私の空は貴方の瞳の中に




 −いいだろう。お前の望みを叶えてやる−



 バタンと腹立ち紛れにドアを閉めると、母親が眉をひそめてリビングから出てきた。
 家政婦の弓子は何事かとキッチンから飛び出してきたが、皓介の姿を認めると、「またか」という顔をしながらも「お帰りなさいませ」と抑揚のないお愛想だけの声を残して、キッチンへと戻っていった。
「皓介、いい加減になさい。いったい、いくつだと思っているの、情けない」
 母親の小言に、皓介は「親父は?」と尋ねる。
「お仕事に決まっているでしょう。大学生には暇な時間でも、お父様は忙しい時間よ。英介も庸介も美土里も仕事です」
「俺だって、遊んでいたんじゃねーよ」
 兄二人と姉まで持ち出されて、皓介は不貞腐れる。
 時間は夜の十時。皓介だとて、今までアルバイトをしていた。決してフラフラと遊んでいたわけではない。
 母親は頭二つ分は上にありそうな皓介を睨みあげる。
 皓介は身長が196センチ。洋風建築の重厚なこの家でさえ、部屋の出入りには頭を下げなくてはいけない。
 兄弟4人の中でも一番背が高くなったが、それを兄たちは「遠慮がないから」と馬鹿にする。
 下から見上げられても、母親の視線には逆らいがたいものがある。
 ブツブツと口の中で言い訳をして、皓介は部屋に戻ろうとした。
「お父様に何の用事なの? そんなに怒って帰ってきて」
「別に。親父が帰ってきたら話すよ。何時でもいいから呼んでくれよ」
 今度こそ母親の咎める視線を振り切って、皓介は自分の部屋へと駆け込んだ。

「いいだろう。お前の望みを叶えてやる」
 深夜、日付も変わる頃に戻ってきた父親に、皓介は自分の怒りをまくし立てた。
 父親の経営するホテルでは働きたくない。
 自分には自分のしたい仕事がある。
 兄たちのように父の決めた企業に出向したくない。
 大学を卒業したら自由にさせてくれ。
 胸のうちをぶちまけると、父親は呆れたように「いったいどうしたんだ」と尋ねた。
 その言い方があまりにも子供を宥めるような、小馬鹿にしたような言い方だったので、皓介はますます苛立ちを募らせた。
 たまたま今日に限って、大学でも、アルバイト先でも、「佐伯は就職活動なんてしなくてもいいもんな」と言われたのだ。
 大学三年。今はもう四年生になってからの活動では遅いくらいだと言われている。三年のうちに当たりをつけ、四年に入るなり内定を貰うくらいでなければ、いいところへの就職は厳しい。
 それぞれに内心が焦りを感じ始めていて、皓介もその例外ではなかったのだが、皓介の出自を知るものは、彼がいくら自力で就職先を見つけるのだと言っても、本気にしてくれなかった。恰好つけているだけと思われ、中にはあからさまに馬鹿にするものもいた。
 アルバイト先はKデパートで、そこで皓介は輸入家具コーナーに配属されている。皓介としては真剣に輸入家具の店を持ちたいと考えていて、できればその勉強のためにもこのままデパートに就職したいと思っていたが、フロア長はとんでもないと首を振った。
 希望する部門に配属してもらうため、アルバイトを始める時に父親のコネクションを使ったのがまずかったらしい。皓介は坊ちゃん特有の気侭なアルバイトと思われていたらしい。
 店員以上に勉強をし、売り上げも伸ばし、皓介に相談する客もついているというのに。
 フロア長は引きつり笑いをしながら、家に帰ってよくお父様と相談してね?と言った。
 親父は関係ありませんと何度も言ったが、そうするとお父様の許可が出ているのかと聞き返してきた。
 そんなにホテル『ジルウェット』の名前が怖いんだろうかと不思議に思ったほどだ。別にジルウェットはこのホテルと業務上の提携はないはずである。だからこそ、安心してアルバイトをしていたのだが。
 挙句の果てに「ホテルに勤めるのが一番いいと思うよ」とまでアドバイスされて送り出されたのだ。
 絶対ホテルに勤めるつもりはないんだ、俺を自由にしてくれと言った皓介に、父親は呆れながらも、至極落ち着いた様子で、お前の望みを叶えてやると言った。
「へ? いいの?」
 勢い込んでいた皓介は、あまりにあっさりと父親の優介が許可の言葉を告げたので、思わず聞き返してしまった。
「聞き返すな、みっともない。ジルウェットは英介と庸介がいるから大丈夫だろう。だからお前は自由にしていい。そこまで言うのならば」
 それを聞いて皓介は俄かに顔に喜びを広げていく。が。
「ただし、一つだけ条件がある」
 机の上に両肘をついて手を組み、そこに顎を乗せて皓介を見つめた。
「条件……、って何?」
 訝しそうに尋ねた皓介に、思わせぶりに笑ってから優介は組んだ手を解き、机の引き出しから一枚の写真を取り出し、それを皓介の前へと滑らせた。
 見ろと顎で指されて、皓介はその写真を手にとった。
 一人の青年が写っていた。
 紺色のスーツを着て、真面目な顔をしてこちらを見ている。背景は真っ白で、どこかの写真館で撮ったものかもしれない。見合い用かと思うような写真である。
 青年は、写真を通しても、その綺麗さがよくわかった。
 短めの髪は綺麗に櫛を通されているが、少し落ちてきた前髪で優しい印象になっている。
 丸みをもった眉と目は彼を幼く見せているが、瞳の中に理性的な光と強さが見えるような気がした。
 鼻も唇も小さめで、女性的な印象を与えるが、全体的には知的で落ち着いた外見をしている。
 整った美しい容姿。誰が見てもそういうだろう。
「これは?」
「どう思う?」
 質問に質問で返されて、皓介はむっとしながらも、もう一度写真を見た。
 綺麗な男。自分よりは年上だろうが、それがどうしたというのだろう。と思ってはっとした。
「あ、もしかして姉貴の? 俺の義理の兄になる予定の人? 身元調査でもしろって?」
 気のきついところのある姉と並んだところを想像して含み笑いをしてしまう。完全に尻に敷かれるなと思って。
「違う。いや、それもいいか。その人物はゆばかなでという。弓矢に弓に、場所の場。演奏の奏で奏。ホテル『ヴィーハイヴ』のコンシェルジュだ」
「ヴィーハイヴ?」
 父親の口から出てきたライバルホテルの名前に、皓介は軽い笑いを消して眉を寄せた。
「彼を引き抜いて来れたら、お前を自由にしてやる。お前の代わりの人材を連れて来い。それがお前の自由への条件だ」
 父親の言葉を聞きながら、皓介は写真の人物をじっと見つめた。
「お前は知らないだろうがな、実は昨年、うちの優秀なコンシェルジュをヴィーハイヴに引き抜かれてしまったんだ。それまで業績やメディアの講評などでうちがヴィーハイヴを引き離しにかかっていたんだが、引き抜きがあってから苦しくなっている。今年度は逆転されるかもしれん。だった一年でだ」
「だから、もう一度引き抜いてこいと?」
 写真の彼、弓場が引き抜かれたコンシェルジュなのかと思った皓介だったが、優介は小さく首を振った。
「引き抜かれたのは別の人物で、現在はヴィーハイヴでフロントの責任者になっているらしい。彼をこちらに戻すのは無理なんだ。だが、彼が育てたコンシェルジュなら間違いがないだろう」
 ジルウェットにも引き抜かれていった人物が育てたコンシェルジュはいるのだが、その人物の穴埋めをするだけで精一杯なのだという。必然的に、他のコンシェルジュを育てる余裕はなく、今そちらはてんてこ舞いなのだという。
 もう一人いれば、新しい人材を育てる余裕も出てくるので、それならば、意趣返しに向こうで育てた人物を引き抜いてくるのが、一番ロスが少ないと優介は考えたらしい。
「どうだ? やってみるか?」
「引き抜きなんて……ヘッドハンティングのプロを雇ったほうがいいんじゃないのか?」
「もうやったさ。断られたんだ。自分たちは引き抜いたくせに、反対には大変な神経の遣いようらしい。案外素人が別の方向から話を持ちかけるほうが上手くいくかもと思ってな。どうする?」
 どうすると聞かれても、やるしかない。父親のことだ、第二の案を出せば、男らしくないと馬鹿にするに決まっている。
「それは、どんな方法でもいいってことだよな?」
「どんな方法でも構わない。ただし期限は2ヶ月だ。それが今年度の業績を取り返すギリギリの時間だ。それより遅れれば、今年度のジルウェットの敗北が決まってしまうと言っても過言ではないだろう」
「二ヶ月……」
 それは長いのか、短いのか。皓介には全く判断ができなかった。
「アルバイト代も出してやろう。必要な経費も認める。なんとしても、彼を引き抜いてこい」
 皓介はもう一度、と写真に目を落とした。
「わかった。やってみる」
 皓介はうんと頷いて、父親の書斎を出た。



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