「奏さんっ!」
皓介は飛び出した奏を追いかけた。
振り返りもせず、奏はホテルの中を走り抜けていく。
廊下を曲がるたびに、その先を知っている奏と、奏の後ろ姿を探さなければいけない皓介では差が広まっていくばかりだった。
「奏さん、待って!」
非常階段へのドアを開けて、奏は下へ下へと降りていく。
皓介はラストの五段は飛び降りるようにして、奏を追った。
「奏さん!」
一階の外へのドアに手をかけたところで、皓介は奏に追いついた。腕を掴むが、息が切れて言葉にならない。
それは奏も同じようで、はあはあと荒い息で、捕まれた腕を振り払おうともがいた。
「待って、逃げないで」
皓介の願いを奏は首を振って拒否する。
「ヴィーハイヴを辞めるなんて言わないで。そうでないと、俺は……、貴方を守れたことにならない。今すぐ取り消してもらおう」
「どうして。僕がここを辞めたほうが、君にはいいんだろう! 最初から……っ、最初から僕を騙して、近づいてきたくせにっ……」
「騙すつもりじゃなかったんだ。そりゃ、正攻法で行くより、奏さんと個人的に親しくなったほうが、引き抜きの話はしやすいと、それは考えたけれど」
「それはもう断った。二度と僕に近づくな」
奏は自分の腕を掴む皓介の手を、掴まれていないほうの手で引き剥がそうと必死になる。
「お願いだから、聞いて。親父にも、兄貴にも言った。奏さんの引き抜きは諦めてくれって。だから、奏さんはヴィーハイヴを辞めなくていいんだ。ずっとここで、今までどおり、働いていけるんだよ」
「だから君にお礼を言えって? 酷い……」
奏は抵抗をやめて、自由な腕で目を覆った。
「お礼なんて言わないでいい。そんなつもりじゃないんだ。どう言えばわかってもらえるかな、俺、奏さんを苦しめるつもりじゃないのに、……ごめん」
「だったら、手を離せ」
「だって、手を離したりしたら、奏さんが逃げてしまう」
それだけはできないと、皓介は奏を引き寄せた。
「俺は、確かにジルウェットの社長の息子だけれど、まだジルウェットの社員じゃない。上には兄貴が二人と姉までいて、親父は子供たちが大学を出たら、ホテル業務にかかわりのある企業に修行に出させる。短くて十年。今年一番上の兄貴、英介が戻ってきた。俺はね、それが嫌で、親父にそんなふうに決められたくないって反発した」
奏は聞きたくないとばかりに、腕で顔を覆ったまま、その顔を背けてしまっている。
それでも耳を塞ぐことはできないだろうと、構わずに皓介は話を続けた。
「俺が輸入家具の店を持ちたいっていうのは、あれは本当だよ。だから家を出る、それを認めてくれと親父に話をした。親父はある条件を出した。……自由が欲しいなら、奏さんを引き抜いてこいって、……言ったんだ」
話を続けようとした皓介は奏が肩を揺らし始めたことに気がついた。
「奏さん?」
奏は笑っていた。肩を揺らし、可笑しそうに笑い声をたてて。
なのに唇は震え、涙が頬を伝う。
「君は自由のために、僕を騙した」
「そう……、そうだね。俺は奏さんを犠牲にして、自分の自由を手に入れようとした」
「だったら、これでもう自由は逃してしまったんだ。ざまあみろだな」
奏らしくない言い方に、皓介はそんな台詞を言わせてしまったことを悔やむ。
「奏さんはここに残れる。嫌なジルウェットに来なくていいんだ……」
「もう遅いよ。辞めるって言って飛び出してきたんだから」
「それでも辞表を出したわけじゃない。兄貴がきっと、執り成してくれている。安心して戻っていいよ。……それを言いに追いかけてきたんだ」
皓介はゆっくりと奏の手を離した。
「俺、本当に奏さんのことが好きだよ。昨日、言ったことは本当のことだから。貴方に近づいた目的は不純なものだったけれど、貴方に対する気持ちだけは、嘘じゃないから」
手が離れると、奏は捕まれていた部分を痛そうに擦った。
「ごめんね、酷いことをして。最後にお礼だけ言わせて」
「礼?」
何故礼を言われるのかと、奏は目を細めて皓介を見た。
「奏さんの仕事に対する姿勢に、俺は色々気づかせてもらった。俺は誰もわかってくれないと、自分の努力の足らないことを、人の無理解のせいにして荒れたりした。でも、奏さんを見て気づいたんだ。俺のしたいことって、ホテルの仕事からそんなに離れていないんじゃないかなって。だから、俺はこれから、自分の勉強と、ホテルの勉強と、どっちも頑張る。将来は、俺たち、ライバルになるね。奏さんにライバルって認めてもらえるような……一人前のホテルマンになるよ」
「それで……いいのか? 自分の夢があるんだろう?」
皓介は腰に手を当てて、苦そうに笑った。
「夢も、仕事も、俺の中では一つになる。奏さんが俺に気づかせてくれた。……ありがとう」
皓介の笑顔があまりにもおおらかて、明るくて、曇りがなくて。見ているのが辛そうに、奏は非常口のドアを開けた。
外は快晴だった。青い空には、雲一つない。
奏は後を振り返らずに走った。
皓介はその後ろ姿を見送ってから、自分も外へ出た。
うしろにはホテルヴィーハイヴ。右手にはホテルジルウェットの姿が見える。
皓介の頭上には青い空。
「青空って、目に沁みるよなぁ」
手の甲でまぶたを覆う。
網膜にやきついたのは青い空でも、輝く太陽でもなく、奏の涙だった。
支配人室に戻ると、支配人と佐伯英介がまだ残っていた。
「飛び出して申し訳ありませんでした」
奏が頭を下げると、支配人は苦笑しながらも、奏の捨て台詞は聞いていないと言ってくれた。
「一人で戻ってきたということは、不肖の弟は失敗したということですか?」
ライバルホテルの支配人室だというのに、英介は不思議なほどに寛いでいた。
「私は彼から、一度も引き抜きのお誘いを頂いたことはございません」
奏が固い口調で答えると、英介は楽しそうにクククと笑った。
「まるで誘われたら受けるように聞こえますよ?」
からかうような英介の物言いに、奏はじわりと沸いた不快感を飲み込んだ。
同じ兄弟でありながら、皓介の天真爛漫な明るさと、彼の狡猾さは、まったく異質である。
「仮定の話は無意味です」
「そうですね。我々も貴方に移っていただくことは諦めました。貴方が頑なに拒んでくださったおかげで、私達は逃げ出そうとしていた大きな魚を捕まえることができた」
比喩的な表現に、奏は不安に駆られ、英介の澄ました顔を見つめた。
「実はうちの社長が一番期待しているのが、一番下の弟でね。どうです、あの真っ直ぐさ、この業界では見かけないほどの輝かしい宝石でしょう。しかしあれは自由の翼が欲しいと言いましてね、しかも自らの大きな翼を持っている。縛っておけるものでもない。手放すしかないと思っていたところに、本人から籠の中に入ってきましてね。あの向こう見ずさですから、直接交渉に出向くだろうと思っていたら、予想通りまさに直線でした。貴方を手に入れられなかったのは惜しいが、それ以上の太陽を手に入れました」
奏は床が揺れているような感覚に陥っていた。
真っ直ぐに自分は立てているだろうか。
「おかげさまで、あれはホテル業務に入ると言ってくれました。貴方にお礼を言わなくてはなりませんね。ありがとうございました」
それでは私はこれで、と英介は立ち上がり、支配人と握手をして出て行こうとした。
「待って下さい。一つだけ、お聞きしてもよろしいですか?」
「どうぞ?」
「彼は……私のことを……、ジルウェットとヴィーハイヴの裏の約束を、知らなかったんでしょうか?」
英介はふっと笑って、奏に振り返った。
「裏の約束ってなんでしょう? 私も知りませんね。支配人、貴方はご存知ですか?」
「知りません。弓場君、何のことだね?」
「だって……、だって、私は……」
奏は二人を見比べた。
この三人で食事をしたのは、そう、一年前。そして三ヶ月前。
そして奏は一年前の約束を三ヶ月前に反故にしてしまった。
「この現代に人身御供のような、ふざけた約束など、あってなきが如しですよ。君は最初から自由なんですよ」
そう言って、奏に最初の引き抜きをもちかけた男は扉の向こうに消えた。
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