堅苦しいスーツを脱ぎ捨て、ネクタイも外し、シャツの腕を捲りあげて、皓介はヴィーハイヴの部屋で荷造りをしていた。
 十日余りを過ごすつもりだったので、荷物はそれなりに増えている。
 衣類は最初に持ってきたスポーツバッグに詰め込み、他のものはホテルの名前入りの紙袋に放り込んだ。
「ヴィーハイヴの名前入りはまずいか? 家に帰るだけだし、いいか」
 一人で問い、一人で答えて、適当に荷物をまとめた。
 ゴミも一つにまとめ、洗面室の剃刀を取ろうとして手が止まった。
 奏が用意してくれた剃刀。そう思うと、捨てられなかった。
 持って帰っても、数度使ったものだから、すぐに使えなくなる。わかっていても、捨てていくことはしたくなかった。
「俺って、案外センチなのかも」
 似合わないと笑いながら、それも荷物の中に放り込む。
 もう一度ネクタイを首にかけ、結ぶことはせずに上着を羽織った。
 窓に近づき、カーテンを閉めた。部屋が薄暗くなる。
 もう二度と、ヴィーハイヴに泊まることはないだろう。そもそも、今回泊まったのだって、かなりのイレギュラーだった。
 その経験が皓介を変えた。
 自由奔放をモットーにしていた皓介は、しっかり地に足をつけ、真面目に仕事に取り組む奏を見て、衝撃を受けた。男として憧れた。自分も一人前の男になりたいと思うようになった。
 奏がこのホテルを大切にしていることを知り、引き抜くことは早々に諦めた。
 もう会わないだろう。会えないだろう。
 でも……。
 内心に秘めた決意に、皓介は唇に笑みを浮かべた時、……部屋をノックする音が響いた。
 笑みを消し、皓介は怪訝な表情になる。
 大股でドアに近づいて、スコープを覗いた。
「え……、奏さん?」
 丸い窓の向こうに奏の姿を見て、皓介は慌ててドアを開けた。
「奏さん、どうして……」
「入ってもよろしいですか?」
 落ち着いた奏の声に、皓介はどうぞとドアを大きく開いた。
 部屋に入る奏に続いて、皓介も部屋の中へと戻る。
「もう、帰る用意をしていたんですね。まだ、宿泊予定は残っているのに……」
「……玉砕したからね」
 皓介はなるべく明るく答えた。
 奏がここに来た目的はなんだろうかと考えるが、恨み言をいわれるのだろうという以外に思いつかない。
 もう一度会えた喜びと、これで本当に嫌われるのだという覚悟とで、必死で笑いを作ることしかできない。
「きみはもう、夢を諦めるんですか?」
 奏は振り向いて皓介を見上げてきた。
「いつか自分の店を持ちたいって、言いましたよね。あれも、僕を騙すために言った戯言だったんですか?」
 皓介は顔を背けて、答えを避けた。
「きみは……それでいいんですか?」
「俺さ、さっきも言ったじゃないか。俺は自分のしたいこともする。それと同時にホテルのことももっと勉強する。奏さんがいつかさ、ジルウェットを蹴ったことを後悔するくらい、素敵なホテルにする。それが俺の目標になったんだ。決して諦めたわけじゃない。奏さんに嘘を言ったこともない」
 頭に手をやって、皓介は横を向いたまま笑った。
「でも、何よりも、大学を卒業しなくちゃなんないんだけどね。まずはそれが最優先」
 誤魔化すように話をそらして、カーテンを開けた。
 まだ空には雲一つない、青空が広がっていた。
「きみは自由が欲しくない?」
 奏は一歩、また一歩と皓介へと歩み寄った。
「自由……。俺が今欲しいのは、奏さんかな。俺って諦めが悪いんだよね」
「でもきみは、僕を引き抜いたら、ジルウェットを出て行く。それは矛盾しているでしょう」
 奏の指摘に皓介は苦笑する。
「それは最初の約束だったんだよ。奏さんを写真でしか知らなかった。だから、そんな取引に応じたんだ。奏さんと出会って、その取引のことは諦めた」
「諦めが悪いんじゃなかったの?」
「人が悪いな、奏さんは」
 皓介は笑って、逃げるように奏に背中を向けた。
「僕のために夢を諦めてくれたんでしょう? どうして何もかも悟ったようなことを言うんだ。まだ学生なのに」
 皓介の上着の裾を掴んだ。
 背が高すぎて、目の前には背中しか見えない距離になってしまう。
「学生なのに、スーツが似合って、生意気だ」
 育ちが違うと見せ付けられているような皓介の姿が、痛々しく感じられる。
 カジュアルな学生らしい皓介の方が生き生きとして見えた。
「奏さん、怒っているなら、もっと言っていいよ。腹立つこと、全部ぶつけてよ。嫌味なんて、奏さんに似合わない」
 背中越しに聞こえる皓介の声は、とても優しく響いた。
「どうしてそんなに優しくできるんだ。そんなだから、みんなに騙されるんだ」
「みんな?」
 皓介が振り返ろうとするのに、奏は両手で背中を押さえるようにして、動きを止めた。
「僕は……一年前にコンシェルジュの方に配置換えされた。その時に、ある話を持ちかけられたんだ。支配人と、君のお兄さんに」
「えっ?」
 皓介は奏が押さえているのを振り払うようにして振り返った。
「兄貴と一年前に会った?」
「コンシェルジュとしての教育期間を終えた後、ジルウェットに移るようにと。その報酬として、契約料を貰った」
 奏は苦しそうに語る。今は奏の方が皓介の視線を避けるように、顔を背けている。
「三ヶ月前に僕はまた支配人と佐伯さんに呼ばれました。少し早いけれど、ジルウェットに来て欲しいと。でも、……僕は……」
「断ったんだ?」
 驚きを押し隠すように尋ねると、奏は小さく頷いた。
「移りたくなくなってました。一年前はホテルに就職したばかりでどこでもいいと思っていた。支配人に頼まれて嫌だと言えなかった。けれど、コンシェルジュとしてホテル全体を見渡すようになれと教育されて、そんな気持ちになってみると、移るのが嫌になった」
「二人は……なんて?」
「まだ三ヶ月あるからゆっくり考えてくれと言われました。その間に二度、プロのヘッドハンティングの人に会いました。きっと佐伯さんは、情に左右されず僕が返事しやすいようにと、そんな人を雇ったんだと思います。返そうとしたお金も受け取ってくれませんでした」
「それは……以前にヴィーハイヴがジルウェットのコンシェルジュを引き抜いていったことと関係がある?」
 父親の話を思い出す。
 一番ロスの少ない方法だと優介は言っていた。
 ならば、育てた相手を引き抜くよりも、引き抜かれた相手に育てさせるという道を選ぶのではないだろうか。
「そうだと思います。僕を教育してくれた人は、以前ジルウェットに勤めていたそうです」
 あのクソ親父。心の中で罵る。
 なんだかいいように踊らさせられたような気がするが、決して気のせいではないだろう。
「だからここの支配人が奏さんに移籍を勧めるようなこと言ったんだ」
「僕が移れば、君は自由になる」
 奏の言葉に皓介は首を横に振った。
「そんなことしなくていい。奏さんには自分の働きたいところで働いて欲しい」
 皓介は奏の肩に手を置いて、自分は大丈夫だからと笑った。
「でも、僕は……、君を自由にしたい。君と一緒のところで働きたい」
 驚きがゆっくりと広がっていく。その広がりは、信じられないという気持ちと、嬉しいという気持ちに切り替わっていく。
「奏さん……俺のこと、好きになってくれるの?」
 恐る恐る尋ねる。今得た驚きが、自分の勘違いだったらどうしようと思って怖いのだ。
 驚く皓介の前で奏は首を振った。皓介は悲しく瞳を揺らせる。
「これから好きになるのは無理です。だって、もう、好きですから」
 奏の言葉に感極まって、皓介は彼を抱きしめた。
「奏さん……」
「苦しいです、皓介君」
 苦情を言われても、力を緩めることはできなかった。力を緩めて、逃げられて、嘘だと言われたらどうしよう。それともこれが夢で、手を離した途端、奏が消えたらどうしよう。
「それに……離してくれないと、キスもできません」
 確かにそれはそうなので、皓介は少し力を緩めた。二人の間に、わずかな空間ができる。
「届かない……」
 奏は苦笑する。二人の身長差は、奏が背伸びをしても、キスをするにはまだ足りなかった。
「奏さん、愛してる……」
 皓介は囁いて、奏の腰を抱き上げるように引き寄せ、自分は身体を傾けて奏の唇にキスをした。
「ジルウェットにきてくれる?」
「僕が君の望みを叶えてあげるよ」
 奏の微笑みに、皓介はその身体を抱き上げて、壁際のベッドへと運んだ。
「欲しい……今すぐ」
「君の望みはいつも真っ直ぐだね」
 奏は笑って、ベッドの上から皓介の肩を引き寄せた。




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