奏に教えてもらった日本料理店で夕食を済ませて、ホテルヴィーハイヴに戻ってきた皓介は、フロントに立っていた奏を見つけてカウンターへと歩いていった。
「お帰りなさいませ」
「今夜はこっちなんだ」
 奏のにこやかな挨拶に、皓介も一日の疲れが吹き飛ぶような気持ちになる。
「はい。夜勤ですので」
「あ、これ。貰ってきたんだ。新しいパンフレットも出てたよ」
 皓介は料理店で貰ってきたパンフレットやら、チラシやらを一式、奏に差し出した。
「ありがとうございます。助かります」
「お役に立てて光栄です」
 奏の口真似をして返事をすると、奏はぷっと軽く笑った。
「なんか、奏さん、いいことでもあった?」
 ちょっと嬉しそうな感じが伝わってきて、皓介まで嬉しくなってくる。
「実は仕事のことで。ここで働けてよかったなと思うようなことが」
 嬉しそうにいう奏に、皓介は彼に合わせて笑いながらも、内心はちょっとしたショックを受けていた。
「そう……なんだ。良かったね」
「はい。でも、それを顔に出すようでは私もまだまだですね」
「どうして? いいんじゃない? 奏さんの笑顔なら、誰だってみていて嬉しいよ。全然問題なし」
「ありがとうございます。佐伯さんは持ち上げ方がお上手ですね」
 ますます嬉しそうな明るい笑顔に、皓介は眩しく思いながら、夜勤頑張ってねとエレベーターへと向かう。
「お休みなさいませ」
 心地好い挨拶に、皓介は笑顔で手を振った。
 エレベーターのドアが閉まると、頑張って浮かべていた笑顔を消す。
 駄目だ……。という気持ちが胸の中いっぱいに広がる。
 奏と親しく話せるようになって、ここに来た目的を忘れそうになっていた。
 ただの宿泊客のように、奏の勧めるレストランへ行き、食事をして感想を伝える。それだけで充実した時間だと終わらせたい自分がいた。
 いや、さっきまでは、奏を引き抜くことに一片の躊躇いもなかった。むしろ、自分がジルウェットを出たいと思っていることも忘れて、奏がジルウェットにきてくれれば、もっと親しくなれるのにと思っていたくらいだ。
 けれどここで働けてよかったと無邪気とすら思えるほど喜んでいる奏を見て、引き抜きの話を出すのが怖くなった。
 そんな話を出して軽蔑されないだろうか。嫌われてしまわないだろうか。
 それとももっと仲良くなって、奏にジルウェットの良いところを知ってもらえば……。でも、どうやって?
 そうするためには、自分がジルウェットの社長の息子であることも話さなくてはならない。
 引き抜きをするためには親しくならなければならず、親しくなれば引き抜きの話をしにくくなる。
 親しくなっても奏を好きにならなければ良かったのだ。そうすれば引き抜きの話をするのに何の不都合もない。
 受けてもらえるにしても、話を蹴られるにしても、その後は皓介には何の関係もないからだ。
 皓介は皓介のやりたい方向に行けばよかっただけである。
 しかし今は奏に嫌われたくなかった。そのために近づいたのかと、恨まれることも避けたかった。
 今はむしろ、奏を引き抜けなかったとしても、その後の関係を維持したいと思っていた。
「こんな事なら、最初から彼にだけは身分を明かしていればよかったよなぁ」
 ぼやくようにして部屋に入り、うがいのためにバスルームへ移動して、皓介は酷く驚く光景を目にした。
 剃刀がホテルのアメニティーのものではなかった。
 自分がコンビニで買ったものは、使っていないコップに歯ブラシと一緒に挿してある。
 それと同じメーカーのものが、新品で用意されていたのだ。
 どうして? 考えるまでもなかった。自分がホテルのものは使いにくいと言った相手は奏だけだ。
 皓介は部屋を飛び出した。

 フロントに駆け戻ってきた皓介を見て、奏はとても驚いたようだった。
「何かありましたか?」
 心配そうに尋ねる奏の前に、皓介は剃刀を置いた。
「これ、奏さん?」
「あの、これではなかったでしょうか?」
「いや、これでいいんだけど、どうして?」
 奏は安心したのか柔らかく微笑んで事情を説明してくれた。
「お客様がホテルのものは使いにくいと仰っておられましたので、たしかに短期のご滞在の方には我慢していただけるかもしれませんが、長期ご滞在の方にはご不便をおかけすることに気がつきました。ホテルのアメニティグッズをお使いになられない長期滞在のお客様には、ルーム係の者がお好みの品をお聞きにするようにしたのですが、佐伯様のは既にお聞きしておりましたので、重ねてお聞きするお手間をお取りするのは申し訳ないと、こちらでご用意させていただきました」
 その説明を聞いて、皓介は唸るほどに感心した。
「すごいな……奏さんは」
 自分は旅行に行く時でも自分の剃刀は別に用意する。変な拘りがあるからなのだが、それをホテル業務と結び付けて考えることは、今までに一度もなかった。
 これを使ってくれるホテルがあればいいのになと思うくらいはしたが、それをジルウェットに役立てようと思うこともしなかった。
 それを奏は、皓介が軽く言った一言を、ちゃんと聞き届け、より良い環境作りに、こんなにもすぐに活かしてしまった。
 自分とはものすごい違いである。
「このホテルのこと、本当に大切に考えているんだね」
 皓介の言葉に奏は淡い笑みを浮かべて小首を傾げる。そんな仕草が自分より幼く見えて、皓介は胸に痛みを感じる。
 好きだ。
 奏が好きだ。その気持ちは皓介の胸の中に確かにあった。
 出会って三日目。それ以上の時間は必要ないと言えるほどに、皓介の気持ちは動かないものになっていた。
 けれど、打ち明けられない。
 二人が男同士という以前に、自分と彼は……。
「私はこの仕事に向いていないと思っていたんですが……」
「えっ、すごい、奏さんにぴったりだよ」
 ありがとうございますと恥ずかしそうに言って、奏は言葉を続けた。
「今はとてもこの仕事が好きです。いろんな人と触れ合えるし、お客様に喜んで頂けたらとても嬉しいですし、頑張ってよかったという気持ちが、ダイレクトに伝わってきて、本当にこの仕事が好きになりました」
 奏は愛しそうにカウンターを撫で、顔を上げてフロントからロビー全体を見渡した。
「ここが私にはとても大切な場所です」
 終わりだな。
 皓介は男らしくけじめをつけようと思った。
 残る宿泊日数を過ごす間に、自分にけじめをつけようと。
 奏を諦めるのではなく、一人前になって、ヴィーハイヴも、ジルウェットも関係なく、一人の男としてここにもう一度立てるように。
 そのためにできることをしようと決意を固めた。
「そう思えたのも、佐伯様のおかげです」
「ううん、ありがとう、奏さん。今度こそおやすみ……」
「お休みなさいませ」
 フロントに背を向けて、数歩あるいたところで皓介は決まり悪そうに振り返った。
「どうかなさいましたか?」
 奏が首を傾げる。
「感激してうっかりしたんだ」
「……?」
「カードキー。部屋の中に」
 俺ってば、カッコ悪すぎだよと皓介は大きな身体を小さくする。もちろん気持ちだけであるが。
「ではお部屋までご一緒しましょう」
 奏は笑うことなく、マスターキーを手にフロントのカウンターを出てきてくれた。



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