわずかしか経っていません」
 奏の身体は皓介の胸の中にすっぽりと収まった。
「時間なんか関係ないよ。はじめて奏さんを見たとき、身体の中を電気が走ったみたいになった。ピリピリして、あれって運命の出会いみたいだったな」
 肌を刺すような痛み。今でも覚えている。
「……僕も……感じました。……皓介君を見たとき、……鳥肌みたいになって、気持ち悪いんじゃなくて……、痛いような、ざわざわした、そんな感じ」
「俺、覚えてる。奏さん、あの時、手を擦ってたよね」
 同じように感じていた。そのことが単純に嬉しかった。
「何があったの? 仕事でミスしたなんて、嘘だろ?」
 奏を抱きしめたまま、皓介は尋ねた。奏の身体が固くなる。
「皓介君の言った人は、田所という部長です。今日、呼び出されて……僕が……ジルウェットのスパイだと言い出して……」
「はぁ?!」
 皓介は思わず奏の身体を離していた。細い肩を両手で左右から掴み、腰を屈めて奏の顔を覗き込んだ。
「どうしてそんな話に」
 奏は見つめられることに慣れていないからか、青ざめた顔を俯けて隠すようにしながら話した。
「前から……移転の話はあったんです。何度か、誘いがありました。僕はヴィーハイヴを辞めるつもりはなかったので、断っていたんです。それが、どうやら田所部長の耳に入ったらしくて……」
「ホテルって、引き抜きとかよくある話だろう? 断っているなら、問題ないじゃないか」
「ええ。何もなければ、そのまま問題なく過ごせていたと思います」
「何か……あったんだ?」
 ジルウェットの動きが奏を追い詰める原因にもなっていたことを知って、皓介は暗澹たる気持ちで先を話すようにと頼んだ。
「田所部長は、副支配人の座を狙っているんです。副支配人は、もうすぐ関連会社の方に移ることが決まっていて、それで副支配人の席が空くんです。候補となる人は数人います。その中でも田所部長は一番年上なんですが、厳しい立場にいます。大方の予想では、田所部長では難しいだろうと」
「だろうな」
 客の目のあるところで平気で大声で話す。自己管理が出来ていないとみなされる体型。ちらりと見ただけの皓介でも、彼が管理職に相応しいとは思えなかった。
「そんなところを皓介君に見られていたんですか……」
 ため息をついて、奏は更に詳しいことを話してくれた。
「部長は起死回生のために、新しいイベントを考え出したんです。それは、ウェディングドレスのファッションショーで、ホテルで結婚式を予定している女性や、まだ予定がなくても未婚の女性にウェディングドレスを着てもらって、ショーをしようというものでした。出演してくれた女性には、披露宴での割引と当日着たドレスはレンタル料金を無料にするというものでした」
 話を聞きながら、皓介は頭の隅で何かの引っ掛かりを感じた。
 いつだったか、兄の英介がそんな話を父親にしていなかっただろうか。
「それ……って……」
 迂闊には口に出せないが、危険信号が点滅している。
「その企画を、来月、ジルウェットがやるんです。ジルウェットは最近、ウェディング部門に力を入れていて、色んな企画を立ち上げていました」
 英介が出向先から戻り、ウェディング部門のマネージャーになった。
 新しいホテルウェディングのあり方を、革新的に変えようとしている。ジルウェットで俄かに活気づき始めた部門でもある。
「たまたま重なった?」
 そうとしか思えない。むしろ、比較的誰にでも思いつける範囲の企画ではないだろうか。
 ビア樽も考えつくような企画だったぞと言えば、英介も嫌がるかもという程度のことだ。
「そう、だと思います。ですが、田所部長は……僕がジルウェットに漏らしたと……」
「そんな、馬鹿な……」
 奏は両手を胸の前で握り合わせて、身体の震えを止めようとしているようだった。
「もちろん、僕はそんなことをしていません。でも、最近、支配人に呼ばれることが多かったので、支配人もグルじゃないかと……」
「副支配人だけじゃなくて、支配人の方を狙ってるんじゃないのか、田所って部長は」
「支配人は田所部長には前から厳しくて、副支配人にも別の人を推薦しています」
「奏さん?」
 推薦しているのが奏なのかと思ったが、それは首を振って否定された。
「僕が呼ばれていたのは別の話ですが、田所部長も今皓介君が思ったように、僕を推薦したと思ったのかもしれません」
「だったら、田所がわざと情報を流して、奏さんのせいにしようとしたのかもしれない」
「支配人もそれは言いました。そうすると本気で怒って。どこに証拠があるんだと。反対に、僕がジルウェットの人と会っているところの写真を持っていて……、これが証拠だといわれて……」
「その写真……持ってる?」
 奏は首を振った。
「証拠だから渡せないと……。でも、あれは、断った時の写真でした。でも、それを証明する方法はない……」
 奏は立っているのも辛そうで、皓介は肩を掴んだまま、奏を一つっきりの椅子に座らせた。
「写真の人が、誰だかわかる? 名刺くらいは貰ったでしょ?」
「名刺も返しました。……名前は…………っ!」
 奏は何を思いだしたのか、はっとなって顔をあげた。皓介の顔を驚いたように目を見開いて見つめた。
「名前は……佐伯だった?」
 皓介は悲しそうに顔を歪めて奏を見た。
 奏はゆっくりと頷いた。
「そう……。だったら、奏さん。俺が貴方を助けてあげるよ」
「皓介君!」
 肩を掴んでいた手を離そうとすると、奏がその腕を慌てて握ってきた。
「奏さんの処分は決まったの? まだだろう?」
「皓介君……」
「いつ決まるの?」
「明日……重役会議があって……その時に……」
 奏は泣き出しそうだった。
 皓介も辛くて、奏の顔をまともに見れそうになかった。
「何時から、どこであるの? それに、部外者は入れるかな?」
「皓介君……」
 奏は首を振った。
「きみは……きみは……」
「奏さん、お願い。明日、俺をそこに入れるように……して。俺が、貴方を、助けるから」
 奏は俯いて激しく首を横に振った。
「嘘だ……。きみが……、そんな……」
「あと一つだけ、聞いてもいい? 奏さん、ジルウェットに……来ない?」
 奏は皓介の腕を掴んでいた手を離し、膝の上で両の拳を震わせて……、一度だけ……、左右に頭を動かした。
「わかった。……奏さんがヴィーハイヴにいられるように、俺が守るから。……信じて」
 皓介は自分を拒否するように俯き、身体を震わせる奏をぎゅっと抱きしめてから身体を離した。
 一晩中ついていたい。こんな様子の奏を置いていくのは、とても心残りがあった。
 けれど、明日までにやらなければならないことは、たくさんあった。
「帰るよ……。奏さん、ちゃんと寝るんだよ」
 もう奏は顔を上げなかった。



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