奏の引き抜きを諦めることで一番の収穫は、奏を姉のものにしなくていいということだなと、皓介は苦笑しながらシャワーを浴びた。
 奏を義兄と呼ぶには、自分の気持ちは奏に向かいすぎている。とても普通には「お義兄さん」とは呼べないだろう。それどころか、姉や奏が不幸になったとしても、二人の中を徹底的に壊してしまっただろう。
「そんなの、まるで昼メロだな。ドロドロ」
 言葉のわりにはご機嫌そうに鼻歌を歌いながら、父親への報告内容を考えていた。
 奏の引き抜きは失敗したこと。今後、どのような方法を用いても、彼がジルウェットに来てくれる望みはないこと。それを父親にわからせなければならない。
 そうでもしないと、父親なら次にどんな手段を用いるのか、ちょっと空恐ろしいところがある。
 油断していたら、姉の伴侶としてある日突然紹介される、なんていうことにもなりかねない。
 父親を諦めさせるために、自分がホテル業務に関心のできたことを示すのもいいかもしれないと考えた。
 自分の夢を諦めるつもりはない。けれど、ホテルの仕事も決して悪くはないと思い始めていた。
 奏の影響であることは間違いがないが、真剣に仕事に取り組む彼を見て、興味が沸いたのは本当のことである。
 片手間に出来ることではないが、自分の夢だって、ホテルの仕事と無縁ではないのではないかと思い始めているのである。
 あのレストランの椅子。
 このホテルのロビーのソファ。
 この部屋のベッド。
 誰の身の回りにも、ファニチャーは身近にある。
 ならば、ホテルの仕事と家具の勉強もどこかで繋がりをつけられるはずだ。
 自分の言った一言を奏がサービスに役立てたように、まだ自分にはやらなければならないことがたくさんある。
 いつか一人前の男になって、奏の前に立って、そのときこそジルウェットに来てくれと言う。
「それが俺にとってのプロポーズだ」
 ぐっと拳を握り締めた。


 翌日は大学に行くために、朝からホテルを出ようとした。
 フロントには既に別の従業員が立っていて、奏の姿は見えなかった。
 インフォメーションにも別の人が座っている。
 夜勤明けで帰ったのだろうかと思いながら、皓介は大学近くでモーニングを食べるつもりだったので、足早にホテルを飛び出した。
 午前中に二コマの授業を終え、午後からの授業はなかったので、学食で昼食を済ませ、皓介はホテルへと戻ってきた。
 もう一度と奏の姿を探したが、どこにも見当たらなかった。
 夜勤明けで休みなのかもと思いながら、ロビーを横切ろうとすると、奏の名前が聞こえてきた。
「弓場君はどこに行ったんだ? 今日は休みじゃないはずだろう?」
 その声につられて視線をめぐらせると、太った男が顔を真っ赤にして、フロントの男性を叱りつけていた。
 ドラム缶じゃなくてビア樽だなと、皓介は失礼な感想を抱きながら、相手に不審に思われない程度に近づいた。奏の名前が出て、無視して通り過ぎることは難しかった。
「弓場君は支配人に呼ばれて上にあがったようですよ」
「また支配人か。いったい、彼らは何を企んでいるのかね」
「そんな、企むなんて、部長」
 フロントマンは困ったようにあたりに視線を流した。客の目も耳もあるところで、声を潜めることもせずに内部事情と思われることをまくし立てる部長に、さり気なく注意を促したつもりだろう。
 そんな部下の心配りにも気づかずに、部長はふんと鼻で笑った。
「まあ今のうちに話の辻褄を合わせればいいさ。弓場君はもう終わりだな」
 皓介は不快気に顔を顰めた。
 いったいどういうことかと確かめたかったが、客の立場の皓介にはあのビア樽に掴みかかることはできない。下手に動けば、あの男に奏を攻撃する種を与えてしまうだけだと堪えた。
 部長と呼ばれた男は、お腹を揺すりながら、フロントの奥へと入っていった。あれで部長が務まっているとは、ヴィーハイヴにも穴はあるということか。
 奏は出勤している。それを確かめられただけでも、あの男の話を聞けた成果だと思うことにしよう。
 どうすれば奏を捕まえられるのかを考えながら、皓介は荷物を置きに自分の部屋へと戻った。

 しばらく時間を置いて、皓介はインフォメーションへと向かった。
「奏さん、いる?」
 コンシェルジュは前にも同じように奏を指名した皓介を覚えていたらしい。その辺りはさすがにホテルマンとしての記憶力ということもあるだろう。
「佐伯様、申し訳ございません。弓場は今、離席しておりまして、私でよければ代わりにご用件をお伺いいたします」
「別にいいんだ。ありがとう」
「何かございましたら、ご遠慮なくお申し付けください」
 丁寧な物腰で見送られて、皓介は仕方なく一旦外へ出た。
 さてどこへ行こうかと思っても、行くあてなどない。
 かといって、戻ったとしても奏に会うのは難しそうである。
 いったい何があったというのだろう。ビア樽の言っていた「もう終わり」という言葉が気になって仕方ない。
 ウロウロしながら、はたと思いついた。待っていればいいんだと。
 最初の偶然の出会いのように、奏が通りかかるのを待てばいい。
 何かトラブルがあったにしても、帰さずに尋問するということはないだろう。
 昨日の時点では問題は起こっていなかった。むしろ奏は仕事にやる気を見せ、良いことがあったことを匂わせていた。
 それが今日は一転している。だったら、処分を決めるにしても、審議や会議があるはずで、いきなり今日で「終わり」ということもないだろう。
 何とか今日中に捕まえられないだろうか。
 ホテルの従業員用の出入り口から、最初に出会ったコンビニまでの道程を、行ったり来たりする。
 コンビニでパンとコーヒーを買って、夕食代わりにして、ずっと奏が通るのを待った。
 午後九時過ぎにどこかですれ違っただろうかと、ホテルへと電話をかけてみた。奏に替わっては貰えず、伝言を預かると言われただけで、彼がまだホテルにいるのかどうかすらも教えてもらえなかった。
 今夜は諦めるしかないのだろうかと思い始めたとき、コンビニの前を通る人影を見つけた。
 昨夜とは打って変わった暗い表情。俯き、顔を隠すようにして、足早に歩いている。
 コンビニに寄るつもりはないようだった。
 力なくあるいていく様子があまりに痛々しく、掛ける言葉を失うほどだった。
「奏さん」
 それでもせっかくのチャンスを無駄にするわけにはいかず、皓介は奏の背中に呼びかけた。
 びくりと背中を震わせて奏が立ち止まった。恐る恐る振り返る。
 皓介の姿を見つけて、奏は泣き出しそうに顔を歪めた。
「佐伯様……」
「どうしたの、奏さん。何かあった? どうしてそんな顔をしてるの?」
 急き込むようにして尋ねる。
「佐伯様……あの、……」
 口を開きかけて、奏は慌てるように口を閉じた。
 苦しげに顔を背けた。
「なんでもありません。佐伯様こそ、どうなさったんですか? こんな時間に、ホテルに何かご不満でも?」
 泣き出しそうな目が、必死に笑おうとしている。
「ヴィーハイヴにビア樽みたいな部長っている?」
 皓介が手で体型を作りながら尋ねると、奏ははっと顔色を変えた。今までも十分顔色は悪かったが、更に真っ白というほど顔色が悪くなる。
「その人が何か……しましたか?」
「奏さん、俺、貴方を助けたいと思っているんだよ。何かあったんだろう? そいつ、奏さんのこと、イライラしながら探してた」
「私が……つまらないミスをしたから、探していたんでしょう。そのことの話は済みましたから、お客様に心配して頂くようなことではありませんから」
 唇が紫色になって震えている。
 無理をして嘘をついている。それははっきりとわかった
「俺だと頼りない? 俺、奏さんが困っているんなら、助けたいんだ」
「何も……何も、ありませんから」
「奏さん!」
 小刻みに震える身体を抱きしめた。
 何もないわけがない。
「俺、ただの客で終わりたくないんだ。奏さんと一緒にいたい。ホテルを出ても、奏さんと繋がりのある関係が欲しい」
「佐伯様……」
 奏の身体は今までよりも震えが大きくなっていた。
「皓介。俺の名前、皓介って言うんだよ。知ってると思うけど。様づけしてもらうほど、立派な客じゃない。年下だし、ここはホテルじゃない」
「……皓介君……」
「うん。俺じゃ、奏さんの悩みの聞き役にならない? 俺、貴方を助けたい」
「皓介君……」
 声が涙混じりになり、奏の手が皓介のシャツを握りしめた。
 


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