翌日は大学が休みだったので、皓介はルームクリーニングの時間に合わせて部屋を出て、フロントに下りて延泊を申し出た。
 最初の5泊にあわせてもう5泊を頼み、それまでのルームサービスと冷蔵庫内の清算をカードで済ませた。
 インフォメーションに行くと奏が出てきてくれた。
「いらっしゃいませ」
 ゲスト用のにこやかな笑顔。それが嬉しくもあり、その他大勢と同じかと思うと寂しくもあった。
「昨日はありがとう」
「こちらこそありがとうございました。あちらに問い合わせてみましたら、あの椅子のデザインはあのデザイナーの作品に間違いございませんでした」
「えっ、問い合わせてくれたの?」
 皓介はびっくりした。
「はい。ホテルの方から正式に問い合わせをさせていただきました。レストランのオーナーとデザイナーは、オーナーがイタリアに料理修行中にお知り合いになられたそうでして、レストラン開店の折に、お祝いとしてデザインされたものだそうです」
「そうなんだー。そんな理由があったのかー」
 その話を聞いて、忙しいデザイナーが、こんな異国の小さなレストランの椅子を手がけたというのも頷けた。
「パンフレットに小さく取り扱われているのも、デザイナーが椅子で客を呼ぶな、味で客を呼べという励ましなのだと仰っておられました」
 友人関係というのならそれにも納得が出来る。
 皓介のように家具に興味のあるものなら、それだけで出かけたくなるほどのデザイナーなのだ。それで客が集まるのなら、デザイナーとしても本望ではないだろう。
 そしてオーナーも、友人の行為を無駄にすることもできずに小さく紹介することしかできなかった。
「やっぱり本物だったんだなー。そうか、座っちゃったよー」
 子供のように喜ぶ皓介に、奏は優しく微笑みかける。
「奏さん、今子供っぽいって思ったでしょう」
「いいえ。夢をお持ちの方は輝いているのだなぁと思ったんです」
 こそばゆい思いで皓介は照れた。
「今日はどのような店をお探しですか?」
「あ、そうか。今日はね、思いっきり和風のお店がいいな。何もかも和風の。でも、学生でも行けるような気軽な感じの店で」
 皓介の希望に、今日は思いあたりがあるのか、奏はまた奥に引っ込んだが、すぐに一枚の紙を持って出てきた。
「こちらが佐伯様のご希望にぴったりだと思いますが、いかがでしょう」
 差し出されたパンフレットのコピーは、昨日とは反対に店の内装が写っている。
「へー、ありがとう。行ってみるよ」
「お役に立てて嬉しいです。行ってらっしゃいませ」
「奏さん、今夜も来れる?」
 それで会話を打ち切られるような奏の挨拶に、皓介は誘いをかけてみる。
「私は今夜は夜勤ですので」
「夜勤? 夜勤なんてあるんだ」
「はい。フロントのメンバーと交代で夜勤に入ります」
「へー。じゃあ、ここのパンフレット、俺が貰ってくるよ」
 パンフレットやチラシのある店でも、少しずつ中身は変わっていくので、どんな店に行っても必ず最新のものを貰ってくるのだと奏は言っていた。
「お客様にそんなことをしていただいては申し訳ありませんので。どうぞごゆっくりお食事を楽しんでこられてください」
 奏は慌てて皓介の申し出を辞退する。それに皓介はいいっていいってと、適当に返事をした。
 奏が夜もホテルにいるのなら、食事から帰ってきたときに手渡しすることができ、それでまた会話も出来るという狙いがある。
「楽しんで、忘れなければね」
 皓介はにっこり笑って、朝と昼を兼ねての食事のためにホテルを出た。

 背の高い青年は、人懐っこい笑顔で奏の元へと日参する。
 仕事柄か、その美貌のせいか、誘われることが多い奏だが、昨日のように出かけたことは一度もない。
 自分も椅子に座りたかったからだと言い訳をしたが、それだけではないことは奏も自覚していた。
 あまり人付き合いが得意ではない奏は、コンシェルジュに配置された時はとても嫌だった。
 いっそ辞めてしまおうかと思ったくらいだが、いざ始めてみれば、苦手な営業のような仕事ではないとわかった。
 たまに我が侭な客に当たると困ってしまうこともあるが、客とは一定の距離を保ち、情報の提供以上のサービスも必要のないこの仕事は自分に向いているのではないかと思うようになった。
 自分にこの仕事を教えてくれた人の影響も大きいが、情報を提供して喜んでもらえ、そこが良かったと感謝してもらえると、自分のことのように嬉しく、今では自然な笑みで接客できるようになっていた。
 もっと頑張りたいと思うようになった奏の前に現われた青年。
 彼の明るさと素直さ、夢を語るときの輝きに、奏は惹かれ始めていた。
 相手は男なのに……。
 理性がストップをかけようとする。ただの憧れだと思い込もうする。
 けれど、色々自分の気持ちに対して悩むことが既に、これが恋なのだと認めているようなものだった。
 まだであったばかりの人。相手は客で、家出してきたと語ったように、本当は帰る家がある。
 このホテルヴィーハイヴを出て行けば、繋がりもなくなる人だ。
 夢をいっぱい抱えた年下の人。
 そんな人に思いを打ち明けられるわけもない。
「弓場さん」
 奏は皓介のことを思って悩んでいたが、外から見ればぼんやりとしているように見えただろう。突然声をかけられて、はっと振り返った。
「な、なに?」
「居眠りしてたんですか? まさかね、弓場君に限って。支配人が呼んでましたよ。部屋まで来てくださいって」
 日頃の真面目さが幸いして、あまり変な誤解は受けずに済んだらしい。
「ありがとう。じゃあ、ちょっと行ってきます」
 支配人の用件を考えると気が重くなるが、無理強いされることはないだろうと自分を励まして、従業員用のエレベーターに乗る。
 多分あの話だろうなと、奏はため息をつく。
 これでもう三度目だ。
 支配人室を訪れてドアをノックすると、中から秘書がドアを開けてくれた。
「失礼します」
 支配人は奏にソファに座るようにと促した。
「弓場君、例の話なんだが、考え直してくれたかね?」
 開口一番、直球で切り出される。
「申し訳ありません」
 だから奏も素直に頭を下げた。それ以外の答えは持ち合わせていない。
 支配人はため息をついて、もう一度考え直してくれといっただろう? と愚痴のようにこぼした。
「何度考え直しても同じですから」
 奏は俯く。
「そう……だな。いや、もうこの話は私からは止めにするよ。これで最後だ。だが、君にその気が向いたら、申し出てくれるとありがたい」
「いいんですか?」
 断ったとはいえ、あっさり引かれると、それはそれで申し訳ないような気持ちになる。
「いや、私も本当は乗り気じゃなかったんでね。三顧の礼も駄目でしたと言える。いいんだ。仕事に戻ってくれ」
 そう言われると奏もすっきりして、気持ちが軽くなった。
「ありがとうございました」
 奏は来たときと同じように頭を下げて部屋を出た。
 一階へ戻ろうとエレベーターに乗ると、途中から広報部門の部長をしている田所が乗ってきた。
「支配人に呼ばれていたのかね?」
 中年太りの太鼓腹を突き出すようにして聞かれ、奏ははいと正直に頷いた。
「何の用件だった?」
「いえ、たいしたことではありません」
 口に出すべき内容ではないし、すっきり断った奏としては、いくら部長といえども話してはいけないという理性が働いた。
「そうかね?」
 田所はそれでも疑るように暗い視線で奏をじろりと見て、途中でエレベーターを降りていった。
 まるで支配人室から出てきた奏を捕まえるためだけに、同じエレベーターに乗り合わせたようなタイミングだった。
「まさか……な?」
 閉じるドアに一抹の不安を締め出して、奏は自分の仕事のことに思考を戻したのだった。



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