翌日、午前中の授業を受けて皓介は一度ヴィーハイヴへと戻った。
 昼過ぎのその時間、ロビーは宿泊客より、ランチや待ち合わせといった客たちで賑わっている。
 けれど奏の言ったとおり、インフォメーションは空いていた。
 カウンターには誰もいなかったが、皓介はその前に立ってすみませんと呼びかけた。
「いらっしゃいませ」
 すぐにドアが開いて、一人の男性が顔を出した。
「奏さん、いる?」
 どうなさいましたかと問う相手に、皓介は奏を呼んでくれと頼んだ。
 彼は少し驚いたようだったが、すぐににこやかに笑みを浮かべて、少々お待ちくださいとドアの向こうに消える。
 そしてすぐに奏が出てきた。
「いらっしゃいませ」
 皓介を見て、奏は優しい微笑みを浮かべる。
 それはきっとゲストの誰にでも向ける笑顔なのだが、その笑顔が嬉しかった。
「今夜の食事場所、どこがいいのか紹介して?」
 皓介は椅子に座って、カウンターに身を乗り出すようにして奏を見た。
「お客様、和、洋、中、どのようなものを召し上がりたいとか、ご希望はございますか?」
 相変わらずの奏の綺麗な言葉遣いに、皓介は少し残念に感じながらも、うーんと唸った。
「なんでもいいかなー。あ、そうだ。座り心地のいい椅子のあるお店とかいうリクエストでも聞いてくれるの?」
 思わぬ希望が出てきて、奏は一瞬きょとんとした。
「座り心地のいい椅子ですか?」
「うん、そう。硬くもなく、柔らかくもなく、料理が運ばれてくるのが遅くなってもいいかなーっていうような、そんな椅子のある店」
 表情の中に難しそうな色を滲ませて考えていた奏だが、すぐに何かを思いついたようである。
「少しお待ちくださいませ」
 立ち上がって奏は奥の部屋へと行ってしまった。
 一人で残された皓介は、所在無げにロビーを見回した。
 ヴィーハイヴはロビーの中央が数段分高くなっていて、そこにソファーとテーブルセットが置いてある。数組の客が談笑している風景は、ごくありふれたホテルの風景だろう。
 柔らかなピアノのメロディーはスピーカーから聞こえてくるもので、生の演奏ではない。
 手持ち無沙汰でキョロキョロと周りを眺めながら待っていると、奏が戻ってきた。手に一枚の紙を持っている。
 その紙を皓介に向けて差し出してきた。
「イタリアンレストランです。これには店内の写真までは載っておりませんが、テーブルと椅子が有名なファニチャーデザイナーのものだということです。デザインよりも機能性重視のデザイナーだそうで、そこにこだわりを持っていると説明が……ここに」
 パンフレットの説明書きの部分を奏が指差した。男性の指とは思えない、細くて真っ直ぐな指だった。
 その指につられるように視線を移すと、そこに書かれている名前に皓介は「ええっ」と思わず声をあげていた。
「どうかなさいましたか?」
「いや、このデザイナー、本当に有名な人なんだよ。一般の店のデザインをするとは思えなかったんで」
「そうなのですか? すみません、私は勉強不足でそのデザイナーのことは知らなかったのですが、そんなにびっくりするようなことですか?」
「そんなにびっくりするようなことだよ。へー、知らなかったなぁ。これは俺のほうが勉強不足だよ。いやー。すげー。今夜ここに行こう。ありがとう、奏さん」
「お役に立てて何よりです」
 奏も嬉しそうに笑ってくれる。
「これはコピーですのでそのままお持ち下さい。簡単な地図も載っていますが、場所がわかりづらいようでしたら、詳細な地図の方をご用意させていただきますが、よろしいですか?」
 場所はそれほどホテルからも離れておらず、すぐにわかる場所だったので、大丈夫だと答えてから、皓介は奏をじっと見た。
「奏さんも一緒に行かない?」
 つい、本気で誘っていた。
 このときの皓介には、ホテルのことも、引き抜きのことも、何もかも吹き飛んでいた。
 ただ純粋に、そのデザイナーの椅子に奏と一緒に座ってみたいと思ったのだ。
 けれど奏は笑顔はそのままに、困ったように視線を泳がせた。どう言って断ろうと思っている目の動かし方であるとわかった。
「迷惑かな? 俺と出かけるの」
「いいえ、そういうわけでは……。私もその椅子に座ってみたいとは思いましたが……。申し訳ございません」
 軽く頭を下げられる。
 それ以上誘うのは野暮なのだろうし、ごり押しして嫌われたくなかった。
「俺、この店に九時頃に行くようにするよ。向こうでばったり会えたら、嬉しいな」
 曖昧な笑顔。YESかNOか、どちらの答えを奏が用意しているのかはわからなかった。だから答えまでは聞かないことにした。
 今夜が駄目でも皓介に諦めるつもりはない。これからも誘い続けるのみだ。
「また聞きたいことがあったら教えてくれる?」
「いつでもお越しください」
 それには笑顔で答えてくれる。しつこい奴だと嫌われていないだけ、今の時点では良しとしよう。
 皓介は笑って、午後に残した一コマの授業のため、もう一度大学へと引き返したのである。


 アルバイト先の家具売り場で皓介は家具専門の雑誌を見ていた。
 アメリカのファニチャー会社が出している専門的な冊子で、販売部数が少なく、写真もふんだんに使ってあるので、雑誌という値段を大きく上回っている本だが、それなりにマニアの間で売れている。
 その本の中に、奏から紹介されたレストランの椅子をデザインしたデザイナーが紹介されている。
 彼はよほどファニチャーに理解ある人の注文しか受け付けず、しかも受けてもらえたとしても数年は予約待ちをしなくてはいけないという。
 もちろん、皓介もホテルヴィーハイヴ社長の後ろ盾があったとしても、それだけで予約を受け付けてもらえる相手ではない。
「ほんとかなぁ」
 レストランの椅子をデザインするなど、ありえないと思ってしまうのだ。
 奏から貰ったコピーには、店内の写真はなく、デザイナーの椅子のこともちょろっと書かれているだけである。
「何見てるんだ?」
 輸入家具部門のチーフが皓介の横から手元の雑誌を覗き込んできた。
「これ見てくださいよ。これ、本当だと思いますか?」
 皓介はレストランのプリントを見せる。
「へー、椅子がねぇ。嘘っぽいな。ありえない」
「ですよねぇ」
 皓介も唸った。
「今夜行ってみようと思っているんです。座ってみればわかるかなって」
「だけど佐伯、本物に座ったことがあるのか? 本物に座ったことがないとわからないだろう?」
「あー、ですよねぇ。でも、とりあえず、行ってみたいですから」
 もしかしたら奏が来てくれるかもしれないし。ということは内心で付け加えておく。
「本物っぽかったら教えてくれ」
「わかりましたー」
 基本的に売り場は冷やかしの客の方が多いので暇である。けれど冷やかしとありありとわかっていても、皓介たちは丁寧に対応する。
 こんな売り場に来る客の中には信じられない値段のものを衝動買いする人もいるし、今は買ってもらえなくても、欲しいなと思ったときにこの売り場のことを真っ先に思い出してもらえることが大切である。
 そのためにはどの客も疎かにすることはできない。
 その日も数人の相手をして、ソファーセットが一つ売れただけで、皓介のアルバイトは終わった。


 急いでデパートの制服を着替えて、件のレストランへと向かった。
 ディナーの時間にはわずかに遅い時間なので、店内は空いていた。
 出迎えのウェイターに一人だと言って、皓介は窓際の席に案内された。
 緊張の面持ちでその椅子に座った。
 ゆったりとしたホールド感。クッションは硬くもなく、けれど沈み込むような感じでもない。背もたれの角度も食事を妨げず、かといってうしろ過ぎもしない。
 すっきりとしてシンプルなデザインでありながら、安定感と安心感を持っている。
 色は店内に合わせた濃いめの木目調。手すりと背もたれの上部のデザインはオリーブの花と葉が彫りこまれていた。
 本物だろうか。
 下手なデザイナーのものではない。それはわかったが、これが本物だという確信はもてなかった。
 メニューを持ってきてくれたウェイターに本物か聞こうと思って顔を上げた皓介は、入り口に現れた人を見てその質問は綺麗に消えてしまった。
「奏さん!」
 皓介が立ち上がって手を上げたので、ウェイターはかなり驚いたようである。身長だけでも他者を圧倒する皓介である。手まで上げれば、思わず身を引いてしまうのも仕方ないだろう。
「あ、すみません」
 皓介は自分の行動の子供っぽさを恥じて、慌てて座り込んだ。身を小さくしようとしても、元が大きな身体である。誰よりも目だってしまう。
 奏も周囲の客の視線を浴びながら、顔を赤くして席までやってきた。
「ごめんね、奏さん」
「もうここには来れないです」
 ウェイターが差し出してくれるメニューも恐縮して受け取る。
「でも、ここの椅子、確かに座り心地いいよ。教えてくれてありがとう」
「私も座り心地を確かめないと、自信を持ってお勧めできないなと思いまして、やってきてしまいました」
 奏は柔らかく微笑む。
「本物かどうか確かめたいんだけどね。疑うようなことは聞けないしなぁ」
 皓介の呟きに奏は素直な疑問を口にした。
「そんなに珍しいことなのでしょうか?」
 そこで皓介はこのデザイナーのことを、食事しながらではあるが知っていることを奏に教えてやった。
「佐伯さんは家具のことがお好きなんですね」
「そう、俺ね、輸入家具の店を持ちたいって思ってるんだよ。それも若いデザイナーの。輸入家具っていうと高いイメージがあるけれど、最近の若手デザイナーはデザインも機能もものすごく良くてさ。まだ売れていない人を発掘すれば少しは安く手に入れられるし。買う人にももっと身体のことを考えたデザインのものとか、知って欲しいんだよね。若手を育てたり、ユーザーへの教育みたいなことなんかはまだまだ俺には出来ないことだけど、将来的には絶対やりたいことなんだ」
 父親に聞かせても馬鹿にして取り合わないことを、奏は感心したり頷いたり驚いたりしながら聞いてくれる。
 つい熱がこもって、色々と話し込んでしまい、食後のエスプレッソが届く頃には、店内の客は皓介たちだけになっていた。
「ごめん、奏さん。遅くなっちゃったよね」
「いいえ、私もすごく勉強になりました。私達はお客様のことを考えていればいいと思っているのですが、それだとどうしても、物の見方が偏ってしまうのですよね。広い視野を持つためには紙面を見るだけではなく、実際に触れてみることも大切だし、その背景を知ることも大切だと感じました」
 奏が退屈しているのではないとわかって、皓介もほっとする。
「また明日もどこか紹介してもらってもいいかな?」
「気に入って頂けるお店を紹介できるように頑張ります。ぜひ難しい条件を提示してください」
 仕事に取り組みながら頑張っている奏の笑顔に皓介はコーヒーを飲むのも忘れるように見惚れてしまった。



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