奏の前に現われた皓介は、まるで太陽のような明るい存在感を持った青年だった。
 奏に対する行為を隠す様子もなく、大型の犬のように懐いてくれた。実際に尻尾があったら、ふさふさとしたそれが揺れるのが見えただろうなと想像して、楽しくて仕方なかった。
 茶色で賢そうな瞳をしたゴールデンレトリバー。少し毛が長めで、尻尾がふさふさして、耳がぴんと立っていて、姿勢が良くて、走るのが早そう。そんなイメージを抱いていた。
 はじめてロビーで彼を見たとき、肌が粟立った。
 不愉快だったのではない。ピリピリとした痛気持ちいいような、不思議な感覚に、思わず手の甲を擦っていた。
 その時は他の客の対応で話すことはできなかった。
 客の対応ができなかったことを残念だなと思ったことは初めてだった。
 その時は話すことができなかったが、それからすぐに皓介と話すことができた。
 皓介はニコニコと、奏を誘ってくれた。
 客に誘われて出かけたのは初めてだ。
 警戒しなかったわけではない。けれど皓介の瞳には曇りがなかった。
 明け透けといえるほどに、奏に対して心を開いてくれて、色んな話を聞かせてくれた。
 何も……嘘などないと思っていた。
 本当に親と喧嘩をして、プチ家出のように飛び出してきたと思っていた。
 フロントで調べたら、カードで滞在費用を払っていて、身分を隠すつもりも、親に居場所を隠すつもりもないのだと思った。本当に身を隠すためなら、すべて現金で処理するはずだから。
 彼が嘘をつくとは……思わなかった。
 自分に向けてくれたあの瞳に、裏があるなどとは思わなかった。
 だから佐伯という名前だと知っても、ジルウェットのことすら思い出さなかった。
 弓場は堅物すぎて、油断がなくて、面白味もないと評価されてきた。真面目で何事も漏らすことなく、そつなく仕事をこなすことができる。
 周りの評価も、自己評価も同じで、それで間違いがないと思っていた。
 なのに……。
 愚かだった。
 皓介の真っ直ぐさに惹かれ、疑うこともなく、彼に自分を曝け出してしまった。
 彼が自分に近づいてきたのは、引き抜きのためだったのだ。
 身分を明かさなかったのは、奏の腕を確かめるためだったのだろう。
 今回の騒動で、奏はヴィーハイヴを辞めなくてはならないだろう。けれど、ジルウェットに行くことももうできない。
 皓介は奏を守ると言い残して、部屋を出て行ってしまった。
 彼が守るのは……ジルウェットだ。彼が守らなければならないのはジルウェットであって、自分という個人ではない。
 自分が頑なに拒んでいたために、手放したくないと思ったもの、新たに欲しいと思ったもの、どちらもなくしてしまった。
「もう……どうでもいいや」
 涙を流しながら、奏は笑うように呟いた。


「奏さん、いる?」
 インフォメーションで皓介はテーブルに両手をついて、座っていたコンシェルジュに尋ねた。
 いつも奏を呼んでもらう彼は、いつものラフな学生風スタイルとは違う、きちんとスーツを着た皓介を見て驚いたが、すぐに平静な表情を取り戻した。
「申し訳ございません、佐伯様。弓場はただいま離席しておりまして、私でよければ代わりにお伺いさせていただきます」
「奏さん、呼んで。佐伯がきたって言ってもらえばわかるから。この時間に約束をしてあるんだ」
 真剣な顔で頼むと、彼は「少々お待ちくださいませ」と、テーブルの脇に置いてあった電話に手を伸ばした。
「インフォメーションです。佐伯様とおっしゃるお客様が弓場をお呼びです。……はい。……いえ、約束がおありだと。……ええ、……はい」
 相手の声は聞こえてこなかった。数度のやり取りの後、彼は受話器を置いた。
「申し訳ございません。弓場はただいまどうしても手を離すことができません。伝言がございましたら、承りますが」
「それじゃ駄目なんだよ。俺に直接話させて。奏さんに電話を繋いで」
「待ちなさい」
 皓介が無理矢理にも電話を取ろうとしたところへ、落ち着いた声が割って入った。
 コンシェルジュは初めて皓介のうしろに人がいたことを知る。
 その人は皓介よりずいぶん年上に見えて、スーツの着こなしも完璧だった。
 その男性が胸ポケットから名刺入れを取り出して、名刺を一枚抜き出し、カウンターの上に滑らせた。
「支配人に連絡を取って下さい。アポイントメントはありませんが、これが約束をしているはずです。会って頂けると思いますので」
 木目のカウンターに置かれた真っ白な名刺。明朝体の美しい文字を追って、コンシェルジュは目を瞠った。
 常に落ち着いた対応をという教えを忘れ、手は慌てて電話を持った。
「し、支配人、あの、あのですね。ジ、ジルウェットの専務取締役の佐伯英介様とおっしゃる方が、い、今、インフォメーションに来られまして。ご面会を申し出ておれるのですが。……はっ、はいっ。わかりました」
 最後の方は彼の声は裏返っていた。
 受話器を置く手もわずかに震えている。
「あの、ど、どうぞ、こちらです。ご案内させていただきます」
 ぎこちなく立ち上がり、皓介と英介を先導してくれる。
 英介は弟に対して「どうだ?」と勝ち誇ったように笑いかけ、皓介の前を歩き始めた。
 内心「今に見てろ」と思いつつ、皓介は兄の後ろについていった。


 緊張を露わにした男たちが皓介たちを出迎えた。
 皓介も緊張はしていたが、何よりも奏が気がかりで、部屋に入るなり隅にぽつりと立っていた奏を見た。
 奏は部外者の登場にも顔を上げることはなく、視線を自分の足元に落としている。
 今にも駆け寄り、大丈夫だと言ってやりたいが、それはできなかった。
 簡単に自己紹介をした後、皓介たちは応接ソファーへと座るように勧められた。ヴィーハイヴの支配人たちも向かいに座る。
「弟がこちらのホテルに滞在していたようで、ご迷惑をおかけしました。その際にこちらのコンシェルジュの方に大変お世話になったそうで、お礼を申し上げに参りました。そのお世話になった方が、あらぬ疑いをかけられて困っていらっしゃるそうで、私の方でその誤解を解ければと、ご迷惑かと思いましたが、やってきてしまいました。もちろん、私どもに対する疑いを晴らすためでもありますが」
 英介の前にはヴィーハイヴの支配人、皓介の前には田所が座っていた。
「今度うちが開催するウェディングドレスショーですが、こちらでも企画が上がっていたとのことですが……その企画は、いつ発案されたものでしょうか?」
「半年前だ」
 田所はソファーに座ると人一倍身体が沈むようで、その分うしろに仰け反るようになっている。見た目だけは偉そうな態度で、英介の質問に答えた。
「いや、田所君、私が君にその話を聞いたのは四ヶ月前だ」
 支配人の訂正に、田所は不満そうに分厚い唇をむっと尖らせた。
「正式には四ヶ月前ということでよろしいですか? では、私は半年前から立案、実行へのプロジェクトができていたことの、証拠を出させていただきます」
 英介は足元に置いていた書類ケースから、いくつかの書類を取り出して、机の上に並べた。
 その様子を眺めながら、皓介はチラチラと奏を盗み見ていた。
 奏は彫像のように動かず、皓介の方を見ることはなかった。ずっと足元を見つめたままだ。
 皓介のことすら拒否するような態度に、皓介の胸は不安が渦巻く。
「これが雑誌社に依頼し、広告料を振り込んだ日付入りの振込み依頼書です。こちらが記事取り消しの際に発生した違約金の振り込み依頼書と、その際の雑誌のゲラです。この後、再度企画を練り直しまして、今の催しの体裁に整えまして、もう一度雑誌に掲載をお願いしたときの契約書と記事見本がこちらです。振り込み依頼書も添えてありますので、ご確認ください」
 失礼しますと言ってから、支配人は英介が説明した順番に書類を確かめていく。
 一枚一枚を真剣に検分して、それらを一つにまとめ、英介に差し戻した。
「ありがとうございました。確かめさせていただきました。我々が疑っていたことが間違いだと認めざるをえません。大変失礼なことをしました」
「まだ私達は直接苦情を言われたわけではない。大事になる前に誤解が解けたことは、幸いでした」
 二人が握手しようと手を伸ばしたのを、田所は「支配人!」と叫んで止めた。
「こいつらが用意した書類の日付が正しいと決めるのは、早すぎるのではないですか」
「しかし、君、これらを疑う要素は何もない」
「いいや、私は確かに半年前に企画していたんだ。それをこいつらが盗んだ」
 とても社会人、しかもホテルマンという職業について部長にまでなった男の言葉遣いとは思えなかった。
「聞き捨てなりませんね。貴方の企画は四ヶ月前に企画されたと、こちらの支配人が証言してくださいましたよ」
「支配人には言ってなかっただけだ。俺は、ちゃんと」
「可笑しなことを仰る。貴方がどなたにも話さなかったことを、どうして私が知り得るというのでしょう。私は超能力のような特殊な力は持ち合わせていませんよ」
 英介は言ってから、くすりと笑った。その笑みに田所は顔を真っ赤にして怒る。
「し、しかしだな!」
「この企画の取材に来たライターさん、うちにこのゲラを返しに来る前に、ヴィーハイヴに寄って、あんたと会ったと証言してくれた。その時に、軽い気持ちで愚痴ったそうだ。はじめて書いた四ページの企画記事がボツになったことを。それを聞いて、もう使わない企画なら、流用しようと思ったんじゃないのか?」
 皓介は膝の上で手を組み合わせて、じっと田所を見つめた。
「しっ、失礼だぞ。侮辱だ。俺は侮辱されたんだ。なんだ? ジルウェットは人を侮辱するように教育しているのか?!」
「申し訳ありません。弟の非は私がお詫びいたします。ですが、弟が調べてきたことは、言葉は悪かったのですが、事実です。それについて、あなたは無実であることを証明できますか? 例えば、半年前に思いついたことを、何か文書に残しておられたとか、誰かに話したことがあるとか。その誰かは、超能力者以外で証人を立ててほしいですがね」
 英介が平然と嫌味を言うので、皓介まで笑ってしまう。相手の支配人も口元を拳骨で隠して、笑いを堪えているようである。
「どっ、どこまで馬鹿にするつもりかっ! そ、そうだ、俺はあいつに話したんだ。あいつはお前らが引き抜こうとしていたんだろっ。その手土産をもってこいと言ったんじゃないのか。その手土産によって契約金を引き上げるとでも言ったんだ。そうだろ?!」
 田所は立ち上がり、顔に血を昇らせて、奏を丸く太い指で指差した。
 皓介たちはその前後すらも考えられない保身ぶりに呆れたが、奏はそれでも動くことはなかった。わずかにその指を避けたいように、顔を斜めにうしろ向けただけだった。
「確かに、我々は彼を引き抜こうとしましたよ」
「そら、みろっ!」
「私が彼に接触したのは一度だけ。その日付は三ヶ月前ですね」
 英介は立ち上がった田所を哀れそうに見上げた。
「これがその時に使ったレストランの領収書。経費扱いになっているから、正式な文書として通用する。そのレストランの店長も挨拶にきたらしいから、その証言はしてくれると言ってる。呼ぼうか?」
 皓介の言葉の後に、英介も続ける。
「それ以後に弓場さんに接触したのは、プロの交渉人です。信頼の置ける調査事務所に依頼しました。こちらがその時の依頼書と、調査事務所からの結果報告書です。我々の引き抜き交渉と、今回の企画とはまったく関係ないことがわかっていただけると思いますが、田所さん、これでは私の方が貴方を侮辱罪で訴えなくてはならなくなる」
 英介は落ち着き払いながらも、冷たい口調で突き放すように言い切った。
「弓場さんは我々の話を断った。同じホテル業界に生きるものとして、そんな部下を持つことは喜びだと思うのですが、田所さんは違うのですか?」
 田所はブルブルと身体を震わせた。
「田所君。この説明は後で聞こう。どうやら、私は、弓場君やこの方たちより、君の釈明を聞かなければならないようだ」
 説明ではなく釈明と言われたことにも気づかず、田所はどかどかと足を踏み鳴らして、部屋を出て行ってしまった。もちろん挨拶もなければ、謝罪もなかった。
「申し訳ありませんでした。このお詫びはいずれ改めまして」
「今戴きたいのですが……、それは諦めましょう。ご本人が望まないものを、無理に引っ張って行くことはできない」
 英介は奏を見た。
 皓介も立ち上がり、奏を見ていた。
「弓場君、これが最後だ。もう一度君に聞こう。ジルウェットに行ってくれないか?」
 支配人の言葉には、奏よりも皓介の方が驚いた。奏は聞きたくないとばかりに、首を振っている。答えはNOなのだろう。
「どうして貴方が奏さんに、移籍を勧めるようなことを言うんだ……」
 皓介の問いに支配人が答えるより早く、それまで口を硬く閉ざしていた奏が叫んだ。
「白々しい! 何もかも知っていたくせに!」
 罵声を、それも思わぬ相手から浴びせられて、皓介は立ち竦んだ。
「ヴィーハイヴも、ジルウェットも、どちらも辞めます」
 奏はそう吐き捨てると、支配人室を飛び出していった。



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