弓場奏、という名前を呟いて写真を見ていると、妙に名前に似合っていると思えてくる。
 綺麗で優しそうな人というイメージが浮かんでくる。
 怒りとその場の勢いで父親に捻じ込んだ「自由」がこんな形で現実味を帯びてくるとは、皓介も予想外だった。
 ヘッドハンティングというのは勿論経験のないことで、どのように接触すればいいのかがわからない。
 インターネットで検索をかけてみたが、それっぽいタイトルの本だとか、真実味のあやしい自己語りが出てくるだけで、参考になるような記事はヒットしなかった。
 けれどそれでいいのかもしれないと思った。
 プロの交渉は既に失敗しているのだ。
 ならば、正攻法でない方がいいのかもしれないと思い直す。
「まずは、やっぱり接触することからだよな。出会い……。出会いってどうすればいいんだ?」
 これが女性相手なら、男の自分が取る方法は一つ、ナンパをすればいい。二ヶ月という期限は厳しいかもしれないが、それなりに親しくなれば転職の話もしやすい。
「いや、ほんと、女なら良かったのになー」
 これだけの美人であれば、喜んでナンパするのに。
「そういえば、姉貴にいいとか言ってたな。似合わねーなー」
 つい本心で言ってしまう。
 姉は美人だが、弟の皓介から見れば、とても気がきつい。この優しそうな男はさぞかし気苦労が多そうになると予想できる。
「それも関係ないけどね」
 写真を学校用のバインダーに挟んで、皓介は眠ることにした。
 顔はもう覚えた。デパートに来る客の顔はなるべく一度で覚えるようにと訓練している。
 もっとも訓練などしていなくても、彼の顔ならすぐに覚えただろう。それほど彼は綺麗だった。
 皓介も以前から、同級生の女の子たちにはかっこいいと褒めてもらうことが多かった。自分でも自覚して、その魅力を出せるように工夫も努力もしている。
 背が高いとそれだけで注目を浴びる。人は自然にその高い位置にある顔も注視してしまうものだ。
 佐伯家遺伝の凛々しい眉と細めだがきりりとしたつり目。少し大きめの唇は薄めなので冷たい感じを与えがちだが、笑っていると酷薄そうな印象は消せる。
 人懐っこい笑顔は標準装備である。そうでないと高い身長ときつめの容貌で、とても怖がられてしまうのだ。人並みに楽しい青春を送りたい皓介には、自分を多少騙してでも笑顔でいないと駄目なのだ。
 翌日、大学を終えた皓介は一度自宅に戻り荷物を数泊分取りまとめて、ホテル「ヴィーハイヴ」へと向かった。
 ロビーを横切り、真っ直ぐにフロントへと向かう。
「いらっしゃいませ」
 フロントにいた男性が渋めの良い声で対応してくる。
「シングル一つ、空いてます?」
「ご予約は伺っておりますでしょうか?」
「してない」
 フロントマンは軽く頷いて、カウンター脇のパソコンに何かを入力した。
「ご用意できますね。12階でよろしいでしょうか?」
「いいよ」
「一泊9500円となっております。前金でよろしいですか?」
 皓介は財布からカードを取り出した。佐伯の名前が入っているが構わないだろう。それほど特殊という名前でもないし、並んで建つホテルの社長の息子がわざわざライバルホテルに泊まりに来ると考える人物は少ないだろうと判断した。
「とりあえず、5泊で」
「お預かりいたします」
 相手はカードをスキャナーに通す。カード自体に問題はないので、すぐに認証がおりた。利用限度額も普段からあまり使っていないので、満額の100万はあるはずだ。
 支払い回数を一回にし、サインをしたところでボーイがやってきた。
 カウンターに置かれたカードキーと手に持っていた荷物を受け取り、皓介を案内してくれる。
 フロントの横、クロークの脇にあるインフォメーションの文字。あそこがコンシェルジュのスペースであろう思われた。
 今は誰もいなかった。呼べば誰かが出てくるのかもしれない。
 ちらりとそれを見届けてから、皓介はエレベーターに乗った。

 部屋はごく普通のシングルの部屋だった。
 縦長の造りで、ドアの脇に浴室とトイレ、その部分だけが狭い通路のようになっていて、奥にベッドがあった。
 シングルベッドの長さが心配だったが、外国製のロングサイズらしく、皓介が寝転んでも足がはみ出す心配はないようだった。
 ベッドの脇にテーブルと椅子のセットがあり、足元にクローゼットがある。
 その横はもう窓で、カーテンを開けるとなんと、ジルウェットが見えた。
 ジルウェットに泊まっても、こっちのヴィーハイヴは見えているのだろう。
 父親のホテルに泊まるという考えは一度も抱いたことはなかったが、こうやって外から眺めることになると、一度は泊まってみるのもいいかもしれないと考えた。
 チェックインは済ませたものの、これからどうすればいいのかなどは考えていない。
 ターゲットと接触するには、まず相手の懐に飛び込めとばかりに、思いついてすぐに行動に移したのである。
 父親には二ヶ月の経費はどれくらいなのかと尋ねたところ、お前のカードの限度額だという返答があった。
 それならば期限の間ホテルに泊まりこむことができると、安直に飛び込むことに決めたのである。
 ホテル業務に関しては全く興味のない皓介であるが、長期滞在者が意外に多いということも知っている。<中には年単位で『ホテルに住んでいる』人もいるくらいである。
 自分の若さがネックになるかもしれないと思ったが、あまり客の詮索をしないというのもホテルの特徴である。 何とか二ヶ月を乗り切れるだろう。
 その間もアルバイトを休むつもりのない皓介は、部屋のカードキーを持って部屋を出た。
 一階に下りてみると、ロビーは先ほどよりも混みあっていた。
 夕方から夜にかけて、チェックインの客が増えてくる。
 フロントにも数組のゲストが並んでいた。
 ふと横を見ると、インフォメーションのところには誰もいなかった。正確には一人座っている人がいる。ゲストではない。ホテルの制服を着ている。
 皓介はドキッとして足を止めた。
 見間違えるはずがない。
 昨日散々見た顔だ。
 写真で見るよりも、ずっと柔らかな空気を身に纏っている。
 フラフラと、意識するよりも早く、皓介は彼に向かって歩いていた。
 所在無げに座っていた彼がふと顔を上げる。皓介の視線を感じ取ったのかもしれない。
 目と目が合った。
 ピリッと空気が震えるような感じを受けた。自分の肌がヒリヒリと痛寒いような感じに、皓介は足を止める。
 弓場は不思議そうに首を傾け、手の甲をこすっている。
 ごくりと息を呑んで、皓介は再び歩き始めた。
 もう一歩で彼と会話できる距離まで近づき、最初の言葉をかけようとしたとき、「すみませーん」と明るい声が二人の間に割り込んだ。
「この辺で、美味しいスウィーツのお店ってありますか? できれば見た目がゴージャスな感じのお店がいいんですけど」
 三人組の女性がインフォメーションカウンターに身を乗り出すようにして尋ねていた。
「スウィーツのお店ですね。そうですねぇ」
 弓場はにこやかに女性たちの要望を復唱しながら、ちらりと皓介の方を見た。貴方も何か用事があるのでしょう、申し訳ありませんという表情に、皓介は苦笑しながら片手をあげてその場を離れた。
 きっと他にもコンシェルジュはいるだろうけれど、皓介の目的は何かを質問することではない。彼と話を出来なければ意味はないのだ。
 まだ機会はあるさと、皓介はアルバイト先のデパートへ向かった。

 デパートの就業時間は午後九時。それから片づけをして、店を出るのは九時半過ぎになる。
 どこか飲みに行かないかという誘いを断って、電車で三駅。皓介はホテルヴィーハイヴへと『帰宅』した。
 既に午後十時。だがホテルはまだ眠っていない。
 観光地から戻ってきて、その場でチェックインする客もおり、ロビーもフロントも夜とは思えないほどの人数がいた。
 ちらりとインフォメーションセンターを見るが、そこには弓場ではなく、一人の若い男性が座っていた。
 弓場でなければ用事はない。皓介はそのままエレベーターで部屋へと向かった。
 カードキーを差し込んで部屋に入る。自動でドア灯がともる。部屋の電気をつけて、バスに湯を張る。
 そこで忘れ物に気がついた。
「剃刀、これじゃ嫌なんだよな」
 ホテルのアメニティの剃刀だと、すっきり剃れない。いつも旅行に行く時は絶対に忘れないのだが、旅行という気持ちではなかったので、日用品の細々としたものを忘れてしまったのだ。
 明日も大学はある。きっと見た目にはこの剃刀でも変わらないだろうが、自分の気持ちが違う。
 皓介はバスの蛇口を閉めて、財布とカードキーを手に買い物に出かけることにした。
 ホテルを出てしばらく歩くとコンビニがある。そこに置いてなければ、ドラッグストアに行くしかないなぁと探していると、残り一つというところでそれを見つけた。
 ほっとしてそれを手にレジに向かうと、レジの横にあるお弁当のコーナーでじっと並んでいるお弁当を見つめている人を見て、皓介は驚いて立ち止まった。
 弓場奏だ。こんなところでお弁当を買っている。
 休憩時間ではないとわかったのは、少し大きめの鞄を持っていたからだ。
 彼の手が伸びたところを皓介は思わず掴んでしまった。
 酷く驚いて奏が手を引いて、きっと皓介を睨んできた。そのきつい目が皓介を見てあれ?と疑問を含んで和らいだ。
「あんまりこんなお弁当は良くないですよ、コンシェルジュさん」
「あ、あの……」
「俺ね、1208号室の客」
「え、ええ。お泊りのお客様ですよね」
「覚えていてくれたんだ。嬉しいな」
 皓介は標準装備の笑顔をさらににこやかにする。
「ものすごく背が高い方だなと思いましたので」
「あぁ、そうか。背が高いとラッキーなこともあるんだ」
 皓介がニコニコすると、奏はなぜか少しむっとしたようだった。
「ちょうどいいや、俺ね、食事がまだなんだ。良かったら一緒に食べてくれません?」
 コンビニの弁当は良くないですよと、レジに聞こえないように声を潜めてウインクする。
「え、いや、それは……」
「奢りますよ。今からだと食事っていうより、居酒屋の方になっちゃうかな。通りがかりに見つけた店があるんだ、いきましょうよ」
 皓介は思わぬ出会いに浮かれて、相手の職業も忘れ、コンビニのレジを済ませ、強引に奏を食事へと連れて行った。




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