朝一番に出勤した倉持は、オフィスに真央の姿を認めて驚いた。自分より真央 が先に来ることは珍しいのだ。
「もしかして泊まられたんですか?」
 目をこすりながら朝の挨拶をする真央に、倉持は心配そうに声をかける。
 最近の真央は決して泊まったりしない。どんなに仕事が忙しくても、仮眠程度 でも、真央は必ずマンションへと帰るのだ。なぜならそこに、どんな精神安定剤 よりも真央の気持ちをやわらげてくれる存在がいるからだ。
「うん……。しばらく……泊まるよ」
 歯切れの悪い真央の返事に、倉持は眉を寄せる。
「よろしいんですか? その、あちらの方は」
 名前を出さないように、倉持は慎重に尋ねた。真央の大切な存在。その人をい かに大切にしているかは、真央の普段の言動から容易にわかる。
「あっちも忙しいんだ。……しばらく帰ってこないらしいから」
 辛そうに言う真央に、何か深刻な原因があるのではと聞こうとしたが、すぐに 社員が出勤し始めて、真央も顔を洗って着替えてくるからと出て行ってしまった。
 その後ろ姿を見送って、倉持はどうしたものかと考えた。
 もしも二人の別居が私的なものならば、自分の立場からは口を挟めないし、挟 むことではないと思う。
 けれどこのタイミングで二人の間に何かがあるとは考え難い。詳しくは知らな いが、二人が長い時間会えなくて、その間に様々なことを乗り越えたことを、真 央の近くにいた倉持は知っている。
 真央はひたすらにという言葉がぴったりなほど、相手を大切にしているし、唯々 諾々と別居を受け入れたとは思えない。
 何かがあった……。
 ……でも、何が?
 真央の大変なこのときに、こんなにタイミングよく?
 原因があるとすれば、今回のあの件だろうか。そうだとすれば……。
 倉持は唇を引き結び、険しい目をして、自分もオフィスを後にした。

 弟子たちが忙しく行き来する中、聡寿は静かに息を吐いた。
 一晩こちらに泊まっただけで、重い何かが身体の中に溜まっていくような気が する。
 自分に笑いかけてくれる人が傍にいない。それだけで一つのことをするにも疲 れを感じてしまう。
 京都にいたころ、どうやってこの憂鬱さをやり過ごしていたのかをもう思い出 せない。こんな日がずっと続くのなら、きっと耐えられないとまで思ってしまう。
「大丈夫ですか?」
 心配そうな声が横からかかり、聡寿は咄嗟に微笑みを浮かべる。自分のために 同じようにここに泊まりこんでくれ、色々と連絡を取ってくれている門田にこれ 以上の心配はかけられない。せめて自分の心配だけはしないでいいのだと、そう 見せるために。
「大丈夫です。門田さんは今夜からは家に帰ってくださいね。心配をかけるとい けないから」
 聡寿の優しい言葉に、門田は困ったように笑う。聡寿が無理をしていることは 痛いほどわかるのだが、自分もそうそう家を空けると心配なことがある。
「なんとかすぐに通常の生活に戻れるようにいたしますから」
「うん……。でも、本当は僕は、……ここに住んでいるはずなんだから」
 聡寿は力なく笑う。公式に発表されている聡寿の正式な住所は、この瀞月流東 京支部の事務所の中にある。どこに聞かれてもそう答えているし、調べられても ここしか出ないはずである。
 いったい誰が情報を漏らしたのか。いや、嘘の情報を流したのか。そこが掴め ないことには、手の打ちようがない。
 後援会のつてを頼りに、記事だけはすぐに差し止めることができた。
 いとも簡単に、編集部は最初の交渉で記事を載せないことに応じた。まるでそ の記事を載せる気持ちなど最初からなかったのではと疑わせるほどに。
 代わりの情報や今後の公演の優遇などという、駆け引きの必要もなかった。
 それが門田の疑問をますます大きくする。
 正式な情報としては裏づけのないもの。たとえ聡寿があのマンションに出入り していたとしても、瀞月流の名義で一室を借りているのだから、まずいことはな い。
 竹原真央という建築家がコンペに参加し、聡寿がその建物柿落としをするとい っても、聡寿自身はコンペにはまるっきり関わっていない。
 一応スキャンダルを載せられたくない瀞月流としては、念のため聡寿が本来の 住まいである事務所から動かないという処置をとったが、それで困る人といえば、 聡寿と真央だけ。こうも簡単に記事を抑えられたとしたら、それもあまり意味が あったとは思えない。
 だからこそ狙いがわからず、不気味だとも言えた。
 実際のところ、昨日の夜も聡寿に帰られますか?と門田は尋ねた。そうしても 大丈夫だと判断できたのだ。
 それに対して聡寿は、少し考えた後、静かに首を横に振った。
「しばらくは……誰にも迷惑はかけたくないから」
 怖いのだ。
 一度失くしたもの。手放さなくてはならなかったもの。
 耐えるだけの長い年月。励ましあうこともできなかった。
 普通ならたどりつけなかった幸せ。
 だからそれを再び失くすのが怖いのだ。もう失いたくない。
 そう思うと、門田は今回の見えない敵に怒りがわいてならなかった。
 お前にわかるのかと、声の限りに罵ってやりたいとすら思う。
「門田先生、お電話です」
 弟子の一人が電話の子機を差し出す。門田は目で相手が誰かを問う。
 弟子の告げる名前に聞き覚えがなく、門田は訝しげに「もしもし」と慎重に話 しかけた。

 紙に線を引くと、鉛筆があのフォルムを追いかける。
 自分がずっとあたためてきたデザインなのだ。
 いつかきっとと夢に見て、それだけを心の支えに、会えない年月を耐えてきた。
 このデザインは真央にとって、聡寿そのものだった。
 それを横から奪われて、真央は悔しくて悔しくて、今にも吉田のところへ殴り こみたくなる。叫んで、殴って、ぶち壊してくれば、どんなにすっとするだろう かと思う。
 けれどそれで何が解決するだろう。
 あのデザインはもう返ってこない。
 聡寿を奪われたような気持ちになってしまい、真央は描いたばかりの紙を両手 で握りつぶしてしまう。
 落ち着けと自分自身に言い聞かせる。
 聡寿は傍にいる。京都に奪われたわけではない。帰ってこないわけじゃない。
 あの長い試練に比べたら、今堪えられないはずなどない。
 自分も……聡寿も大丈夫。
 吉田や、誰だかわからない妨害に屈しなどしない。
 ……誰だかわからない?
 真央はその違和感にはっとする。
 いかにも自分をこのコンペから降ろさせようとするような罠。それを吉田と、 もう一人別にいるなどと思うほうがおかしい。
 別の存在などない。あいつしか考えられない。
 あの時、確かに吉田は聞いたのだ。
『なあ、お前、今もあの国文科の綺麗な男と付き合いがあるのか?』
 それに対して自分はとぼけてみせた。吉田は尚も言ったのだ。京都の由緒ある 家だとか、名前が難しすぎて覚えてないとか。
 名前が難しいなんていうのは、吉田こそ覚えているからではないのか。村社の 名前を知っているから、難しくて覚えていないと言えたのだ。
 吉田がすべての事を起こしたのだろう。
 真央のデザインを盗み、聡寿を遠ざけることで、真央に追及の手を伸ばさせな いように画策した。
 それに自分は上手く嵌められた。
 絶対に、絶対に負けたくない。
 真央は唇を噛み締める。手を握り締める。
 絶対に負けない。
 そう思うのに、どれだけ線を重ねようとも、あれ以上のデザインを描けない。
 二日、三日と時間ばかりが過ぎていく。
 さすがに倉持も心配になり、家に帰ってはと勧めるのだが、真央は怖くて帰れ なかった。聡寿のいない事実が、真央を過去へ連れ去りそうな不安を呼ぶ。
 聡寿のいない部屋へは、二度と帰りたくない。
 真央は大丈夫だからと笑う。その笑顔を倉持は痛々しそうに見つめる。
 時間は無情に過ぎ、締め切りが近づいてくる。
 諦めろという甘い囁き、諦めるなという強い励ましが同時に聞こえてくる。意 地と焦り、諦めと悔しさ、自分でも処理しきれない感情が渦巻き、真央の精神を 蝕んでいった。
 ……もういいよ。
 ……すべて投げ出して、連れて逃げよう。
 ……今の二人には、捨てても困るものなどない。
 ……あの時背負っていたものは、すべて降ろしたんだから。
 悪魔のような囁きに、真央は笑みを浮かべる。
 顔を上げると、オフィスの窓の外に、大きな月が浮かんでいた。
「聡寿……、一緒に逃げよう」
 月に向かって話しかける。
 真央は笑って、月に手を差し伸べた。
「いいよ。逃げても」
 潜められた優しい声に、真央は振り返った。







「いいよ。逃げても」
 優しい声に、真央は驚いて振り返った。
「聡寿……」
 ドアのところに聡寿が立っていた。
「い、いいのか? えっと、その、またどこかの記者に狙われたら……」
 会えて嬉しいのに、すぐにも抱きしめたいのに、真央は聡寿が無理をしている のではないかと、それが心配で駆け寄れない。
 それに、抱きしめたら消えてしまうのではないかという不安もある。
「裏口から、後援会の人の車に乗せてもらって抜け出してきた。途中で乗り継い で、秘書の倉持さんにここの地下駐車場から入ったから、誰にも見られてない」
「倉持さんが……?」
 真央は一歩、また一歩と聡寿に近づいていく。
「色々話してもらった……。……真央……」
「聡寿」
 何かを言おうとする聡寿をぎゅっと抱きしめる。会えなかったのはたった五日 ほどのことなのに、抱きしめる手が震える。
 二度とこの温もりを失くしたくはない。
「家に帰ってないんだって?」
 きつく抱きしめられた腕の中は息苦しいほどだったが、それよりも喜びの方が 強かった。
「聡寿がいない部屋は……広いんだ。広くて、寒い」
 ずっと一人で住んでいたはずなのに、一人の空間がたまらなく寂しい。
「身体、無理してるんじゃないのか?」
 泊り込んでいる真央を心配して、聡寿は頬に手を伸ばす。疲れきった真央の表 情に眉を寄せる。
「大丈夫。もう全然平気。こうして聡寿を抱きしめたら、元気満タンだよ」
 頬に添えられた手に、真央は口接ける。
「真央……」
 離れていたくなんかない。もうこの身体を離したくない。
 二度と離さないと決めたんだから。
「逃げる? 今なら全部捨てられる」
 昔、叶えてあげられなかった願い。命を捨ててでもと望まれた願いは、今なら 何の障害もない。
「聡寿……」
 真央は聡寿の肩を掴んで、身体を離した。真剣な表情で聡寿を見つめる。
「本気だよ。真央が望むのなら、すべて捨てて、この身一つだけやけど、あんた にあげられる」
「聡寿!」
 真央は聡寿を抱きしめ、唇を重ねた。
 何度も何度も口接け、それでも足りないとばかりに、きつくきつく抱きしめる。
「もう、コンペティションには出ないんだろう? 家に帰ろう」
 このままでは真央が身体を壊す。聡寿はそれを心配した。
 けれど真央は首を振った。
「真央?」
「あのデザインは駄目になったけど……。でも、どうしても、諦めたくないんだ」
「けれど、新しいデザインはできていないんだろう? 締め切りだって、もう目 の前なんだろう? これ以上無理をして欲しくないんだ。あんた、身体を壊すよ」
 真央は悲しそうに笑って、それでも首を横に振る。
「最高の舞台を、聡寿にプレゼントしたいんだ。この機会を逃せば、二度とチャ ンスはないと思う」
「でも、もう……」
「頑張るから。聡寿に心配かけないように、頑張るから」
「さっきは逃げようって言ったくせに」
 聡寿は泣き出しそうに顔を歪ませる。真央も同じように泣きたい気持ちで、そ れでも笑顔を作る。
「聡寿が逃げてもいいって言ってくれたから、俺は頑張れる。絶対負けない」
「真央……」
 聡寿は目にいっぱい涙をためて、真央にしがみついてきた。
「諦めたくない。頑張るよ。もう少し……待ってて」
 聡寿の背中を抱きしめながら、真央は落ち着いた口調で話す。
「あほや、あんたは……」
「うん、ごめんな」
 真央の謝罪に聡寿は小さく笑った。

「ありがとうございました」
 聡寿がドアの向こうに消えるのを見届けて、倉持は佳人に付き添って来てくれ た人に深く頭を下げた。
「止して下さい。お礼を申し上げるのは、私の方です」
 門田は慌てて倉持を止める。
「スキャンダルの方も揉み消していただいて、なんとお礼を申し上げていいのか」
 倉持は重ねて礼を述べた。
 門田たちの情報と力がなければ、竹原建設もスキャンダルから逃れられなかっ ただろう。
 倉持は真央から聞かされていた大切な人の、一番近くにいて見守ってくれてい た人の名前を思い出し、無茶を承知で瀞月流へと電話をかけた。
 会社に泊まりこみ、ほとんど眠れないまま仕事を続ける真央に、これ以上は無 理をさせられないと判断した。
 取り次いではもらえないかもと思ったが、出てくれた相手に、現状を説明した。
 真央のことを学生時代から知っているといった相手は、倉持の依頼をあっさり と引き受けてくれた。
 そして、倉持がこれからしようとしている事に、手を貸してくれるとまで言っ てくれたのだ。
「本当にご迷惑ではないのでしょうか」
 倉持の心配に、門田は穏やかな笑みを浮かべる。
「我々流派の皆も、今回のことでは少々立腹していまして。少し調べてはみたの ですが、どうもこちらとのつながりは調べようがなくて、困っていたところなの です。ですから、情報をいただけてありがたいと思っております」
「そう言っていただけると助かります」
 思い切って電話をして本当に良かったと、倉持は胸を撫でおろした。
「お二人がどれだけの苦しみを乗り越えてきたのか、その年月の痛みもわからな い相手には、それ以上の苦しみを与えてやりたいと思うんです」
 穏やかな口調で恐ろしいことを口にした門田は、二人のいる部屋のドアを見つ める。
「純粋に生きようとする人たちを、汚いやり方で利己的利潤を追求するやつは、 許せないと思います」
 倉持もまた、同じようにドアを見つめる。
 久しぶりに会った二人が、幸せでいられるようにと願いながら、さらりと怖い ことを言った。

 真央の描き散らしたデザインを眺めて、聡寿は首を傾げた。
「なんだか、どうしてもまとまんなくてさ」
 苦笑とともに、真央は言い訳めいた口調でデザインを集める。
「前見せてもらったのに、似てる」
「うん……。だってな……、俺の聡寿のイメージなんだよ。これ」
「僕の?」
 驚いて見上げてくる聡寿に、真央は一枚のデザイン画を見せた。今となっては どこにも出せない、あのデザインである。
「聡寿は昔、自分のことを月に例えてただろう? 俺も、聡寿は静かな月の光に 似ていると思ってた。だから、この形にしたかったんだ。聡寿は野球場みたいだ って言ったけど」
 説明されてじっくり見ると、確かに月をイメージしているとわかる。デッサン だけの時にはドームにしか見えなかったが、デザイン自体も手直しされ、着色さ れるとこんなにも綺麗になるのかと感動するほどだった。
「この丸みからは離れたくないんばかりに、デザインが決まらなくて」
 諦めたくないと言ったときにはあれほど強気だったのに、どこか気弱な台詞が 出てきてしまう。
「これもいいけど……、でも……」
「でも?」
 真央はデザイン画を丸めながら、聡寿に聞き返した。
「僕のためにデザインしてくれるのなら……」
「うん、聡寿のために造る」
 真央の迷いのない台詞に、聡寿は一つの願いを口にした。







 倉持が出勤すると、奥の机からもぞもぞと起き上がる影があった。
「あー、おはよう、倉持さん。いつも早いねー」
 真央は大きな欠伸をすると、両手を持ち上げて、うーんと背筋を伸ばした。背 中の筋肉がバキバキと音をたてる。
「真央さん、帰られなかったんですか?」
 倉持は自分の上司の姿に驚いて声をかけた。
 昨日の夜、真央と聡寿を会わせたあと、倉持は先に帰ることにした。今日は朝 からアポイントメント取った取引先を順番に回ることにしていたので、門田に断 って先に帰らせてもらったのだ。
 てっきり二人はそのまま、門田に送られて自宅に戻ったものと思い込んでいた。
「あぁ、うん。デザインをなんとか形にしたかったしね。締め切りまで時間がな いし、もうしばらく泊り込むよ」
 真央はほぼ徹夜なのに、妙にすがすがしい笑顔を倉持に向ける。何もかも吹っ 切れたような、真央らしい笑顔である。
「ですが真央さん、もう帰られても大丈夫ですよ。マスコミの方は抑えられます」
 門田の方は今日からそのために動いてくれることになっている。
「うん、それも聞いたけどさ……。けじめって言うのかな。もう誰にも迷惑かけ たくないんだ。これは俺が勝手に申し込んでいるコンペだしさ。だから、きっち り仕上げて、堂々と家に帰るよ」
「よろしいのですか? その、……あの方は」
 曇りのない明るい表情だが、倉持は昨日会った綺麗な人が気になった。あの人 は一人でマンションでこの上司の帰りを待っているのではないだろうかと。
「大丈夫。二人で話し合って決めたからさ。あいつも向こうでしばらく泊まるこ とになってる。昨日まではさ、俺が一人で乗り越えなくちゃならないような悲壮 な覚悟だったんだけど、これからは二人で乗り越えようって」
 そう言ってはにかむように笑った真央に、倉持も頬が緩む。
「それなら、さっさと仕上げないといけませんね。いつものように粘っていたら、 締め切りを過ぎて、一生帰れないことになりますねぇ」
「え……、っ! 倉持さん、相変わらず、きっつい嫌味だなぁ」
 真央はそれが倉持独特の励ましだとわかっているので、ひゃーと笑いながら、 顔を洗ってくるよと、部屋を出て行った。
 倉持はその背中を見送ってから、電話を取った。
 今日からは倉持本来の手腕が試される。真央を守るため、そして、卑劣な手を 用いて真央の大切な作品を奪った者を許さぬため、密かな戦いが始まる。
 それは必ず勝たねばならない。
 そして真央に知られてもいけない。
 あの太陽のような笑顔に、一点の曇りも残したくないのだ。
 倉持は電話をかけ終えると、そっと一人、部屋を後にした。

 聡寿が事務所で泊り込むようになってから、同じように泊り込む弟子の数が増 えていた。
 それぞれが聡寿を守るのだという使命感でいっぱいになっているのだが、それ が正しく聡寿に伝わっているのかはあやしいところである。
「聡寿さん、今日は一日外回りに出ますので」
「? 何か予定がありましたっけ?」
 門田に告げられて、聡寿は首をかしげた。自分も出かけなければならないのな ら、着替えなくてはならないと、腰を上げる。
「あ、聡寿さん、今日は私一人で出かけます。聡寿さんは稽古を見てやってくだ さい」
「いいのですか?」
 確かに、外部との折衝となれば、聡寿の役に立つことは少ない。聡寿が同席す れば、箔がつくと考える相手だけに会えばいいのだ。最近はそんな相手も少ない。
 門田が純粋に瀞月流を後援してくれるという相手を選別しているからだ。
「はい。近いうちに、良い結果をご報告できるように頑張ります」
 門田の含みのある言葉に、聡寿は今、何か流派の大切な行事が近かっただろう かと考える。
「聡寿さんはご心配なさらずにお待ちください」
 門田がそう言えば、安心していいのだと、聡寿はわけがわからないながらも、 ゆっくりと頷いた。
「門田さんもあまり無理をしないで下さいね」
「ありがとうございます」
 門田は深く頭を下げて、事務所を出て行った。慌しく弟子たちが見送る。門田 は自分が留守の間のことを色々と指示を残し、自分で車を運転して出て行った。
「とりあえず、休憩にしようか?」
 あまりに弟子たちが緊張しているので、聡寿がにっこり微笑んで声をかけると、 うんと頷きかけた弟子は慌てて首を横に振る。
 そんなことをしていては、門田に言われたことをこなせないと判断したのだろ う。
「そんなに頑張らなくても大丈夫だよ?」
 聡寿に言われて感激する間もなく、弟子たちはわらわらと自分の持ち場に戻っ ていくのだった。

 家には戻れないが、その分を埋め合わせるように、真央は聡寿へと電話をかけ た。
 会えない、顔を見れない辛さは、二人の場合すぐに不安に直結する。けれど、 今は不安を凌ぐだけの決意があった。守り抜く自信もある。
 すべてを捨てて逃げてもいいと言ってくれたのが、聡寿の本心だと信じられる し、その覚悟で臨むなら掴めないものはないと確信していた。
 どうしても線を引けなかった新しいデザインが、今は嘘のように頭の中にそれ が出来上がっていた。
 あとはそれを形にするだけだ。
 それももう難しいことではない。問題があるとすれば、残りわずかな時間との 追いかけっこだった。
 どれだけ睡眠をとっていなくても、真央は疲れを感じなかった。身体は疲れて いたが、それが辛いとは感じなかった。
 とにかく仕上げる。そのことだけが頭の中をしめていた。
 辛くなれば聡寿の声を聞く。
 決して真央からは弱音をはかなかったが、聡寿は敏感にわかってしまうらしく、 言葉の端々に優しい温かみを感じることができた。
 それがどれだけ真央の力になっただろうか。
 どんな励ましよりも、聡寿の「無理をするなよ」の言葉が真央の疲れを払い除 けてくれた。
 設計図と設計CG図面。普段なら外注に出す出来上がり完成模型も、学生時代 以来ではないかと思いながら、真央は自分で仕上げた。
 今回の図面は一切誰にも見せなかった。
 犯人がわかった今、特に誰も疑う必要はなかったが、倉持にさえ見せなかった。
聡寿に見せていないものを誰かに見せようと思えなかったのだ。
 提出締切日の朝、すべてが揃った。
 朝日の中、真央は完成模型を見て、たとえ選ばれなくてもこれでいいと、満足 していた。
『月なんて僕は見たくない。僕は真央の太陽のような暖かい劇場の中で舞いたい んだ』
 あの日、あの夜、聡寿が真央に告げてくれた本心。
 それを聞いて真央は盗まれたデザインを真の意味で捨てられた。
 過去の、二人があの別れをしたときの建物を建ててはいけないと、わかった。
 現在、そしてこれからの二人のための、未来を創らないといけないのだと。
「聡寿、できた。できたよ」
『おめでとう』
 電話の向こうの優しい声に、真央はほっと溜め息をついた。
 理由のない涙が一滴、頬を伝った。



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