強引に奏を引っ張って、皓介は表通りを一本入った小さめの洋風居酒屋へと連れてきた。
「俺ビール。コンシェルジュさんは何にします?」
「同じもので」
 落ち着かない様子で、奏は店内を見回しながら、注文はすべて皓介に任せた。
 ビールが先に運ばれてきて、皓介はグラスを持ち上げた。
「コンシェルジュさんに乾杯」
「弓場です。弓場」
「弓場さん?」
 もちろん知っているが、はじめて聞くふりをする。
「下の名前は?」
「え……、あの……」
「弓場なんていうの?」
「奏です。かなでといいます。演奏の奏」
「へー、いい名前だなぁ。俺はね、佐伯皓介。よろしく。1208号室に泊まってるの」
 乾杯とグラスで催促すると、ようやく奏はグラスを持ち上げて、カチンとグラスを合わせた。
「あの、佐伯さんは……」
「皓介でいいよ。俺も奏さんって呼ぶし」
「えっ……。だ、だめです。お客様にそんな」
 とんでもないと奏は首を振った。
「そう? 別にいいのなー。何? 俺に聞きたいことでもあるの?」
「今日はどのようなご用件だったのでしょう」
「今日?」
「ええ、夕方の、おでかけになる前です。インフォメーションの方に歩いて来られていましたよね?」
 詳しく言われて思い出した。何とか会話の糸口でもと、何かを尋ねるふりでもしようと思っただけだ。
「あー、なんだったかな。忘れちゃった。あ、そうそう、俺の部屋のベッド、ロングだったんで、お礼でも言おうかなーと思っただけ」
 ごくごくとビールを飲んで、濡れた唇を親指の腹で拭く。
「お客様の背が高いので、フロントの者が気を利かせたんでしょう。私がお礼を賜るのは間違いですので、是非フロントに言ってやってください」
 小柄な奏がジョッキを持つと、同じ物のはずなのに重そうに見える。
「あ、そう? じゃあ、今度顔を見たらいっておく」
「佐伯さんは言葉に訛りがありませんね。どちらの方ですか?」
「俺? 俺は長野のほうだよ。昔こっちに住んでいたから、こっちに出てくれば、こっちの言葉になっちゃうんだ」
 ホテルの宿泊票に書いた住所は長野の別荘のものにしてある。
 奏にはいずれ本当のことがばれるにしても、今すぐにばれるということは避けたかった。明日になって奏が皓介のことを調べても、齟齬が出ないように会話に気をつけなければならない。
「こちらにはご旅行ですか?」
「んー、家出みたいなものかなぁ」
「家出!」
 奏が驚いて大きな声を出すものだから、皓介は慌ててジョッキを置いてシーッと口に人差し指を当てた。
「す、すみません」
「家出みたいなもの、だって。俺だってもう成人しているんだから、数日家を出ても、何も問題はないし、ホテルにもちゃんと金は払ってるし、迷惑はかけないから」
 今は通学に便利だから家から通っているが、ホテルに就職するつもりのない皓介は、いずれ本当に家を出るつもりで、バイト代も貯金に努めている。
 周りはお坊ちゃんで小遣いにも困らない贅沢者と思っているようだが、皓介なりに節約にも励んでいる。
 着る物だけはみっともないものを着るなと、両親がスーツなどを作ってくれるときに、ついでにねだって買ってもらうこともあるので、甘やかされていると言われれば反論できないのが辛いところである。
 だが、金の価値のわからない使い方はしていないつもりである。
 すべては自分の夢のため。家出だって、父親の用意した就職先を蹴った時にはそうなるだろうと、つい口にしてしまった。
「ご両親がご心配されているのではありませんか?」
「んー、あとで連絡を入れておくよ。正式な家出じゃないしね。それより、敬語はやめて。えっと、俺のほうが年下だし」
「そんなわけにはまいりません。お客様に対して」
「客っていってもさ、今は奏さんは勤務外だし、ここはホテルの中じゃないし」
 それでも奏は首を振るので、皓介は苦笑するしかない。
 結局、初対面の二人がそれ以上は会話も弾むわけでもなく、そこそこに空腹を満たすと、席を立つことになった。
 会計でも、奢ると言った皓介が出すと言ったのだが、そんなわけにはいかないと奏が譲らなかったので、結局割り勘になってしまった。
「絶対、今度誘ったら、奢らせてよ」
 お釣りを財布に入れつつ、振り向いて奏に言いながら居酒屋を出ようとして、皓介は入り口の鴨居に頭をぶつけてしまった。
「いてっ、……あー、もう、油断したなー」
「大丈夫ですか? 今、すごい音がしましたよ」
 奏が驚いたように、ぶつけたところを押さえた皓介の手を見ている。
「もう、こんなことばっかり。ドアとかは気をつけているつもりだけど、油断をするとやっちゃうんだよな」
「コンビニで得することもあるんだと仰ったのは、こういう大変なこともあるからなんですか?」
 得をするって言ったっけ? と思って、奏が覚えていてくれたことに感激してそんなことを言ったと思いだす。
「いろんな所にぶつけてるよ。他にも立ってるだけで怖がられたり、ホテルだって気の利かないところだとベッドから足がはみ出す」
 皓介は冗談めかして言ったつもりだが、奏は気の毒そうに顔を曇らせて頷く。
「私などは羨ましいなと思っていましたが、大変なこともあるんですねぇ」
「あ、だから奏さんはむっとした顔をしたんだ」
 背が高くて得をしたと言ったときに、奏がむっとしたような気がしたが、あれは本当にむっとしていたんだと皓介は笑った。
 奏は確かに男性にしては少し低めだが、決して低すぎるというわけではなく、標準の範囲には入ると思う。
「すっ、すみません。そんな顔をしていましたか? 申し訳ありませんでした」
「そんな謝らないでよ」
「いいえ、お客様にそんな顔を見せてしまうなんて、ホテルマン失格です」
「だから、奏さんは今勤務時間外だし、ここはホテルの中じゃないんだから、俺と友人のつもりで食事してほしいし、言葉だって、もっと砕けてていいのに」
 そういってから皓介は奏の持っている物に目を止めた。
 手に数枚のチラシを持っている。確かレジの横に数種類のパンフレットやらチラシやらが置かれていたなと思い出す。
「そんなに美味しい店じゃなかったと思うけど」
 雰囲気は洋風で若者向けで良かったが、料理の味はもう一つだった。
「どこにいっても、貰ってくるのが癖になっていて」
 恥ずかしそうに奏はチラシを急いで鞄の中に入れた。
「そんなに集めてどうすんの?」
 見たところ、気になるものを一枚というのではなく、全種類をかき集めてきたという感じである。
「お客様にご紹介するときの参考にします。お店の名前、電話番号、料理の種類や雰囲気など、やはり実際の目で見た場所ですと、紹介しやすいですから」
「へー、そうなんだ」
 本当に感心して皓介は何度も頷いた。
「じゃあ、明日は奏さんにどこかいいお店を紹介してもらおうかな。うーん、何時ごろだったら暇?」
「インフォメーションの空いている時間ですか?」
「うん、そう。あの場所で教えてもらいたいなって思ってさ」
 奏に教えてもらいたいと言うことで、他のコンシェルジュに回されることを避けるつもりだった。
「何時でも構いませんが、比較的空いているのは、昼過ぎから夕方までの時間ですね」
「わかった。じゃあ、その間に行くようにするよ。今夜はありがとうね」
「あの……、気になっていたのですが」
 表通りで別れようとしたところで、奏は皓介を呼び止めた。
「何?」
 まだ話しができるのなら皓介にとってそれは嬉しいことである。
「それは髭剃りですよね。ホテルのアメニティはお気に召しませんでしたか?」
 手に提げていたコンビニの袋を指差される。
「あ、ああ、これ? うん、多分見た目は変わらないんだろうけど、どうもホテルのは肌に当たった時の角度が嫌いなんだよな。最初に使った物が使いやすいと、他のが嫌になっちゃうことってあるだろ? そんな感じだから、ホテルのが悪いってわけじゃないよ」
 何事かを考えこむような奏に、皓介は笑って付け加えた。
「ほら、シャンプーやボディソープも、ホテルのは使わないっていう人いるだろう? あれと一緒だよ」
「そうですか。わかりました。ありがとうございます」
 礼まで言われるほどのことではないので、奏のあまりの真面目さに笑ってしまったが、それは決して嫌だからではなかった。
 むしろ自分の管轄外のことであるだろうに、その熱心さは働く男として好ましい。
「それでは足をお止めして申し訳ありませんでした。ごゆっくりお休みください」
 ホテルのフロントで見送られるような言葉に、皓介は微笑んでじゃあと手を上げた。
 道を左右に分かれて、皓介はホテルへと戻る。
 既に時刻は十二時近く、学校とアルバイトで身体も疲れているはずだったが、心はとても軽くて、足取りも弾むような気がする。
 明日も奏と会えるというのがとても楽しみになっていた。



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